音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

    

アーケイド・ファイア(Arcade Fire)に学ぶ、現在を象徴する「すべてが今である」という世界観とは

20170901

 アーケイド・ファイアでInfinite Content。



 アーケイド・ファイアの最新作「Everything Now」。今聞いていただいたのは、1分38秒の非常に短い曲なのですが、Infinite Content、無限のコンテンツという内容の曲です。こんな歌詞です。

  無限のコンテンツ
  無限のコンテンツに僕たちは限りなく満たされている
  君はすでに有り金をはたいてしまった
  君はすでに有り金をはたいてしまった
  無限のコンテンツ
  無現のコンテンツを手にした僕たち
  無限のコンテンツに僕たちは限りなく満たされている
  すでに君は有り金をはたいてしまった
  無限のコンテンツに

 このアルバムのテーマはまさにタイトル通りのEverything Now。すべてが今であるというメッセージなんですけれども、そのひとつの断面を象徴する、まさに僕たちは無限のコンテンツを持っていて、ありとあらゆるコンテンツが手に入る。昔は書店に行って本を買って、物がなければ注文して、でも絶版でそれもなければ云々とか、映画を見ようにも昔の映画は手に入らず、DVDも出ないで、名画座であと3年後に回ってくるのを待つかみたいなのどかな時代だったわけですよ。無限のコンテンツなんて手に入らない。けど、今はどんな形にしろ、それこそ廃盤になってしまったクラシックロックもクラシックポップも、ネットを探せばすぐに手に入れることができて、ましてや見た事もないような映像まで手に入るという時代にあって、まさにInfinite Content、我々は無限のコンテンツに囲まれながら暮らしている、僕たちはそれに有り金をはたいてしまう、そういうシャープなナンバーなんですけれども、今回のアーケイド・ファイアの今の時代とはどういう時代であるのかっていう世界観が非常に象徴的に歌われております。僕は、彼らの「The Suburbs」というアルバムが出た時にすごいと思ったんですよね。まさにあそこで歌われていた彼らの世界観というのは、世界が郊外になっている、すべてが郊外化しているという。これはすごいなぁと思いました。ちょっと郊外に出たショッピングモールの絵は、日本でも、中国でも、それこそナイジェリアでも、あるいはヨーロッパにおいても、みんな似ているんですよね。全世界で均一な郊外が存在しているというSF的で怖い世界観というのが、まさに今の世界を象徴しているという彼らのメッセージは見事なものだったと思います。今、アーケイド・ファイアが僕たちに示している世界観は、すべてが今であるという。とにかく今、すべてを手に入れなければならないという僕たちの欲望。そしてそれが実現されることによる、ある意味での不幸、みたいなものがテーマになっております。このアルバムを象徴するEverything Nowという曲を続いてかけようと思います。

  道路は標識ですきまなく埋め尽くされ
  少年たちは一人残らず同じフレーズを使い
  僕はすべてにいますぐ忠誠を誓う
  そして今までに僕がきいてきた曲が
  ひとつのこらずいっせいに鳴っている
  とりとめとなく
  その様子が僕に思い出させるのさ
  すべてを今すぐ
  さあスピーカーが壊れるまで音量を上げよう
  君がほほ笑む時はいつもフェイクだから
  見せかけはやめてくれ
  君がもっているかのように
  今すべては僕には必要ない
  すべてが今欲しいんだ
  すべてを今
  生きていけない
  すべてが今なければ生きていけない
  すべてが今なければ
  すべてが今なければ
  道路のいたるところが街に開発しつくされているのに
  父さんどうしてあなたはいつまでたっても来てくれないんだ
  今何につけてもあなたが恋しいよ
  母さん食べ物をコンロの上に置きっぱなしにして
  道のど真ん中に車を乗り捨てて
  この幸せな家族は今すべてを手にしているんだ
  さあスピーカーが壊れるまで音量を上げよう
  君がほほ笑む時はいつもフェイクだから
  見せかけはやめてくれ
  僕の部屋は一つ残らずなくては生きていけない物でいっぱいになるまで
  僕には必要なんだ
  すべてが今
  すべてがなければ生きていけない
  すべてが今なければ
  すべてが今なければ
  また暗闇にはまってしまった
  もう元通りには戻れない
  すべてを今手に入れなければ気が済まない


