音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(3) 唱歌をもとにして流行歌が生まれていった

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より

 軍歌でスタートした日本の流行り歌なんですけれども、明治政府は明治4年に文部省を設立します。これまでは一般の子ども達の教育制度はなかったんですね。一般の町の人たちは読み書きそろばんの寺子屋制度があったとしても、国がそういう教育をするということは、明治からなんですね。明治5年に学制が公布されたと。やはり教師は外国人教師だったんですね。だからクラーク博士のような人が来て、「少年よ大志を抱け」って札幌農学校で言って帰っていったわけですけれども、授業内容はみんな英語で行われたんですね。アメリカの人の場合は。医学はドイツ人が来て、そこではドイツ語で行われたんですね。だから、そういうような言葉が分野分野で残ったりしていますけれども、音楽もまた教育の対象になったんですね。なんで音楽は教育しなければいけなかったんでしょうかね。とりあえず富国強兵ということで、若者も含めて子ども達を教育して、立派な兵隊を作る、まあ立派な人間を作るですけれどもね、そういう風なことがあって、教育が行われたわけですよ。音楽では、音楽取調掛というのができるんですけれども、それが後の東京音楽学校で、それが芸大になるんですけれどもね。そこに外国人教師が来まして、それがメーソン(Mason)という人なんですけれども、このメーソンという人がきて音楽取調掛で教えるんですよ。この人が音楽を教えるために、はじめてピアノを輸入したんですね。それまでピアノが日本にはなかったんですね。それからバイエルをこの時に輸入しました。未だにみんな普通はバイエルから始めるんでしょ。最近は変わってきたみたいですけれども、これは明治から100年ずっと同じことをやってきたんです。このメーソンと言う人が最初にこれを持ってきたからですね。その時に違うものを持ってくれば、みんなバイエルをやらずに済んだんですね。バイエルで音楽嫌いになる人って多いんでしょ。メーソンがこんなものを持ってきたから失敗したんじゃないかって。それで、最初に子ども達を教育しようということで、唱歌教育というものを始めるんですね。まず歌を歌わせようと。本当は、メーソンの音楽学校では唱歌とピアノと和声学と管弦楽と四つ教えていたんですけれども、一般の次元では楽器がみなさん弾けないんです。この頃は。楽器どころか洋楽のメロディーすら覚えにくかった時期ですから、とりあえず歌だけは歌えるのではないかということで歌を作るのはいいんですけれども、作曲家がいないんです。ですから、海外の歌を、メロディーを借りてきて、その上に日本語をのせるということが、一番最初の唱歌教育だったんです。ほとんどの最初の頃の唱歌は、外国の曲です。さあ聞いてみましょうか。まずは「見渡せば」。



 これは「むすんでひらいて」のメロディーです。一番最初は「見渡せば」という歌詞がついたそうです。これはスコットランド民謡と言う風に言われていますけれども、スコットランド地方では有名な歌で「Auld Lang Syne」。



 最近の卒業式は二番くらいで終わるのが通常ですけれども、この曲は四番まであります。この四番は今は歌われません。何故歌われないかは聞いてみましょう。「蛍の光」の四番。



 というもので、明治の最初は「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり」と、こういうものです。最後は「努めよ我が兄、恙無く」と兄を送るという。これは結局出征する先達を送る歌なんです。だから卒業式に歌うんですよ。今は出征することがなくなったので、形式だけ残ったんですね。だから別れの歌というような感じでとらえられています。そういうことで、四番はないんですね。でも最初はあったんですね。このように唱歌でも、景色とか自然とか、またはこういう富国強兵とか国体にかかわるものの詞がのっていたんですよ。こういうのが唱歌教育で情操教育だったんですね。では、これもスコットランド地方の民謡ですけれども聞きましょう。



