音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

    

日本ポップス伝(11) ラジオ放送のはじまりとジャズソング

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第三夜より 

 大正14年(1925)に我が国最初のラジオ放送がはじまります。1925年ですから70年前になりますか。ラジオ放送が始まりまして、3つ放送局ができたんですね。JOAK、JOBK、JOCKとありました。JOAKというのは東京なんです。JOBKが大阪なんですね。JOCKが名古屋なんです。一番最初の本放送が始まった時は、なんと近衛秀麿指揮のシンフォニーオーケストラでベートーベン 交響曲第5番だそうです。ラジオがどういった形で定着していくのかということの一番面白いところは、ラジオが一番有益に使われたというのはこれなんです。



 「ラジオ体操」ですけれども、これは昭和3年11月1日の昭和天皇御即位の礼というのが放送されまして、この記念事業としてはじめられたのがこの「ラジオ体操」なんです。昭和天皇の御即位を記念して作られたのがこの「ラジオ体操」なんですけれども、はじめの趣旨や意図は消えて行って、形が残るということは面白いですね。それで、東京のJOAKでジャズバンドがあったんです。これをJOAKジャズバンドといいます。ここで指揮をしていたり、いろいろなアレンジとか訳詞をしていた人に、堀内敬三さんという方がいます。堀内敬三さんがいろいろな曲をラジオから流して、ラジオでヒット曲がじゃんじゃん出てきます。どのような曲が流行ったのかをまずは聞いてみましょう。曲は「バレンシア」です。

 これが「バレンシア」で、堀内敬三さんが訳詞をしました。レコードになるとかならないの前に、放送局のJOAKジャズバンドでアレンジして、歌手を呼んできて、生で歌わせました。これでじゃんじゃん流行っていったんですけれども、これに目を付けたレコード会社は黙っていませんから、ラジオで流行っている曲をレコードで出すわけですね。洋楽のこのように流行っている曲を、当時はジャズソングと呼ばれていました。いわゆる今考えられている流行歌のおおもとが「東京行進曲」だとすると、ポップス的なもののおおもとはこのジャズソングにあります。そのジャズソングの第一号と言われたのが次の曲なんですけれども、歌手は二村定一と言う人です。二村定一さんが歌うところの「アラビアの唄」です。



 この曲は大ヒットしたんです。これはカップリングだったんですよね。A面B面はなかったと思いますけれども、もう一曲の方は「あお空 」という歌でした。



 この曲は前奏も間奏も長いんですけれども、これはダンスミュージックだったからなんです。だからテンポも速いでしょ。現代になって生活のリズムが早くなってリズムもどうのこうのってよく言いますけれども、テンポの速さで言えば今の音楽よりも数段速いですよね。それは時代の空気も含めてなんですけれども、実は流行歌のテンポはだんだん遅くなっていくということをこれからやっていきます。ここでようやく二村定一と「あお空 」と「アラビアの唄」が出てきました。いろいろなオペラが変化していったと。音頭や新民謡のようなものも出てきて、なおかつラジオの普及とともにジャズソングというものが全国に普及しはじめました。これがだいたい今回のまとめです。次回はジャズソングがどのように変貌していくのかです。

日本ポップス伝(10) 浅草オペラから宝塚歌劇団・松竹歌劇団へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 「東京行進曲」に匹敵する大阪のテーマソング「浪花小唄」というものを聞いていただきます。



 最後の「テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ」の所が有名ですけれども、 NHKで浪速演芸会があると、この曲がかかったんですよ。東京、大阪とくれば京都。



