音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(5) 帝国劇場から浅草オペラへ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 ダンスの鹿鳴館と同じように、列強に伍するためには列強と同じような芸術を持たなければならないということで、帝国劇場を作ります。海外にも誇れるような国立劇場を持とうということで、それで出来たのがこの帝国劇場なんですね。帝国劇場の中で一番最初に何をやろうかと考えて所に、外国に負けないようなオペラをやろうではないかとなって、いろいろな人を教師として呼びます。ドイツ人のアウグスト・ユンケル(August Junker)という人とウェルクマイステル(Werkmeister)という人、イタリア人のアドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli)という人がやってきて、その人たちから教えを乞いました。その中に、日本初のプリマドンナと言われた三浦環もいました。この人はすぐに大正4年にイギリスでジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)の「蝶々夫人」に出演したそうです。彼女こそ、芸術家としての海外流出第一号と言われています。このように、オペラをやろうということで、帝国劇場を作りました。そして、最初は海外のオペラをやっていましたが、日本オリジナルのものも作ろうということで、ユンケルは能の「熊野(ゆや)」でオペラを作ったんですけれども、最初見ていた人は何がなんだかちっとも分からなかったそうです。ものの本によると、お姫様の三浦環の裾を後ろの武士が踏んで、三浦環がころんでしまい、そこから客が笑いだして、ずっと笑いが途絶えなくて大失敗に終わったとそうです。それで分かるのは、能とか歌舞伎とかそれまでの日本の演劇というのは、主役が歌わないじゃないですか。音楽をやる方と芝居をやる方は完全に分かれています。歌舞伎なんかで突然主役が歌い出したらおかしいでしょ。だから、見てる側としては主人公が歌うというのが最初に奇異な感じがしました。タモリさんは未だにミュージカルは肌に合わないって言っていますけれども、そういう人は多いのではないかと思います。ですけれども、世界に伍するためということで、オペラをこの時代の音楽の最高峰としてやったんです。

 その次に、またいろいろな先生が来るんですけれども、イタリア人のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(Giovanni Vittorio Rosi)という人が来ます。この人は帝劇でいろいろな人を教えます。今までの唱歌というのは堅苦しい言葉だったじゃないですか。海外の曲に詞をつけるということで、この頃からだんだん言文一致のような詞になってくるんです。この頃のオペラの中でヒットした歌でいまでも知られている歌があります。「恋はやさし野辺の花よ」ですが、それを三浦環の歌で聞いてください。

 ローシーという人は非常に教育熱心で、教え方があまりにも厳しくて、一期生、二期生、三期生と帝劇の歌劇部がいろいろな人を募集するんですけれども、だんだん一人二人と減るんですよ。そして、第三期にはなんと左卜全さんがいました。ですから、本格的なオペラをやるために帝劇の三期生で入って、この人は最期は「老人と子供のポルカ」のズビズバーで終わってしまったわけですね。これは明治から100年というものをひとつ象徴しているのではないかとも思います。ローシーは帝劇を追われて、私財を投げうって、自分でローヤル館というのを赤坂見附に作るんですね。もう少し一般の人にも分かるようにという意味合いで、自分で日本にオペラを根付かせようとしてがんばったわけです。その時に、ローシーのもとへ来たのが19歳の田谷力三と言う人なんですね。浅草オペラで一世を風靡した人なんですけれども、田谷力三さんやいろいろな人が、ローシーの門を叩くんですけれども、どうも本格的なオペラはまだ日本人には難しいと。まだ明治の末期ですからね。それで、喜歌劇、いわゆるコミックオペラですね。ちょっとわかりやすいようなものの方がいいだろうということで、「天国と地獄」とかをやったりしたんですけれども、残念ながらローシーのオペラは日本に根付かなくて、イタリアに帰ってしまうんです。その後、残された劇団員たちは、当時一番の東京の繁華街は浅草なので浅草に流れて行って、浅草オペラという独自の発展をするというのが、帝劇から浅草オペラまでの流れということになります。

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