  
 まさにこれはABBAかと思うくらいにポップなナンバーで、すごい曲で来たなぁという感じなのですが、歌われているのは今聞いていただいたように、まさに今の時代に対する彼らのすごく暗い認識。彼ら自身は、この先この世界には何もないんじゃないかというくらいに深く絶望しているという、そういう終末感みたいなものをものすごくセンチメンタルでメランコリックに、でもリアルに、どの曲もこのようにメロディアスなことがこのアルバムを独特なものにしています。ただ、すごく内容は暗いですし、かなりリテラシーを要求されるサウンドデザインが多かったりします。今のEDM的なものや、すごくわかりやすいポップソングが隆盛のシーンの中において、このシリアスなロックがどこまでやれるんだろうと思ったら、全米ナンバーワンというチャートアクションを記録しています。次にElectric Blueという曲をかけるんですけれども、このシングルをきつくてすごいのをきってきたなとおもったら、いきなりトップ5ヒットになって、それこそザ・チェインスモーカーズ (The Chainsmokers)とか、ブルーノ・マーズ(Bruno Mars)と並んで、このアーケイド・ファイアが入っている所をみると、すごいなぁと。やっぱりこの音の、時代的な洗練されたアレンジ、そしてメッセージのすごく的確さみたいなものがちゃんと市場をうっているんだなぁと、そのへんもなかなかすごいなぁと思います。このElectric Blueという言葉もいいですし、そして歌われているこの曲の全体の雰囲気もいいです。

  夏がいってしまいあなたもいなくなってしまった
  空をみて感電死させるのよ 
  あなたにそっくりなたくさんの少年たちを
  私の目をふさいでElectric Blueで
  今の私には理解できないの
  分かったつもりでいたけれども
  分かったのは私が名にも分かっていないということ
  私に似たたくさんの女の子たちが
  あけた海をずっと見つめながら言葉をとなえているわ
  それらが真実になるまで
  私の目をふさいでElectric Blueで
  今あなたは私をとてつもなく困らせているわ
  あなたのブルースをどう歌えばいいのかわからないのよ 
  まったく私に何ができるというの
  あなたのブルースをどう歌えばいいのか分からないのよ
  私の目をふさいでElectric Blueで
  私の目をふさいでElectric Blueで
  来る夜も来る夜も
  あなたの夢を見るのよ
  来る夜も来る夜も
  あなたの夢を見るのよ



 このアルバムの国内盤のライナーノーツを中村明美さんが書いているんですが、その中でこのEverything Nowについてウィン・バトラー(Win Butler)がBBCのラジオのインタビューで答えた発言が引用されています。

  今何もかもがすべてを今という世の中になってきている。すべての出来事にすべての面が包囲されていて、その中でリアルなこともあれば、フェイクなものもある。こちらに何かを売りつけているようなものもあれば、核心をつくようなものもある。そしてすべてものもがすべての隙間に、すべての瞬間に、異なる何千もの屈折したものを生み出しているような気がするんだ。つまりこの作品では、その欠点も、栄光も、すべてをひっくるめて今を生きる経験をとらえようとしたんだ。

 すばらしい発言だと思います。Everything Nowという状況に対して、なんていう世の中なんだでもないし、なんてすばらしい世の中なんだというわけでもなく、我々はこのEverything Nowという時代に生きぜるを得ないわけであって、その時代とは何であるのかということをしっかりととらえて、そういう作品にしたんだと。ただ、今起きていることは正確に見ておこうと、このアーケイド・ファイアです。これにすべての金をかけてくれというナンバーを続いて聞いてもらおうと思います。Put Your Money on Me。



