音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(2) 軍歌をもとにして流行歌が生まれていった

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より

 明治がはじまって、鹿鳴館の話しをしたいんですけれども、これは欧米並みの文化水準を持つ日本というものをアピールしようとしたんですね。ご存知の通り、明治は開国をしたわけで、列強並みいる中にこれから日本が行かなければならないということで、いろいろな欧化政策をやったわけですね。その辺は学校で勉強したと思いますが、舞踏会もやらなければならないと考えたんです。自然発生的なものではなかったんです。鹿鳴館で踊られていたのはワルツだけだったのかですが、僕は踊りはよく知らないんですけれども、明治16年から23年頃までの鹿鳴館は、ポルカ、カドリール、ギャロップ、ワルツとそういうようなものがあったそうです。これは私もよく知りませんけれども。というようなことで、欧化政策をやらなければならないということで、鹿鳴館が作られたわけです。



 これは「トンヤレ節」だけれども、知ってますか。これは官軍が江戸に入場するときに、京都から道中歩いてきたんですよ。行進するときに退屈ではいけないので、歌を作って歌を歌いながら、この鼓笛隊のようなものを鳴らして、江戸に進軍して入ってきました。これが俗に「宮さん宮さん」と言われますけれども、「トンヤレ節」というものです。これが日本最初の軍歌であり、また日本最初の流行り歌なんですね。それまでは都が中心でとかはあったんですけれども、日本全体に行き渡るというようなものは、あまりなかったんですよ。そういうような意味合いで、今の流れから考えていくと、とりあえずこれを我が国の流行り歌の第一号と。とにかく東海道をずっと歩いてくるわけですから、みんなそれを知らず知らずのうちに覚えたということです。これが「トンヤレ節」というものでございました。それで、薩摩藩とかもちろん江戸幕府もそうなんですけれども、軍隊を仕入れたときに音楽も仕入れたんです。例えば、江戸幕府だったら、フランスからラッパを吹く人を呼んだんですね。それで武士にラッパを覚えさせてラッパを吹かせました。薩摩藩はイギリスと交流がありましたから、軍隊と同時に鼓笛隊とかそういうものもやって、幕末の頃には軍隊にすでに楽隊があって、演奏をしていたそうです。だから、薩長が中心になったので、こういうようなサウンドで江戸に入場してきたということだったそうです。それで、明治政府ができてから、また音楽の教師を呼ぶんです。イギリスから来た人がフェントン(Fenton)という人です。この人を呼んで、音楽をいろいろ教えてもらったんです。いろいろこの人に教わったんですけれども、この人が日本に来て驚いたのは、国歌がなかったんです。一番最初に演奏するには国歌を演奏しなければならないということで、詞を作ってもらって、フェントンという人が作曲しました。これがオリジナルバージョンの「君が代」です。



 なんか「きよしこの夜」みたいな感じですけれども、これはわりあい有名な話で、去年も日比谷音楽堂かどこかでこれが演奏されておりました。ところが、メロディーがあまりにも洋風なのと、そうじゃなくても我々が聞いても覚えにくいじゃないですか。それで、全く浸透しなかったんです。フェントンと言う人は解雇されまして、明治9年にこのフェントンバージョンは廃止されました。それで次に、ドイツからエッケルト(Eckert)が呼ばれまして、今の「君が代」になりました。エッケルトという人がアレンジしているんです。今の「君が代」はすごくアレンジの力が大きい感じがしますよね。あの重厚な感じはアレンジによるものだという感じがしますけれども、ドイツ人だからあの重厚な感じがするんです。その次に、フランスからルルー(Leroux)という人がやってきます。音楽に限らずですけれども、明治の頃はとにかく外国人教師を呼んで、農業、工業、医学もすべて外国人教師だったんですよね。それで音楽もそうだったということで、フランス人のルルーという人がやってきまして、この人が軍歌を作るんです。詞は日本人です。「抜刀隊」という曲です。



 イントロが異常にながかったですけれども。「抜刀隊」の部分が始まった時、マイナーで始まったのが途中からメジャーになったでしょ。この当時陸軍の人がこれで歩いたそうですけれども、歌詞のバージョンもあるんですよ。歌詞がつくと本当に軍歌だなという感じがします。




 これを歌いながら行進したんだけれども、さっきのメジャーの所あるでしょ。あそこは全員音がとれなかったんだって。軍歌やマーチというのは、もともと日本にありません。だいたい、行進がありません。全員がまとまって行進するというのは、この時代に入れたものじゃないですか。だいたい宮中とか時代劇を見ていると、着てるものがあれだから右手と右足を同時に出すでしょ。僕らくらいの年代までは、昭和40年の後半ですけれども、体育会とかそういうのがあると、必ず右手と右足が同時に歩いている人間がいたものですよ。最近はいないんですかね。まだ居たりすると、その人は文化に深く根差した人だということが言えるんですね。これはどうでもいい事なんですけれども、この曲のメロディーがとある歌劇の中にあると言っている人がいるんです。それはビゼー(Bizet)の「カルメン(Carmen)」という歌劇なんです。(8:00あたり)。