 昭和5年の作で京都の「祇園小唄」ですけれどもね。これが後ろにかかって月形半平太が出てくるというのは時代考証としてはSF的なものがありますけれども、これを流すといかにも京都かなという感じがします。知らない人は以前からあるという感じですが、これも昭和5年に作られたというのは面白いことではないでしょうか。この「浪花小唄」も「祇園小唄」も作った人は同じで、佐々紅華という人です。この人はレコード会社の社員であったり、浅草オペラの支配人なんかもしていた人なんですよ。なかなかにこの人は才人でして、この人が作った浅草オペラの頃の「カフェーの夜」という自作のオペラなんかも作ったりしています。オリジナルはありませんけれども、ここに「カフェーの夜」の「開幕の歌」がありますけれども、ちょっとこの歌詞を読んでみたりしてくれませんか。

  ザプリティガールズ
  ウィズチャーミングアイズ
  アンドローズリップス
  スイートドリンク
  ユーアーヘルス
  アイラブユー
  ユーラブミー
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか
  大正の新しい女はどこよ
  スイートドリンク
  フルオブジョイ
  待っててよ
  よくってよ
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか

 大正の女の人はずいぶん進んでいるでしょ。すごいじゃないですか。その辺のディスコで踊っている女の子に聞かせてあげたいくらいですよ。こんな横文字だらけで、佐々紅華さんは。また浅草オペラがいかに時代の先端だったのかということですね。これは歌詞なので歌ったんですよ。すでに、浅草オペラに熱狂的なファンがいます。そういう人たちをペラゴロと呼んでいます。これはオペラのゴロツキではなくて、オペラとジゴロを足したんですね。女の子がダンスで出てくるじゃないですか。そうすると二人くらいひいきがいて、片方と片方で応援合戦が始まったりするんですよ。その中に18歳の川端康成がいたそうです。川端康成はこの後浅草オペラについての新聞小説を連載するんです。それで浅草オペラが一般的にさらに人気が出てくるんです。この当時の浅草オペラの中でナンバーワンの人気を誇っていたのが田谷力三さんでした。この人のインタビューがCDになっておりまして、ちょっとそれを聞いてみましょう。

 司会「その頃浅草で上演されましたオペラの曲目はどんなものを上演されましたか。」
  
 田谷力三「もちろんローシーゆかりのオペラはね、「ボッカッチョ」、「コルヌヴィルの鐘」、「マスコット」といったものをやっております。間にね、日本ではまだ早いだろうと申しましたけれども、「カルメン」を。これはもう当たりましてね、そこから創作オペラを。」

 司会「日本人の作曲でございますね。」

 田谷「これは伊庭孝さんの作詞で、作曲は竹内平吉さんで。」

 司会「あの宝塚に行かれた。」

 田谷「ええ。「釈迦」を。これも入りましてね。」

 司会「お客様が賽銭を舞台に投げたと。」

 田谷「そうなんですよ。その当時の二銭銅貨です。こんな大きなの。お釈迦様にご奉仕をやっているってことで、紙に包んだり、しまいには生でポーンと放るものですから、歌っていて危なくて口の中に入っては大変だということで、お釈迦様へのご奉仕はどうぞおやめくださいって。それから歌舞伎十八番の「勧進帳」を佐々紅華か何度も上映したいっていうんでやりました。富樫左衛門尉。エノケンの師匠の柳田貞一が弁慶で。柳田貞一の所にちょうど13、4から、後に歌う喜劇王になりました榎本健一がコーラスで一生懸命稽古していたんです。だから柳田貞一の弁慶に対する後見がエノケンだったんです。」

 司会「関東大震災の時でございますね。あの時は何を出し物にしていましたか。」

 田谷「ちょうど「マダム・バタフライ」の二日目でございました。これもよく入りましてね。それで浅草オペラは大正12年(1923)に壊滅しまして、私はとにかく7年間、一日も休まずに歌いましたので、この辺でもう一度声を練り直して、いちいちまで歌いたいという気持ちから、音楽家に転向しました。それで音楽界の方で歌っておりましたけれども、再びまた昭和に入りまして、12、3年頃に浅草にまた出まして、それから戦後ももちろん浅草オペラを持ちまして、ダイジェスト、さわりでございますけれども、今もなおローシーゆかりの浅草オペラを歌い続けております。」

