音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

    

アメリカン・ミュージックの系譜(8) アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ(symphonic jazz)

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)とシンフォニックジャズ

 ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の代表的な作曲家、ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)。彼は、ポップソングだけではなくて、クラシック的なというかジャズ的なというか、もう少し長い曲も作曲しました。有名なのは1924年に初演されたRhapsody in Blueという曲です。ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)の楽団の演奏で、Rhapsody in Blue。



 演奏しているのはポール・ホワイトマン楽団です。今、ジャズファンでポール・ホワイトマンが好きという人をあまり聞かないんですけれども、当時は、最も評価が高いジャズミュージシャンの一人でした。ジャズというものがアフリカ系アメリカ人の土着的な音楽であるというイメージもまだ残っていたりしていたのですが、それをポール・ホワイトマンはシンフォニックジャズ(symphonic jazz)といって、ヨーロッパ風に当時の価値基準で言えば洗練させたわけです。つまり、アフリカ系アメリカ人の土着的な音楽だと、アメリカの中産階級には下品すぎるので、より格調高いジャズにするということで、シンフォニックジャズというものをやりました。簡単にいうと、ポール・ホワイトマンがジョージ・ガーシュウィンに、ジャズの要素を取り入れてオリジナルな音楽を作ってくれと発注したんですね。

2、アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ

 1914年から1918年の第一次世界大戦があり、第一次世界大戦が終わって1920年代というのは、アメリカ合衆国が国際社会の中で非常に地位が上がってきました。19世紀まではアメリカ合衆国といっても、イギリスにちょっとついているおまけというと言いすぎですけれども、そんなに文化的に豊かな所だとも思われていないし、あまり教養とか歴史とかがないイメージが強いんですけれども、第一次世界大戦でヨーロッパは疲弊してしまいアメリカ合衆国に借金をするようになって、第一次世界大戦後に国際社会の中でもアメリカ合衆国が覇権を握っていきます。そうした中で、自分達の文化はなんであろうと国の中で問い直していきます。ヨーロッパ文化とは違うアメリカ文化とはどういうものなのだろうということで、ジャズとかブルースはヨーロッパにはないということで、しかしそのままではあまりにもヨーロッパが誇るクラシック音楽に太刀打ちできないので、アメリカならではの洗練のさせ方で、ヨーロッパにはないジャズやブルースをどういう風に世界にアピールしていくのかという機運が国の中にありました。例えば、文学においては、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の『白鯨』という小説がありますけれども、この作品はメルヴィルが生きている間はほとんど読まれなかったのですけれども、1920年代にメルヴィルリバイバルというメルヴィルの再評価運動が、文壇だけではなくて社会全体で起きます。その時に、アメリカにシャークルピアに匹敵する作家がいた、それがハーマン・メルヴィルであるとされました。それと同じ文脈で、ポール・ホワイトマンの意識としては、ヨーロッパに匹敵するような芸術音楽を、アメリカの音楽を使って作っていきたいということで、Rhapsody in Blueができたという経緯があります。

アメリカン・ミュージックの系譜(7) ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということ

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、ミンストレル・ショー(minstrel show)

 (1)、意義

  ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)では、大量生産、大量消費の音楽が作られて、この音楽は、ブロードウェイのミュージカルやハリウッドの映画に供給されていました。ここで、アメリカの舞台文化として、19世紀のミンストレル・ショー(minstrel show)についてお話をします。19世紀のステージの娯楽の一つとして、アメリカ最初の興行的なエンターテイメントと言われているのですが、ミンストレル・ショーと呼ばれるものがあります。この中で非常にヒットした出し物が、ブラック・フェイスという白人の芸人が顔を黒塗りにして、黒人の真似を面白おかしく笑いをとるもショーでした。現在の基準でいうと大変に差別的な芸能といってよいと思いますが、これが19世紀のアメリカでものすごくヒットをしました。このブラック・フェイスの芸はアメリカでは1940年代から1950年代まで続いていたもので、公民権運動で指導者達がこのような差別的な芸能は許されないと批判を繰り広げて、ブラック・フェイスはエンターテイメント業界からなくなりました。この白人が黒人の真似をするという構造が、19世紀末に音楽産業が発展する中で、音楽産業にも応用されていきます。

 (2)、具体例

  具体的にいうと、アメリカの音楽産業を作曲面や作詞面で支えた多くの作曲家作詞家がユダヤ人だったわけですね。彼らの才能によって多くの名曲が作られていくのですけれども、彼らはジャズとかラグタイムとか一般的には黒人音楽だと思われている曲を作曲したわけですね。よって、一般的な黒人音楽のイメージは、多くの場合ユダヤ人の作曲家が作りヒットさせたものが非常に多いというケースがあります。ティン・パン・アレーの代表的な作曲家で、ティン・パン・アレーの大量生産、大量消費のシステムには収まりきらない、後にはクラシック的な曲も多く作曲したジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)ですが、彼が1919年に作曲したSwaneeという曲があります。まずは、Al Jolsonが歌うSwaneeを聞いていただこうと思います。