 これは僕の説ではなくて、堀内敬三さんという、日本の音楽解説家としても最初ですし、「カルメン(Carmen)」の最初の訳をされた方もこの堀内敬三さんという方なんです。これは堀内敬三さんの説なんです。ルルーというのは音楽学院でビゼーの後輩だったそうです。そういう調べもついた上でそういうことを言っているわけです。そういうわけで、さっきの「抜刀隊」は忙しい歌でしたけれども、メロディーの下敷きは外国の曲だったということです。でも面白いことに、この「カルメン(Carmen)」っていうのは、すごく日本人に好まれたんですね。いろいろな曲がこの「カルメン(Carmen)」をもとにして、代々ものすごく生まれています。これをやっていると、「カルメン(Carmen)」だけで一時間が終わってしまいますけれども、とりあえず「カルメン(Carmen)」がどんなものだったのかについて聞いてみましょう。



 これは最後の方だけですけれども、とにかくこの「カルメン(Carmen)」は受けまして、映画のタイトルでも「カルメン故郷に帰る」とか、歌のタイトルに使われたりとかいろいろあるんですけれども、1977年ですから、つい20年くらい前ですね。「カルメン(Carmen)」が日本でリバイバルしたことがあるんですよ。



 これが「カルメン'77」ですけれども、阿久悠さんと都倉俊一さんの作品で、阿久悠さんのパロディーものですよね。だいたいピンク・レディーそのものが全編パロディーにしてできたものなんですよね。その中でも「カルメン(Carmen)」が出て来たということで、ビゼーとかルルーの明治の人たちの頃から100年くらいこの「カルメン(Carmen)」はずっと生き続けたんですね。その後はあまり聞きませんけれども、いろいろな所に忍び込まれているというか、忍び込んでいるという感じはあります。阿久悠さんと都倉俊一さんはピンク・レディーの前に山本リンダという一つの冗談プロジェクトをやっていまして、この人がこういう曲を出していました。



 これが「狙いうち」というタイトルでして、これが一番聞かれるシーズンはもうすぐですね。夏の甲子園なんです。野球の応援に、甲子園を見ているとこればかりかかっていますよ。ここ5年くらいですかね。これがよく使われているのは。それで、これが「狙いうち」という詞なんですけれども、実は「ウララ ウララ…」の部分のメロディーは、「抜刀隊」のメロディーをひっくり返したものではないかというのが、僕の仮説なんです。もともと「狙いうち」のジャケットは赤いバラを腰にさして、「カルメン(Carmen)」のイメージなんですよ。だから阿久悠さんと都倉俊一さんは二度やってるんですね。山本リンダとピンク・レディーで。両方とも「カルメン(Carmen)」をベースにしたら、なんと「抜刀隊」の軍歌の勢いを感じ取って、野球の応援歌に使われているのではないかというのが私の仮説です。だから、野球とかスポーツの応援に、行進曲なり軍歌が根強く残っているということは、これから追々でてきます。それで、「抜刀隊」の次に、あれだと官軍の歌ですからね。少しずつ近代的な軍歌を作るようになります。



 これが「来たれや来たれ皇国の守」という忙しい歌ですけれども、先ほどは官軍だけの歌でしたけれども、やはり富国強兵で列強に伍してこれから海外に出ていくぞという感じがあらわれているのではないのでしょうか。次は「敵は幾万」という、だんだん勇ましくなるんですよね。



 これは六大学の野球を聞いていると必ず聞かれますね。歌詞はないですけれども、このメロディーは必ず出てきます。だんだん明るい感じになってきますけれどもね。小山作之助さんという、滝廉太郎の師匠筋にあたる方の作品です。次に、陸軍がようやく最初の軍歌を持ったんですけれども、陸軍は歩きますから、「歩兵の本領」という曲です。




 ところが、このメロディーが、もともとはこの軍歌用のものではなくて、一高ですね、今の東大ですけれども、一高の寮歌で「アムール川の流血や」という、これまたすごいタイトルの寮歌があったんですけれども、それのメロディーだったんです。




 同じメロディーなんですけれどもね。実はこのメロディーは今度、大正11年にメーデーで歌われます。「聞け万国の労働者」。



 寮歌のメロディーが陸軍の歌になったり、メーデーの行進の歌になったり、いかにこの当時メロディーがなかったのか、こういう西洋的なものはまだ作曲する人が多くはなかったので、メロディーを使って詞を書いて、いろいろな歌詞を歌ったというわけですけれども、陸軍とメーデーのメロディーが一緒というのは、いかにもという感じがします。このメロディーがだんだんいろいろな形になっていって、いわゆる童謡のようなものの中にも入っていったりするんですよ。同じメロディーではないんですけれども、いかにもこれをベースにして作ったなという感じのものが、後に出てきます。「お山の杉の子」。



 基本の構成が全く同じです。それでこういうようなウキウキした感じの、軍歌が童謡の中に入っていくということがあります。そうこうしているうちに、いろいろな曲が出てきまして、海軍の中で日本のマーチといえばこれという決定的なものが出てきました。「軍艦行進曲」。



