ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

渋谷陽一、野外ロック・フェスティバル(Rock Festival)の歴史を語る

20130830

1、モントレー・ポップ・フェスティバル(Monterey Pop Festival)

 モントレー・ポップ・フェスティバルが1967年6月16日から18日にカリフォルニア州モントレーで開催されたんですけれども、今でこそロックフェスというとごくごく日常的に行われているイメージがありますけれども、もともとはロックフェスというよりはジャズフェスというというのが、世間ではロックが大きな市民権を得る前は一つのイベントだったんですね。そのジャズがいろいろなジャンルを取り込んでいって、モントレー・ポップ・フェスティバルとかモントレー・ジャズ・フェスティバルとか言われていたんですけれども、もともと大きなジャズ・フェスティバルだったんですけれども、そこにロックが参入してきたというか、新しい勢いで1967年、ロックがニューロックとかハードロックとか言われて、新しい才能がどんどん出てきた時に、ポップ・フェスティバルにロックミュージシャンが出て、予想以上に盛り上がったという事態が起きたわけです。今になって歴史を紐解いてみるとここからロックフェスって大きく台頭がはじまったなぁという感じがするんですけれども、ちょうどサマー・オブ・ラブ(Summer of Love)、ヒッピー文化とかサイケディック・ロックとかそういうものが出てきて、これまでのポップミュージックの口当たりのいいポップソングだったものが、変な格好をして変なことをして歌うロックという新しい価値観の音楽が出てきたぞ、でもこれはすごくないかというちょうどその変わり目にこのモントレー・ポップ・フェスティバルがあって、それを世間的に知らしめる役割を果たしたんですね。そこには、ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)とかオーティス・レディング(Otis Redding)とかジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)とかザ・フー(The Who)だとか、今となってはすごい、でも当時はこれらの人たちがどんなものなのかよくわからなかったわけですね。一部のジャンルですごいと言われていたものを、このときは20万人の人たちが一気に目撃して、これは何なんだというショックを与え、そしてここからロックが圧倒的なメインストリームになっていくという、今考えてみればロックフェスの基本的な役割と機能みたいなものがここでスタートしたと言えるのではないのでしょうか。そのモントレーの貴重な音源から、当時はビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー(Big Brother and the Holding Company) と言っておりましたけれども、そこのリードボーカリストがジャニス・ジョプリンなんですけれども、今となればジャニスといった方がいいかもしれません。Down On Me。



 この当時はそれほどメッセージ性はなく、まだいわゆるポップ・フェスティバルだったんです。次にウッドストックを聞くんですが、そこから一気に変わるんですけれども、ジャニスの歌声ってすごいですよね。

 モントレー・ポップ・フェスティバルはいろいろなジャンルの人の演奏があって、続いてはオーティス・レディング。R&Bというのはこれ以前にもありましたが、この辺りの時期に変質してきました。例えば、ビートルズ(The Beatles)が1963年とか1964年にあって、当時においてもアメリカでR&Bは主要な音楽であったのですが、そのR&Bに影響をうけたビートルズがアメリカに乗り込んでどういうことが起きたのかというと、逆にR&Bのミュージシャンの市場を奪ってしまったという、非常に倒錯的な出来事が起きたのですが、R&BもポップミュージックとしてのR&Bからもうちょっと違う、ロックが変質したのと同じような形で新しい形の、僕らが聞くとロックっぽいというオーティス・レディングとか新しい才能が生まれてきました。このような時代の変化の中でモントレー・ポップ・フェスティバルにオーティス・レディングが登場した時の衝撃の演奏を聴いてください。Shake。



 当時はジャズもポップミュージックもフォークもロックもR&Bもモントレー・ポップ・フェスティバルの中でみんな並列に演奏されていて、その中でロックがあまりにも巨大な存在感を示してきたということで、ここでジミヘンがギターを燃やす、ピート・タウンゼントがギターをアンプに叩きつけて壊すみたいなパフォーマンスは、今ではそうですかという感じですが、当時はなんなんだこの人達はというインパクトが、しかもそういうアバンギャルドなことをやりながらも音楽そのものはものすごいクオリティーとものすごい大衆性を持っていたという、すごいですよね。

2、ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)

 1969年8月15日から17日、愛と平和の三日間ということで伝説となるウッドストック。これはもう僕自身も鮮烈な印象で同時代のものとして記憶しているんですけれども、動員が40万人。参加している人たちも何が起きているのかよくわからないという。半数以上が入場料を支払わずに入場したために事実上の無料イベントになってしまいました。道路も閉鎖されてしまって、アーティストも来れなくなってしまってヘリコプターで急きょ移送するぞ、水が足りなくなったぞ、食料が足りなくなったぞ、いったいこれは何なんだと、本当に事件だったんですね。なんでこのようなことが起きたのかというと、要するにロックっていう音楽の求心力が自分たちの想像を越えて、行きたいという人たちがすごくいっぱいいてしまった。で、事態がわけの分からないことになってしまった。ちょうどそのときにロックという音楽がすごい力をもってきた。そして、ロックが主張したラブ&ピース、ベトナム反戦みたいなものもあったのかもしれな、ヒッピー文化もあったのかもしれない、そういうようなものと一緒になって、自由に多くの人たちがロックという音楽を楽しむために、頭に花か何かをのっけて、自由な気分で一つの大きなイベントをやろうという、音楽と思想と時代背景と商業的なニーズとありとあらゆるものが全部集まってドカンと爆発したのがウッドストックなわけです。このウッドストックのすごく象徴的な曲がリッチー・ヘブンス(Richie Havens)のFreedomという曲です。アーティストがいろいろ来れなくなってしまって、もともとリッチー・ヘブンスはウッドストックで一番最初に歌うはずではなかったのですが、ウッドストックの最初のアーティストとして出てくるわけですね。もともとはカバーとかをやっているアーティストなんですけれども、有名なゴスペルのナンバーであるMotherless Childを自分なりにFreedomという曲にして演奏するという、まさにウッドストックという空間の中のみんなの気持ち、そしてこのフェスのメッセージ、それをFreedomという言葉にして即興で歌い上げました。その後、リッチー・ヘブンスはこのFreedomという一曲によって、先日72歳で亡くなりましたけれども、ずっと語り継がれていきました。数分くらいの自分の中での思い付きのパフォーマンスだったのかもしれないけれども、時代背景からなにから全部背負ってやられたパフォーマンスだったので、その後何十年間も彼はこのFreedomによって語られるという、それが幸せだったのかどうかはなかなか議論があるところでしょうが、まさにウッドストックを象徴するナンバーを聞いていただこうと思います。Freedom。