 ということで、少し前のインタビューですけれども、「ローシーゆかりの浅草オペラ」ということで、帝劇の流れをくんでいて、普通のちゃんとしたオペラをやっていたということなんでしょうね。中でもときどき「勧進帳」のオペラが出てくると言っていましたから。そしてこれをやったのが佐々紅華だという話もしていましたけれどもね。その時に柳田貞一と言う人も出演者だったんですが、その人に弟子入りしたのが榎本健一、後のエノケンと呼ばれた人ですけれども、エノケンが後見をしていたと言っていましたけれども、これは黒澤明さんの「虎の尾を踏む男達」のあそこのような感じになっていますけれども、エノケンさんもこれに登場するんですけれども、登場した途端に関東大震災が来まして、浅草オペラが全滅しちゃんですよ。隆盛を極めた浅草オペラはこれでいったん止まるんですね。それで大挙してミュージシャンがいったん大阪に向かうというようなことが起きたりもしました。さっきの中にもちょっと出てきましたけれども、帝劇のオペラ、そして浅草オペラもありますけれども、これらのオペラを見て阪急の社長の小林一三と言う人がいて、これの少女によるオペラというものを考えたんです。これが有名な宝塚なんです。だから、もとは帝劇のオペラなんです。宝塚少女歌劇団の第一回の公演は「どんぶらこ」という和洋折衷のものだったそうです。それから大正7年に宝塚音楽歌劇学校というものの創立が認可されまして、ここから宝塚の歴史がはじまるんです。浅草オペラの中の人が宝塚に引き抜かれたんです。そういう人が小林社長にお金をもらって、当時のショービジネスの本場はパリなので、パリに勉強しに行って、帰ってくるんですね。それで、このパリに行って勉強して帰ってきたというのを一つのミュージカルにするんです。これが宝塚の一番最初の大当たりになります。



 これが「モン・パリ ~吾が巴里よ!~」です。帝劇出身の演出家の岸田辰彌という人の作品で、わが国でレビューと銘打たれた最初の作品です。中国、セイロン、エジプトを経て、パリへ旅した思い出を、レビューでたどる構成で、なかなかしゃれたものです。ラインダンス、フィナーレの階段下りが最初に行われたました。これから宝塚はパリ物をじゃんじゃん出していくわけですね。宝塚は阪急が作ったというので、松竹が対抗して作ったのが松竹歌劇団ですね。後にはSKDと言われますけれども、松竹の方でも後々には水の江瀧子とかスターが出ますけれども、松竹の方のテーマソングとなったのが「春の唄」です。



 帝劇ではじまったオペラが、このように浅草行ったり、宝塚に行ったり、松竹歌劇団の方に行ったりとだんだん広がりを見せていくんですね。

日本ポップス伝(9) 新民謡から音頭へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 新民謡運動ではいろいろな民謡が作られましたが、中山晋平の創作ですけれどもなんか昔からあったような民謡という感じで定着したものもあるんです。



 これは「天竜下れば」という曲で、信州地方の歌だと思われているでしょうけれども、中山晋平がだいたい信州の出身で、この歌詞が「伊那節」を基にして作られていて、歌っている市丸姉さんがまた信州の出身だったということもあるんですよね。でもこういう「天竜下れば」は昔からあった民謡のように思われますよね。新民謡運動はこの後に町田佳声さんが受け継いで、町田佳声さんもいろいろな新民謡を作っているんですけれども、その町田佳声さんの民謡も聞いてみましょう。