 初期の頃に作られて、これを超えるマーチは出てきませんよね。音楽的な解釈だけでいっても、非常によくできているマーチですよね。この曲の作曲者が日本のスーザと呼ばれている瀬戸口藤吉なんですけれども、この人の孫弟子にあたる方で、古関裕而さんという方がいます。古関裕而さんはこの後いろいろなマーチを作るんですけれども、大学の校歌とか寮歌とかそういう大学の応援歌のようなものを作るんです。それで、古関裕而さんが作った大学の応援歌というのがこれです。「紺碧の空 - 早稲田大学応援歌」。



 これが昭和6年に作られた「早稲田大学応援歌」。古関裕而さんが作曲したものなのですね。さっきのような軍歌がこういう大学の応援歌とか、そういうようなところに。六大学は野球がすごく盛んだったんですね。それで、そういう所で歌われたりしました。やっぱり野球に関係しているんですよ。古関裕而さんにはマーチとか応援歌の依頼が殺到しまして、いろいろな曲を古関裕而さんは作っているんですけれども、次の曲もこの古関裕而さん作曲の曲なんです。



 現在では「六甲颪」って俗称で言われていますけれども、阪神の応援歌なんですけれども、オリジナルは「大阪タイガースの歌」です。最初は大阪タイガースって言ったんですね。東京ジャイアンツと大阪タイガース。これも早稲田の応援歌と同じく古関裕而さんなんですね。大阪タイガースの歌があるとすると、ジャイアンツの歌もあるのではないかと思うのが普通なんですけれども、これがあるんですね。巨人軍の歌は三回作られているんです。第三代がその中でも一番有名ですから、その第三代目を聞いてもらうんですけれども、これは俗称は「闘魂こめて」という歌です。これもまたなんと、阪神タイガースの歌を作った古関裕而さんの作曲なんですね。巨人と阪神が同じ人が作曲した応援歌を歌っていたという。



 これが読売巨人軍が1963年に作った三代目の曲なんですね。ちなみに、初代も古関裕而さんだったんですけれども、とにかくマーチといえば古関裕而という。ですから、「軍艦行進曲」の瀬戸口藤吉の流れがずっと流れているわけです。それで、この人が晩年に作ったマーチというのがありました。



 今年は戦後50年と言われていますけれども、敗戦後日本が見事に復興した一つの象徴として行われた1964年の東京オリンピック。その東京オリンピックの「オリンピックマーチ」です。これも古関裕而さんなんですね。だから、明治の外国人のフェントンなりエッケルトなりルルーなりそういう人たちが教えて、その教えを受けて瀬戸口藤吉その他の人たちがマーチを作って、その孫弟子の古関裕而さんがマーチとか応援歌を、はたまた野球の応援歌を含めて、いろいろ作って、1964年にこのマーチも作られたということです。これがだいたい100年くらいの流れですね。ここまできますと、昔みたいに敵をやっつけろとか、そういう感じの勇ましさはなくなりましたし、敗戦のショックというものもありまして、あまり出かけるのもよくないだろうということになりまして、そうなると行進するのはいいんだけれども、どこに行進をしたらいいのだろうかということが分からなくなります。さて、行進するところが分からなくても、どこかに行進をしようという気持ちをどうぶつけたらいいのか。これがこの東京オリンピックの翌年、1965年に作られたマーチがあります。「ホンダラ行進曲」。



 どこに行進するのでしょうか。私は目的地はわかりません。とにかく分からなくてもホンダラッタホイホイが答えだという、これが明治100年たっていろいろ前に進んで戻りながらもいろいろやってきた日本の、一つの1960年代半ばの答えだったのではないかという風に私は思っております。さてその後、1968年にまた勤勉な日本人のためにといいますか、マーチが作られますけれども、これが大ヒットしたマーチという名がついた最後の曲だったのではないかと思います。



 水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」。一年間ずっとマーチをしなければならないというくらいですけれども、作曲家は米山正夫さんで、明治の最初に進もうとして、途中の「汗かき~」でマイナーになるところは第二次世界大戦で負けて、それでも希望をもって明日をめざそうと、そういう構成の歌だと私は解釈しております。米山さんはわりあいそういった作り方をする人だと私は思っています。この後なんとかのマーチという曲が一位になったりはしていないはずですよ。1968年以降は。または、なんとか行進曲とついたものもほとんどないのではないでしょうか。この後、今は行進曲として常に注目されているのは、高校野球の入場式なんです。だから、高校野球の入場式に何が行進曲として使われるのかが一つのテーマになるということは、やはり行進曲というものを国民が必要としているというか、それの代用として使われているのではないかというのが私の考えです。この後いろいろな曲が作られて、100位以内にマーチという曲がヒットしたのは、私の「うなずきマーチ」だけだと思います。



 20年前に私が作りましたマーチがございます。「ロックン・ロール・マーチ」。

 明治の頃は富国強兵。外国に向かうというテーマがありましたけれども、100年もたちますと、ロックンロールだったり、うなずいたり、ホンダラダッタだったりするわけです。ちなみに、「三百六十五歩のマーチ」の1968年というのは、明治から100年目です。そこになにがしかあるのではないのかというのが私論でございます。

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