音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本のロック史(7) テクノ/ニュウェイブ時代の到来 1979~82年

 今回は、篠原章氏の『J-ROCKベスト123』(講談社、1996)より、日本のロックの歴史をまとめます。

1、テクノ/ニュー・ウェイヴ時代の到来

 ・70年代前半に始まるニュー・ミュージックは、そもそも形骸化し体制化した歌謡曲やGSに対する反動として生まれたフォークやニュー・ロックを母体としていたが、ニュー・ミュージックという言葉が定着する70年代後半になると、本来のフォークやニュー・ロックのもつパワーを欠いた歌手までが“ニュー・ミュージックの旗手”となった。こうして似非ニュー・ミュージックがポップ・シーンを闊歩する頃になると、そのカウンター・カルチャー(対抗文化)として、テクノ・ポップやパンク/ニューウェイブという新しい潮流が誕生するのであった。

2、テクノ・ポップ

 (1)、テクノ・ポップという言葉について

  ・テクノ・ポップは、70年代後半の細野晴臣のエキゾティック・サウンドとコンピュータが出会ったところに成立したといわれるが、実際にマーケティング用語として定着するのはYMO全盛期の81年のことであった。この用語そのものはYMO自身の自作で、英米では同種のポップをエレクトロ・ポップと呼んでいたが、日本ではシーンが形成されたのに対して、英米ではシーンと呼べるほどのものは生まれなかった。つまり、テクノ・ポップもまた日本独自のポップ/ロックの区分なのである。

 (2)、テクノ・ポップのはじまり

  ・1978年に発表されたYMO・イエロー・マジック・オーケストラのデビュー盤がテクノ・ポップの出発点である。当初は理解されなかったが、A&Mと契約して『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発表、欧米ツアーを敢行してから完全にブレイク、以後YMOは、83年の「散開」まで日本のロック/ポップ・シーンに君臨し続けた。

 (3)、テクノ・ポップの展開

  ・このYMO、そしてYMOが強い影響を受けたクラフトワークやディーヴォなどの足跡をたどるようにして多数のテクノ・ポップ・ミュージシャンたちが出現する。ヒカシュー、英国ラフ・トレードよりデビューしたプラスティックス、「テクノ」と呼ばれるのを潔しとしなかったP・モデルなどがその代表格で、彼らは後にテクノ・ポップ3大バンドと呼ばれるようになった。

  ・べテランミュージシャンにもテクノは影響を及ぼす。たとえば、ムーンライダーズは『ヌーヴェルバーグ』以降テクノ/ニュー・ウェイヴ路線を明確化、ディーヴォそのものといった衣装で舞台にに登場することもあったし、あがた森魚もヴァージンVSでテクノ化を果たしている。また、日本ロックの樹系図の上では細野と最も遠い位置にいた近田春夫までYMOのサポートで『天然の美』を制作した。ラディカルなガレージ・パンクを彷彿とさせたシーナ&ロケットが細野プロデュースでテクノ・ポップとして再生し、ハワイ~ニュー・オリンズ指向だった久保田麻琴と夕焼け楽団が、サンディ&サンセッツとしてテクノ&エスノの世界を築くようになったのもこの時期のことだ。

 (4)、テクノ歌謡

  ・80年代前半に活躍したほとんどのミュージシャンがテクノ・ポップと何らかの形で関わりをもち、さらには八82にイモ欽トリオに代表される「テクノ歌謡」がポップ・シーンを席巻した。

3、パンク/ニューウェイブ

 (1)、意義

  ・テクノ・ポップがテクノロジーとの密接な関連から「産業革命的」な潮流だったとすれば、パンク/ニューウェイブは「無産・プロレタリア革命的」な潮流だった。テクノの主要ミュージシャンは、50~60年代にまでつながる音楽的財産と人脈を持っていたが、パンク/ニューウェイブは、財産も人脈もろくにないミュージシャンが中心であったからである。

 (2)、パンク/ニューウェイブのはじまり

  ・最初のムーヴメントは東京ロッカーズである。東京ロッカーズとは78年にオープンしたS・KENスタジオを拠点として活動し始めたミュージシャンたちのグループで、S・KENを始め、紅とかげ(後のリザード)、フリクションなどがその核となっていた。彼らはロンドンやニューヨークのパンクを意識しながら、体制化したロックやニュー・ミュージックに刃を突きつけるような音を求めて、小ホールやライヴ・ハウスで積極的に活動、同輩・後輩のミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

 (3)、パンク/ニューウェイブの展開

  ・東京ロッカーズの動きに刺激されて、東京ではゼルダ、スターリンなどがそれぞれ個性的な活動を展開、関西でもINUなどを擁するパンク・シーンが出現した。モッズ、ロッカーズ、ルースターズなどの「めんたいビート」が築いた博多パンク・シーンもおなじ流れのなかで生まれたものだ。また、パンク・ムーヴメントと直接的な関係の薄かったアナーキーもパンクの嵐のなかで支持層を拡大した。こうした動きに呼応して、ゴジラ、ピナコテカ、シティ・ロッカー、テレグラフなどのインディー・レーベルやライヴ・ハウスも続々と生まれ、メジャー会社に頼らずともロックが自己主張できる時代に突入した。

4、“オールド・ウェイヴ”の底力

 ・以上のふたつの大きな潮流がこの時期の日本ロックを特徴づけることは確かだが、従来ニュー・ミュージックという言葉でくくられてきたアーティストも、“オールド・ウェイヴ”の底力とでもいえそうなパワーをみせつけた。たとえば、パンクとシンクロしながらブレイクしたRCサクセション、『ロング・バケーション』でポップ・シーンを揺さぶったナイアガラの大滝詠一、ナイアガラから生まれた山下達郎などがその代表だ。松任谷由実やサザンオールスターズなどが手にしたマーケット支配力も、ひょっとするとこの動乱のテクノ/ニュー・ウェイヴ期を乗り越えることで初めて身についたのかもしれない。

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