 この曲は、作曲家ジョージ・ガーシュウィンの出世作といっていいと思います。Swaneeというのはスワニー川といって、アメリカ南部のジョージア州とフロリダ州にまたがって流れている川です。そして、この曲の語り手はアフリカ系アメリカ人が想定されています。ジョージア州やフロリダ州といった南部から出てきて、故郷の川の事を懐かしく思い出しているアフリカ系アメリカ人という設定なんです。19世紀のスティーブン・フォスター(Stephen Foster)という作曲家が書いたSwanee River、邦題は故郷の人々という曲があります。スティーブン・フォスターというのは、Oh, SusannaとかCamptown Racesとかの作曲者で、19世紀に活躍したアメリカを代表する、「アメリカ音楽の父」と呼ばれる作曲家です。彼は、ミンストレル・ショーの座付き作曲家として活躍していた人なんですね。よって、スティーブン・フォスターの曲ももともとは語り手は黒人が想定されているわけです。それを踏まえて、ジョージ・ガーシュウィンはフォスターの曲を、本歌取り的なパロディーとして、Swaneeという曲を作りました。また、歌っているAl Jolsonとういう人も、当時を代表する歌手で、ブラック・フェイスを得意とする人でした。1927年の「ジャズ・シンガー(The Jazz Singer)」というアメリカで最初のトーキー映画がありますけれども、その中でも顔を黒塗りにしてステージに立つとう役を演じています。だから、このSwaneeという曲は、白人の芸人が黒人のふりをして語るということが前提とされている曲なんですね。

2、ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということの意味

 この、白人というかユダヤ人が黒人のふりをするという構造については、アメリカで面白い研究がなされておりまして、ある研究によりますと、ここにどういうアメリカの人種の構造が現れているかというと、ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということは、ユダヤ人が差別されている構造を隠して、相対的にユダヤ人が白人としての地位を獲得するというようなことを述べております。つまり、当時アメリカ合衆国に移民してきたユダヤ人にとっての、相対的な階級上昇の一つの可能性として、ユダヤ人作曲家が「黒人」音楽をやると解釈できるという研究があります。これは非常に象徴的な事例なので、実証的にそうであったという研究ではないのですけれども、ミンストレル・ショーの中にユダヤ人が参入することによって、どういう人種をめぐるダイナミズムみたいなものがアメリカで変化してきたのかということを解釈するのに、非常に面白い研究だと思います。

アメリカン・ミュージックの系譜(6) ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の作曲家達

アメリカン・ミュージックの系譜第四回 講師は大和田俊之氏です。

1、意義

 ティン・パン・アレーには、ものすごい数の作曲家や作詞家がいました。移民がたくさんアメリカに入ってきていて、また南部などからもたくさん人が来ていて、音楽産業に従事したい人達がたくさんいて、簡単に言うと替えがいくらでもきくといった状況で、そのような中でみながしのぎを削って、一曲あてたいという、ものすごく商業主義的な中で、激しい競争の中で作曲家の人たちは活動してました。その中から4人とりあげます。

2、ティン・パン・アレーの作曲家達

 (1)、ジェローム・カーン(Jerome Kern)

  まずは、ジェローム・カーン(Jerome Kern)です。父がドイツ系のユダヤ人です。彼の代表曲は、1933年の「ロバータ(Roberta)」というミュージカルの挿入歌のSmoke Gets in Your Eyes。おそらく一番有名なのは、戦後にプラターズ(The Platters)というボーカルグループがカバーをしたバージョンだと思います。Smoke Gets in Your Eyes。



 (2)、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)

  次に取り上げたいのは、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)という作曲家です。ジェローム・カーンは父がドイツ系ユダヤ人でしたけれども、アーヴィング・バーリンはロシア系のユダヤ人で、移民として5歳の時にアメリカに移住してきた人です。彼は、White Christmasという誰でも知っている曲の作曲者として有名です。先ほどから強調しているように、ユダヤ人が多いのです。ユダヤ人がWhite Christmasという曲を作曲して、おそらくこの曲は世界で録音された曲の中でもっとも売れている曲ですね。ユダヤ人がクリスマスの曲を書いてヒットさせるということは、アメリカのジャーナリストの間でよく笑い話になっていて、ユダヤ人がクリスマスソングを書くことについて民族的な出自は関係ないんだととらえる人も多いですし、また伝記などをよむとバーリン家はそれほど熱心なユダヤ教徒ではなくて家族でクリスマスを楽しんでいたのではないのかとう解釈もあるんですけれども、いずれにしてもユダヤ人がWhite Christmasという曲を書いて、これが世界でヒットしてしまうというのは当時の商業主義というか、アメリカの商業音楽の熾烈な競争社会をあらわしているような気がします。ビング・クロスビー(Bing Crosby)が歌うバージョンで、White Christmas。