 「ちゃっきり節」をお送りしましたけれども、これも昭和6年のものです。静岡の電鉄会社のCMソングだったんですね。CMソングの第一号でもあったんですけれども、時代考証でいえば、清水次郎長が富士山の前を歩いている時に、これがかかるというのは、時代考証としてはおかしいんです。音楽は昭和6年なんですから。清水次郎長の頃にはこの音楽はないんですね。ないんだけれども、いかにもピッタリでずっと前からあったように思うじゃないですか。ずっと前からあるように思う事って多いじゃないですか。でも必ず最初があるんですね。これはいつ頃からなんだろうかって考えると、必ず最初があるんです。当たり前ですけれどもね。いろいろな音頭がありますけれども、音頭といえば中山晋平。中山晋平はとにかくいっぱい作っているんです。また、新民謡の流れで中山晋平の曲をお聞きください。



 「東京行進曲」で銀座がものすごく流行るんですよ。あまりにも銀座にばかり客が集まるので、丸の内の商店街の若旦那がみんな集まって、丸の内の客を呼ぼうということになって、丸の内のテーマソングを作るということで、これが「丸の内音頭」なんですね。中山晋平が作ったんですけれども、今ひとつ流行らなかったんだね、これが。これが次の歌詞にかわって、歌手も小唄勝太郎さんになりましてできたのが次の曲でございます。



 これが「東京音頭」ですけれども、この東京音頭も作詞西條八十、作曲中山晋平ですね。西條八十は初めて故郷に錦を飾った、自分の生まれ故郷の東京のテーマソングが書けてうれしかったと語っていますけれども、当時これがビクターの売り上げナンバーワンになりまして、120万枚売れました。日本で初めて100万枚ヒットはこの「東京音頭」なんです。この西條八十と中山晋平のコンビは、とにかくありとあらゆる音楽を作ったんです。中山晋平は音頭の親というか、私の親みたいなものですけれどもね。「東京音頭」の次に「さくら音頭」というものも作りました。



 作詞は西條八十さんにかわりまして佐伯孝夫さんですね。中山晋平が作曲ですけれども、これは各社競作です。コロンビア、ポリドール、テイチク、ビクターとみんなちがう「さくら音頭」なんですよ。各々が作詞家、作曲家、歌手を全部集めてレコード会社が競ったんですけれども、このビクター盤が最後に売上ではナンバーワンだったということで、コロンビアの文芸部長がその責任をとってその席を去ったそうですけれども、いつの世もなかなか厳しいものでございますね。これが、新民謡から音頭が出来てくるという感じですけれども、いまでは定着しているようですけれども、創作の音頭であったということですね。これがここのコーナーのポイントでございました。

 新民謡運動とか音頭を聞いてみると、明治政府は欧化政策だったじゃないですか。ダンスを踊ろうで鹿鳴館、オペラを歌おうってことで帝国劇場っていうので欧化政策ばかりだったので、無理に押し付けられているという民衆のエネルギーみたいなものが、こういう新民謡や音頭に集まったのではないのかと言う気もするんですよね。明治政府はなんとバカなことに、盆踊り禁止令を出したんですよ。鹿鳴館の時代に。風俗的に外国の人が見たら低いということで。東京オリンピックの時も似たようなことがありましたけれども、とにかく盆踊り禁止令を出したけれども、誰もやめなかったそうです。こういったような洋風のサウンドが一方にありながら、和風なサウンドもやっているんですかれども、和風な中にも洋風のものを取り入れてというか、和風と洋風がごっちゃになったそういったものもあったんですけれども、今度は「浪花小唄」というものを聞いていただきます。「東京行進曲」に匹敵する大阪のテーマソングができるんですよ。



 最後の「テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ」の所が有名ですけれども、 NHKで浪速演芸会があると、この曲がかかったんですよ。東京、大阪とくれば京都。



 昭和5年の作で京都の「祇園小唄」ですけれどもね。これが後ろにかかって月形半平太が出てくるというのは時代考証としてはSF的なものがありますけれども、これを流すといかにも京都かなという感じがします。知らない人は以前からあるという感じですが、これも昭和5年に作られたというのは面白いことではないでしょうか。

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