 「Comin' Thro the Rye 」、日本ではこれは「故郷の空」というタイトルでしたね。




 オリジナルは「Gin a body meet a body, Comin' Thro' the Rye」で、この後、ザ・ドリフターズが「誰かさんと誰かさんが麦畑」というのが、どちらかというとオリジナルの原詞に近いんですね。原詞の意味はドリフターズの方が近いんですけれども、「夕空はれて、秋風ふき」「思えば遠し、故郷の空」ですからね。結局ここで一つの結論が出ているのは、その詞の内容がどういう風につくのかでその曲がほとんど変わってしまう。明治の場合はどんな詞をつけるのかが一番のポイントだったでしょう。曲はあるものですからね。だから、童謡を聞いたり唱歌を聞いて涙するっていのが国民のなにがしと言う人がいるんですけれども、原曲がまるで違うというところにになにがしか面白いと思いますけれどもね。他には「追憶」とか「久しき昔」とかも外国曲です。こういうような種類の曲がジャンジャン輸入されたのがこの時代だったんです。初期の頃は外国曲に日本語の歌詞をつけたんですけれども、日本の曲だと思っている人が多いんです。教育される側は分からないから。「思えば遠し、故郷の空」とかついていればそういうことを考えてしまいますからね。それだけ言葉の力は大きなと思いますけれども。さて、そこで外国曲ばっかりでもあれだということで、作曲する人がようやく現れます。音楽取調掛の学生であり卒業生だった人が現れまして、その人の名を滝廉太郎といいます。滝廉太郎が出てきまして、ようやく日本のオリジナルの唱歌が作られるようになります。「花」。



 これまでの日本の歌と比べれば、非常に洋楽風ですけれども、このハーモニーが独特ですよね。なんとなれば、これまでの日本の音楽はハーモニーがないんですよね。基本的に仏教のお経などがそうですけれども、歌舞伎なんかを見に行ってもそうだと分かると思いますが、全部ユニゾンなんです。ハーモニーがないんです。要するに、ハーモニーも輸入したんですね。自分で独学で考えたハーモニーなので、教えて覚えなきゃいけないんですよ。無理につけたハーモニーなので覚えなきゃいけないんです。滝廉太郎の中ではこのような唱歌みたいなのが多いんですけれども、中学唱歌というものの中にも書きました。この頃はいろいろな曲をたくさんオリジナルが欲しいということで、音楽取調掛が教員とか学生に懸賞募集をしたりします。曲を作れと。そして当たると何円あげますと。その懸賞で受かった曲が次の曲なんですけれども、これが有名な「荒城の月」です。「荒城の月」なんですけれども、今回聞いてもらうのはオリジナルです。今流布されている「荒城の月」と一カ所音程が違います。それをちょっと聞いてみてください。



 「花の宴」の「え」がシャープしていましたね。滝廉太郎は最初はこう作ったんです。こう作ったんですけれども、誰も歌ってくれなかったんですね。半音だから音をとるのが難しいんですよ。それで、「え」が半音ではなくみんなが歌いやすいように変えてしまって、原作者もやむを得ず歌いやすい方にしたと。



 これは「荒城の月」で「え」がシャープしていませんでした。それで、この「荒城の月」というのは非常にいろいろな意味合いで深くその後の音楽に影響を与えて、これをベースにしてできた曲が何百曲とあると思いますよ。これが非常に好まれたんですね。「荒城の月」と「花」とで知られている比率みたいなものでいきますと、7対3くらいじゃないですか。「荒城の月」はみんな知ってるけれども「花」はあまり知られていない。やはりここには、メジャーとマイナーとの日本人の好みが出ていると思うんですけれども、この「荒城の月」をいろいろ、これをベースにして作った曲がいっぱいあるんですけれども、戦後なんですけれども、私が非常に「荒城の月」に捧げる歌、オマージュをささげた曲があって、これが私としてはなかなかよくできた曲だなと思うんですけれども、これを聞いてみたいと思います。