 アーケイド・ファイアはシングルもヒットしているし、アルバムの方も堂々チャートのナンバーワンを飾りました。こういうシリアスなロックが商業的にも成功して、なおかつメッセージ性が強くモダンな作品を作っているという、なかなか今の時代困難なことをアーケイド・ファイアはやり続けていて、今回もすばらしい作品と結果を残しているということは、すごいなぁと思うし、こちらもミュージシャンでも何でもないですけれども、勇気づけられます。

アメリカン・ミュージックの系譜(9) アメリカ文化の到達点としてのティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、マイクロフォンの登場とのその影響

 (1)、マイクロフォンの登場

  1924年頃に、マイクロフォンが使われるようになります。これは決定的に重要なテクノロジーの進歩と言えると思います。歌唱法と言う意味では、マイクが入る以前は、ベルカント唱法を学んだ、基本的な声楽の訓練を受けた人たちのみがステージに立って歌いました。どちらかと言うと母音が強調されて子音があまり聞こえないというか、とにかく遠くまで声を届けなければならないので、そういった訓練を受けた人しかステージには上がれませんでした。しかし、マイクが出てくることによって、しゃべるように歌うことが可能となりました。クルーナー唱法と言いますが、簡単に言うと子音がよく聞こえるというか、普通に話すように歌うことが可能となりました。

 (2)、マイクロフォンの影響

  クルーナー唱法がアメリカの音楽業界の中で主流になってくるのは、ミュージカルの音楽的な構造にも影響を及ぼします。簡単に言うと、きちんとした訓練を受けていない歌手がどんどんステージに立てるようになるわけです。極端な話をすれば、ルックスがいいとか、チャーミングであるとか、歌はオペラ歌手に比べてそれほどうまくはないけれどもなんとなくステージ映えするとか、このようなことで成り立ってしまうわけです。商業主義ですので、お客さんが入って人気が出ればそれはそれでOKということになるわけです。アメリカは基本的にテクノロジーというものに抗わないというか、どんどん新しいテクノロジーをエンターテイメント業界で採用していって、もともとヨーロッパ起源であったりする文化の形がどんどん変わっていくことを良しとします。そうすると、ヨーロッパのオペラとアメリカのミュージカルですけれども、声楽的な訓練を受けていない人たちがステージに立って歌うようになるなると、一般的な傾向ですけれども、オペラが2オクターブや2オクターブ半くらいの声域を駆使して叙事詩的で壮大でダイナミックな曲を歌うというオペラ歌手に対応した音楽の構造があるとするならば、アメリカのミュージカルはそれほど訓練も受けていない、簡単に言うと声域も狭いシンガーが、細かい旋律の中で抒情詩的というか細かい感情の変化を割と得意とする文化として発展していきます。壮大な叙事詩的な物語が展開するというよりは、男女の恋愛の中で細かい感情の機微みたいなものがアメリカのミュージカルの中心的な特質になっていくわけです。

2、スクリューボール・ミュージカル(Screwball Musical)

 ハリウッドの方でもミュージカル映画というものが1930年代に一つのジャンルとしてどんどん発展していきます。この時代のフレッド・アステア(Fred Astaire)やジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers)とか、戦前のミュージカル映画の作品をご存知の方も多いと思いますけれども、ミュージカル映画は役者が演じているんだけれども突然歌い出すわけです。これは不自然ですが、この不自然さを正当化するために、楽曲の中に男女の関係性そのものを歌の中に盛り込んでいくということですね。スクリューボール・コメディ(Screwball comedy)という言い方がありますけれども、これはドタバタ喜劇という風に訳したりしますけれども、ドタバタ喜劇のドタバタの部分はセクシャルな行為の比喩になっているという解釈がありまして、映画なのでそれは見せられないので、男女のドタバタがメタファーになっているわけです。それと同じような解釈で、ミュージカル映画でスクリューボール・ミュージカルという言い方があって、歌の部分は実は男女のセクシャルな関係性のメタファーになっているんだという言い方をする人もいます。ティン・パン・アレーの代表的な作曲家としてアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)という人がいますが、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演する「トップ・ハット(Top Hat)」という名作がありますけれども、その中からアーヴィング・バーリンの作曲でCheek to Cheekを聞いてください。