 やはりウッドストックで同じように伝説となったのがジミ・ヘンドリクスの星条旗よ永遠なれ(The Star Spangled Banner)とかPurple Hazeで、星条旗よ永遠なれはギターによって戦争のいろいろな音を自分で作って、それで自分の反戦の思いとかアメリカ国歌にのせてやる批評性とか、当時の時代的な空気みたいなものをまさに反映している演奏だし、それからPurple Hazeもジミヘンの代表的なヒットソングだし、どちらもウッドストックというイベント、そしてこの時代の空気を反映したものだと思います。The Star Spangled BannerとPurple Haze。

 

 今では当たり前のギターのファズとアーミングですけれども、この時はほとんどの人が初体験かもしれないですね。ウッドストックにおけるジミヘンの演奏はすばらしくて、ただこの後最後にウッドストックの映画だとゴミの山の中でもう一曲ジミヘンの静かなインストが流れたりする画面があるんですけれども、このようにウッドストックは歴史的なものを作ったんですが、実は私はこの当時から音楽評論家をやっておりましてそれくらい歴史が長いんですが、その時にウッドストック大批判というものを書いておりました。要するに、この当時はウッドストックはすごい、ウッドストックこそ究極の理想郷だみたいな事が言われていて、なんとここでは40万人が集まって子どもも2人生まれたりしていたすごいぞとみんな大騒ぎしていたんですが、確かにロックや新しい価値を提示してすごんですけれども、そんないいことばかりあるわけないじゃないと。そこには混乱もあるし、起きた事態を全然収拾できない幼さもあるし、結局ウッドストックは一回で終わってしまうんですけれども、近隣に対してえらい迷惑をかけたりしたし、けが人もあったし、結局理想郷でもなんでもないわけです。奇跡もすごかったけれども、その奇跡が何であるのかもつかみきれないまま非常に混沌とした事態が起きていた、それを理想郷って言っちゃったらしょうがないだろうみたいなそういうことを、当時私は10代だったんですけれども、そんなことを言っていたのは僕だけだったので本当に嫌われましたけれども。

3、ワイト島音楽祭(The Isle of Wight Festival)

 1970年にワイト島音楽祭が行われます。これはイギリスの避暑地ワイト島で60万人集めてウッドストックのようなイベントが行われたんですけれども、ライブパフォーマンスはすばらしかったしお客さんもたくさん集まったんだけれども、主催者と音楽で金を儲けるとかとんでもないというお客さんとの対立があって、主催者のMCがアーティストを紹介するたびに「お前ら金払え」って客に言って、客にブーイングをされるという混乱の中で、結局ワイト島も終わってしまうという。ロックフェスというのはエネルギーの爆発と新し価値観の提示があったと同時に、自分たち自身でその爆発をコントロールできないという事態もあったということです。時代を象徴するウッドストックであったり、ワイト島であったりするんですけれども、でもそこであったひとつの理想を求めるエネルギーはその後何十年にも渡ってロックを動かす思想にもなっていくんですけれどもね。ジミヘンの死の直前の演奏もあるんですけれども、ここではフーの音源を聞いていただきたいと思います。Young Man Blues。

 

 すごい。みんな勝手ですね。チューニングとかもあってないしエネルギーしかないですね。

4、カリフォルニア・ジャム (California Jam)

 ヒッピー幻想というか、サマー・オブ・ラブの理想主義というかそういうものの究極の形のロックフェスというのがだんだん変質してきて、いろいろな形のフェスが増えていくんですけれども、続いては1974年カリフォルニア州オンタリオで行われましたカリフォルニア・ジャム。カリフォルニア・ジャム2というのが1978年に行われて、そこではエアロスミスなどが出演したんですけれども、1974年はディープ・パープル(Deep Purple)とエマーソン・レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake & Palmer) がダブルヘッドライナーで、ここでのディープ・パープルの演奏なんですけれども、これは映像が残っているので見るとびっくりしますけれども、ステージで火をつける演出をやったら想定外に火がついてしまってステージが燃え上がるんですけれども、それを全く気にしない、それがどうした状態で演奏を続けるリッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)の姿があまりにも鮮烈で、この映像はみるとみんな腰を抜かしますけれども、いわゆるロック幻想というかウッドストック幻想とは違う形で、フェスがみんなにエンターテイメントとして提供されるという大きな動きのひとつの代表的なものだと言えるのではないのかと思います。ディープ・パープルの歴史的な演奏を聞いていただこうと思います。Burn。


 
 演奏もいままでの1960年代から70年代の初頭とちょっと変わってきましたね。ウェルメイドな感じになってきましたね。

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