ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

ヘヴィ・メタルについて

 今回は、「ヘヴィ・メタルの亡霊達」よりヘヴィ・メタルについてまとめます。渋谷陽一氏を聞いて育ったのでヘヴィ・メタルについてはほとんど知らないので概括的です。

1、ブラックサバス

 (1)、意義

  ・1965年、イギリスバーミンガムで若き機械工トミー・アイオミが、鉄板のプレス中に指を挟まれる事故にあい指をもっていかれる。アイオミは洗剤のプラスティック容器を溶かして指先にかぶせて自分で「指先」を作る。さらに、より響きやすくするためにギターの弦を緩めたことでヘビーなギターサウンドを可能とした。アイオミのギターと叩きつけるようなオジー・オズボーンのボーカルによって新しいロック音楽が誕生した。へヴィ・メタルである。

   →このブラック・サバスが後にジューダス・プリースト、メタリカなどのバンドに大きな影響を及ぼした。

 (2)、歴史

  ①、デビュー

  ・1966年、バーミンガムで結成される。バーミンガムは工場の町であり、工場のプレス音が四六時中聞こえていた。ブラック・サバスはこの環境に影響をうける。また、金を払ってまで怖い映画を見たい連中がいるならば人が怖がる音楽を作ってみようということで、人が怖がるヘビーなロックという新しいロックが誕生する。例えばデビューアルバムに入っている黒い安息日であり、この曲によってヘヴィ・メタルは生み出されたといってもよい。また、このデビューアルバムはメディアに酷評され、この面でも以後30年間のヘヴィ・メタルの評価を決定したといってもよい。


  ②、アメリカへ

   ・ヘヴィ・メタルはアメリカでも人気が出て、ブラック・サバスは拠点をアメリカへ移す。しかし、ドラックに溢れたロサンゼルスでレコーディングをするにつれて、音楽活動がおざなりになってゆく。ドラックに犯された日常は音楽にも影響を及ぼしてゆく。この後数年間、コントロール不能に陥り解散の危機を迎える。


  ③、オジー脱退

   ・1978年、オジー・オズボーンはブラック・サバスを脱退させられる。オジーは大量の酒とドラッグに溺れた。

  ④、オジー復活

   ・オジー・オズボーンはモトリー・クルーと組んで第一線へ復帰する。オジー復活させたのは、ブラック・サバスのマネージャー、ドン・アーデンの娘シャロン・アーデンであった。シャロンは22歳の名ギターリスト、ランディー・ローズを発見し、オジーはランディーと組みソロとして華々しくスタートする。クレイジートレイン。しかし、休暇中のランディーとスタッフを乗せた小型飛行機が墜落しランディーは死亡する。しかし、シャロンはオジーを鼓舞してオジーのコンサートは80年代を通してファンを魅了し続けた。

2、ディープパープル

 (1)、意義

  ・ヘヴィ・メタルのサウンドは印象的なギターのリフが命である。このリフの作り方が上手いのがディープ・パープルである。

 (2)、スモーク・オン・ザ・ウォーターの誕生

  ・ブラックナイトが大ヒットした後、ディープ・パープルはプロモーターのクロード・モックスが経営するカジノでレコーディングするためにスイスのモントルーに行く。しかし、カジノで行われていたフランク・ザッパのライブで観客が天井に照明弾を打ったことにより火事で炎上してしまう。しょうがないので宿泊先でレコーディングをする。残り1日になってもアルバムに7分足りなくて、リッチーがリフを思いついた。また、ジュネーブ湖に煙が漂うのを見てロジャーがスモーク・オン・ザ・ウォーターと書いた。

3、ジューダス・プリースト

 (1)、意義

  ・ブラック・サバスがドラックで解散の危機に迎えている頃に、ブラック・サバスが生まれたバーミンガムでサバスの影響を受けたバンドがデビューした。これがジューダス・プリーストである。ヘヴィ・メタルにツインギターを導入し、ロブ・ハルフォードの誰にも真似できないボーカルが特徴である。また、黒いレザーを身にまとうスタイルは世界中のヘヴィ・メタルファンのトレードマークとなった。殺戮の聖典。