 この曲は、初演はラジオ放送向けで放送されたのが最初ですけれども、1942年の「Holiday Inn」という映画の挿入歌になりました。アーヴィング・バーリンはAlexander's Ragtime Bandなどのヒット曲を持つ、当時のヒットメイカーの一人だといっていいと思います。

 (3)、コール・ポーター(Cole Porter)

  続きまして、コール・ポーター(Cole Porter)。コール・ポーターはユダヤ人ではありません。エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)が歌うBegin The Beguineを聞いていただこうと思いますが、ティン・パン・アレーの楽曲というのは、楽曲の構造がみんな似てくるんですけれども、このBegin The Beguineという曲は結構複雑な構成の曲で、その点でも有名な曲です。Begin The Beguine。



 (4)、リチャード・ロジャース(Richard Rodgers)

  最後に、この時代の作曲家でリチャード・ロジャース(Richard Rodgers)という人の曲をかけてみたいと思います。ロレンツ・ハート (Lorenz Hart)という人と組んで曲をたくさん残している人ですけれども、My Funny Valentineというこれも有名なナンバーですけれども、チェット・ベイカー(Chet Baker)のバージョンで聞いてください。



3、ティン・パン・アレーの音楽をどう評価すべきか

 (1)、ティン・パン・アレーの音楽の特徴

  ティン・パン・アレーの音楽とは、要するに戦前の古き良きハリウッド映画でかかっているようなイメージの曲ですね。ティン・パン・アレーの曲の特徴の話をしたいんですけれども、楽曲構造がほとんど同じになっています。簡単に言うと、32小節AABA形式という形にだいたいかたまってきます。32小節AABA形式ということは、8小節8小節8小節8小節でAABAという形で、同じようなメロディーが8小節8小節と続いて、Bで少し違うメロディーが来て、もう一回Aの8小節に戻ってくるという構造です。だいたい、当時のティン・パン・アレーの7割から8割はこの構造になっているのではないかという風に言われています。Begin The Beguineは例外なんですね。

 (2)、ティン・パン・アレーの音楽をどう評価すべきか

  ティン・パン・アレーの音楽をどういう風にとらえるべきなのかということなんですけれども、僕自身はこれは楽曲の標準化、規格化だと思います。1910年代に音楽に限らずにアメリカ社会の様々な側面において、商品の標準化が進んでいきます。非常に有名な例でいうと、自動車の大量生産、大量消費の象徴といわれるフォード社のT型フォードですけれども、これも1910年代にフォードがベルトコンベア方式を開発して可能となったのですが、それと同じ時期に、音楽の楽曲も標準化も進んでいきます。ちなみに、ハンバーガーの最初のチェーンができるのも1910年代なんですね。それで、当時の新聞とか雑誌を調べていくと非常に面白くて、「Factory Made」という言葉が非常に肯定的に使われています。つまり、「Home Made」よりも「Factory Made」の方が価値が高いものとして、当時のメディアをみると出てきます。家庭がそれほど豊かではなくて、それよりも工場の未来的なイメージの中で、最先端のテクノロジーを使って、ベルトコンベアで造られるものが、家で造られるものよりもカッコよくて、すばらしいという価値観ですね。この価値観を理解しないと、なぜ規格化、標準化がこれほど広まったのかということを理解することはできないと思います。大量生産大量消費が始まった1910年代に、音楽においても標準化が進んでいったということですね。このことは、ラジオとか映画とか新しいメディアの発達とともに、ティン・パン・アレーの重要な特質として強調しておかなければなりません。そして、これは決して悪い事ではないと思います。私自身は、あまりに規格化された楽曲の中で、これほど歴史を通して聞き継がれていく楽曲がたくさん生まれたという所に、ヨーロッパ文化とは違うアメリカ文化の良さがここに一番現れているのではないかと思います。

4、著作権管理団体の設立

 こういった形で、ブロードウェイのミュージカルとハリウッドの映画産業の発達とともに、非常に商業主義的な、大量生産大量消費を前提とした音楽制作が、ニューヨークでどんどん発展していきます。1914年にASCAP(American Society of Composers, Authors and Publishers)という著作権管理団体が設立されます。逆にいうと、この時期までアメリカには音楽産業の中で著作権管理団体が存在しなかったわけですね。簡単に言うと、19世紀まではアメリカの音楽出版社はヨーロッパの曲の海賊盤を売っていた方が儲かったわけです。だから、著作権を厳密に管理すると、かえって自分達の利益にはならなかったわけです。しかし、ニューヨークの音楽産業がどんどん発展していって、実は19世紀のヨーロッパの芸術音楽をやっているような人からはこうした音楽はユダヤ人差別とも重なる形で「音楽ではなくて商品だ」と常に批判されていましたが、自国の作曲家がどんどん曲を作り出すことによって、やはり権利を守らなければならないだろうということで、1914年にアメリカ最初の著作権管理団体が生まれたわけです。
記事検索
スポンサーサイト
スポンサーサイト
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