3、アメリカ文化の到達点としてのティン・パン・アレー

 ティン・パン・アレーの音楽を聴いて私が常々考えることは、ヨーロッパの歴史の中で育まれた文化なり芸術というものは、重厚さであったり深淵であったりそういった歴史の重みに裏付けられた属性があると思いますが、ティン・パン・アレーの音楽は圧倒的な軽さとそれに伴うエレガンスといっていいと思いますが、大量生産大量消費を前提とした商業主義のシステムの中で作られたのですが、これほどのエレガンスと洗練を作り出したのが、アメリカ文化の一つの到達点だろうなと思います。最後にこの時代のティン・パン・アレーを代表する曲で、2004年にアメリカン・フィルム・インスティチュート(American Film Institute)が、ハリウッド映画の中の主題歌でいい曲を100曲くらいランクングをしましたが、ハリウッド映画史上もっともいい曲だなとということで1位を獲得した、1939年の「オズの魔法使い」のテーマ曲となった、ジュディ・ガーランド(Judy Garland)のOver the Rainbowを聞いていただきたいと思います。


アメリカン・ミュージックの系譜(8) アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ(symphonic jazz)

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)とシンフォニックジャズ

 ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の代表的な作曲家、ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)。彼は、ポップソングだけではなくて、クラシック的なというかジャズ的なというか、もう少し長い曲も作曲しました。有名なのは1924年に初演されたRhapsody in Blueという曲です。ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)の楽団の演奏で、Rhapsody in Blue。



 演奏しているのはポール・ホワイトマン楽団です。今、ジャズファンでポール・ホワイトマンが好きという人をあまり聞かないんですけれども、当時は、最も評価が高いジャズミュージシャンの一人でした。ジャズというものがアフリカ系アメリカ人の土着的な音楽であるというイメージもまだ残っていたりしていたのですが、それをポール・ホワイトマンはシンフォニックジャズ(symphonic jazz)といって、ヨーロッパ風に当時の価値基準で言えば洗練させたわけです。つまり、アフリカ系アメリカ人の土着的な音楽だと、アメリカの中産階級には下品すぎるので、より格調高いジャズにするということで、シンフォニックジャズというものをやりました。簡単にいうと、ポール・ホワイトマンがジョージ・ガーシュウィンに、ジャズの要素を取り入れてオリジナルな音楽を作ってくれと発注したんですね。

2、アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ

 1914年から1918年の第一次世界大戦があり、第一次世界大戦が終わって1920年代というのは、アメリカ合衆国が国際社会の中で非常に地位が上がってきました。19世紀まではアメリカ合衆国といっても、イギリスにちょっとついているおまけというと言いすぎですけれども、そんなに文化的に豊かな所だとも思われていないし、あまり教養とか歴史とかがないイメージが強いんですけれども、第一次世界大戦でヨーロッパは疲弊してしまいアメリカ合衆国に借金をするようになって、第一次世界大戦後に国際社会の中でもアメリカ合衆国が覇権を握っていきます。そうした中で、自分達の文化はなんであろうと国の中で問い直していきます。ヨーロッパ文化とは違うアメリカ文化とはどういうものなのだろうということで、ジャズとかブルースはヨーロッパにはないということで、しかしそのままではあまりにもヨーロッパが誇るクラシック音楽に太刀打ちできないので、アメリカならではの洗練のさせ方で、ヨーロッパにはないジャズやブルースをどういう風に世界にアピールしていくのかという機運が国の中にありました。例えば、文学においては、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の『白鯨』という小説がありますけれども、この作品はメルヴィルが生きている間はほとんど読まれなかったのですけれども、1920年代にメルヴィルリバイバルというメルヴィルの再評価運動が、文壇だけではなくて社会全体で起きます。その時に、アメリカにシャークルピアに匹敵する作家がいた、それがハーマン・メルヴィルであるとされました。それと同じ文脈で、ポール・ホワイトマンの意識としては、ヨーロッパに匹敵するような芸術音楽を、アメリカの音楽を使って作っていきたいということで、Rhapsody in Blueができたという経緯があります。
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