 (2)、ブリティッシュ・スティール

  ・1980年、ピッテンハーストバーグのジョン・レノンが住んでいた家でメタルの名盤ブリティッシュ・スティールをレコーディングする。これがバンドの転機となる。このアルバムは瞬く間にヒットし、ヘヴィ・メタルのイメージ、ジューダス・スプリーストのサウンドとファッションで統一される。

 (3)、サブリミナル効果についての裁判

  ・80年代半ば、性や暴力を露骨に表現するヘヴィ・メタルに対して、アメリカの良識的な人々は攻撃を始める。この急先鋒がペアレンツ・ミュージック・リソース・センター(PMRC)であり中心となったのがアル・ゴアの妻であるティッパー・ゴアであった。

  ・このような中で1985年、ジューダス・プリーストのファンが自殺をした。この原因がジューダス・プリーストの曲に込められたサブリミナル効果であるとして、ジューダス・プリーストが起訴される。しかし、原告側の主張はみとめられず、1990年にジューダス・プリーストに対する告訴は取り下げられる。これにより、メタルに対する反対運動も収束してゆく。

4、アイアン・メイデン

 (1)、意義 
  ・1980年代以降、イギリスのヘヴィ・メタルに新しい波(NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル、New Wave Of British Heavy Metal)が台頭してくる。その急先鋒がアイアン・メイデンである。

 (2)、歴史

  ①、結成

   ・スティーブ・ハリスによって結成されたアイアン・メイデンは、パンクのエネルギーやなんでも自分で作るという精神に習い、最初の作品を自主制作で発売した。この自主作品が大手レーベルの目にとまり、アルバム5枚の契約をして、1981年にはヘヴィ・メタルの新しい波を代表するバンドとなる。


  ②、ブルース・ディッキンソン

   ・しかし、これにより、ボーカルのポール・ディアノはプレッシャーを抱えて脱退。ブルース・ディッキンソンが新ボーカルとなる。声、表現力、カリスマ性のあるデッキンソンの加入によって、アイアン・メイデンは飛躍してゆく。デッキンソンは観客を楽しませるステージパフォーマンスとメロディーメイカーであった。デッキンソンによると、ヒットの秘けつはマイウエイのように音のキーが一気に6音程上がる手法であり、それにハーモーニーをつけて壮大にすることである。

5、モトリー・クルー

 ・アメリカ西海岸でグラムメタルが生まれる。この代表がモトリー・クルーである。1981年、MTVは放送開始と同時に、モトリー・クルーの劇画調のビデオクリップが流される。大ヒットし、モトリー・クルーは一躍人気者となる。

 ・やがて、ロサンゼルスではポイズン、ハノイロックス、W.A.S.P.などモトリー・クルーの後に続き、数百万枚のレコードを売り上げるようになる。

6、メタリカ

 (1)、意義

  ・商業的で華やかなグラムメタルに切り込んでいったのが過激なアンダーグラウンドのバンドであった。その先頭がサンフランシスコの4人組メタリカであった。このメタリカの疾走感と怒りに満ちたメタルはスラッシュと称されるようになる。

 (2)、ブラックアルバムの製作

  ・80年代終わりまでは、メタリカを中心とするスラッシュメタルは音楽界の主流となっていった。しかし、彼ら自身生き残るためには変化が必要であると認識し、彼らの好敵手モトリー・クルーのドクター・フィールグットのようなサウンドを目指す。このアルバムはボブ・ロックがブロデュースしたので、メタリカも彼をプロデューサーに起用する。ボブ・ロックはメタリカが今まで行っていたジェームズのギターを入れて他の音を重ねていく手法から、ボブが今までやってきた同じ部屋で一緒に演奏する方法に変えた。アルバムメタリカ(通称ブラックアルバム)は世界で1500万枚を売り上げる大ヒットとなった。

Comment

| 2013年08月17日 06:23
ジーザスプリーストではなくジョーダスプリーストですね。
和訳すると司祭ユダという意味です。
おさむお | 2013年08月18日 02:31
> ジーザスプリーストではなくジョーダスプリーストですね。
> 和訳すると司祭ユダという意味です。

コメントありがとうございます。

記事はぜんぶジョーダスプリーストに修正しました。

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