 これは戦後の三橋美智也という人が歌った「古城」という歌なんですけれどもね。流行歌の中にまぎれてみんな分かりにくくなっていたと思うんですけれども、これは見事に詞曲ともに「荒城の月」に捧げた歌なんです。こういうようなことが流行歌の中によくあったんですよ。だから唱歌と別に考えていないんですね。唱歌をもとにしてだんだん流行歌が出来ていくということは追々話しますけれども、だんだん流行歌の中にも入っていくんです。これは見事な捧げ方だなと僕は思いますけれどもね。これは、私の説ではなく、橋本治さんという人の発見でございますので、マルCはそちらの方に。ということで、このような自作というものが出来てきますけれども、滝廉太郎は生徒のうちから作曲をしていて、作曲をする人がそう多くはないわけじゃないですか。そうすると、学生の中でいろいろと作曲をしてくるということが起きるんです。それで、一高の第十二回記念祭寮歌、記念祭をするたびに寮歌をつくるんですね。寮歌を集めるとすごくいっぱいあるんですけれども、何かある度に作ってたんじゃないですか。それで、寮歌というとこれが一番最初に出てくるっていうくらい有名な歌で、「嗚呼玉杯に花うけて」。



 これが寮歌なんですね。実はこの曲の原曲はこういうマイナー的なメロディーじゃないんですよ。実はメジャーなんです。「嗚呼玉杯に花うけて」のオリジナル、メジャーバージョンを聞いてください。

 こちらは遊んでるとしか聞こえないかもしれませんね。昔よく楽屋でメジャーの曲をマイナーにしたり、マイナーの曲をメジャーにしたりしてみんな遊びましたけれども、そう遊んでるのではないかって。最初長調で作っていたのが、歌われている間に短調になっちゃったんです。だから、滝廉太郎の「荒城の月」の半音がとれないのと同じように、日本人はマイナーの方に馴染んでいるんですね。ということで、そっちの方になったということがあるそうです。なかなか最初の頃はいろいろな事があったんでしょうね。寮歌というと、男だけではなくて、明治35年に創立された佐世保女学校というのがありまして、そこの愛唱歌として作られた歌があります。それが「美しき天然」と、後に「天然の美」というタイトルでも知られていますけれども、これは佐世保の女学校の愛唱歌だったんです。ところが今佐世保の女学校の人が歌っている音源がありませんので、当時を再現して女学生はこう歌ったんじゃないかというような感じでとってきました。



 
 これがこの後ヒットするんですよね。この女学校の歌は楽譜が飛ぶように売れて、なんで売れるようになったのかというと、軍隊だけじゃなくて街中に楽隊ができるようになるんです。それを市中音楽隊と呼んだりしたんですけれども、民間でも楽団を持つようになるんです。民間が持つと、百貨店が持ったりとか、ウナギ屋さんが持ったりとかして、自分の店のPRなんかも始めるんです。それで、軍楽隊をだんだん小規模にして外を練り歩いたりして広告したりするという、そういう小規模のグループを「ジンタ」と呼んだんです。それが映画館とかいろいろな所にいって演奏するんです。例えば何か催し物があるぞというと、街中を歩くわけです。今でもパチンコ屋の開店とかだとまだあるかもしれません。それで、この時に「美しき天然」のメロディーがジャンジャン使われたんです。「美しき天然」のメロディーが市中の音楽隊の手にかかるとどうなるのか、これを聞いてみましょう。


 原譜がアレンジされて、だんだん馴染みやすいようになっていって、これがさらにもっともっと馴染んでいくんです。これは我々の世代まででしょうか、サーカスで聞かれました。サーカスの中で必ず「美しき天然」が、このメロディー=サーカスというのは我々の世代までだと思います。そういうので非常に流行ったんですけれども、もとは女学校の愛唱歌で、作曲者の田中穂積と言う人は、やはり海軍の軍楽隊の出なんです。だから大元はすべて外国人教師から習って、「軍艦行進曲」の人も、この「美しき天然」の人も、こういうような曲を作って、それがだんだん軍隊のものだけではなく、学校の唱歌だけではなく、寮歌として学生が歌い、それから市内に楽隊として出ていって一般の人がきいて、それがサーカスにも入っていくという、だんだんだんだん明治の教育されていたものが一般に少しずつ浸透していくということになります。以前の日本の音楽ではないから、耳新しいじゃないですか。だいたい、楽隊自体が耳新しいでしょ。だから、そういうものが街中を練り歩いて、メロディーが染みついていくと。

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