ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(6) 演劇から歌が生まれた

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 日本は、オペラ、行進曲・軍歌と続いて演劇も輸入しました。とにかく全部明治の時は輸入しましたからね。演劇も最初は翻訳劇ですよ。演劇といえばシェークスピアで、シェークスピアを最初に訳したのが坪内逍遥ですけれども、その坪内逍遥が中心となっていろいろな演劇活動が行われます。いろいろな所に演劇の集団が出来てきて、最初はみんな翻訳劇をやるんです。そういう人たちは新劇と呼ばれたりしました。歌舞伎とかそういう昔のものは旧派と呼ばれていました。坪内逍遥と一緒にやっていた島村抱月が、芸術座という劇団を作りまして、帝国劇場で劇をやっていました。演目はトルストイの「復活」。この時に主演だった女優が松井須磨子という人で、この松井須磨子が芝居の最後に歌を歌うんです。これが当時非常に流行しました。



 松井須磨子は元祖女優と言われていましたけれども、「復活」なので「復活唱歌」と言われていました。作詞は芝居を作った島村抱月と口語詩運動をやっていた相馬御風、作曲は中山晋平です。中山晋平さんは東京音楽学校を出ていますね。作曲は特殊な技能なので、この頃は音楽学校を出ていなければいけなかったんですね。この曲は「復活唱歌」が正式なタイトルだったんですけれども、みんな「カチューシャの歌」と言っていますね。演歌師の人たちがこの曲をバイオリンで全国に広めたんです。この曲はレコードでも出て、大正4年で3万枚売れたということです。これが流行り歌の元祖だと言われていますし、中山晋平が流行り歌の中では元祖だと言われています。滝廉太郎とか「軍艦マーチ」を作った瀬戸口藤吉というのは、サウンドやいろいろな所で流行り歌には生きていますけれども、この中山晋平のラインは太い幹となって、この後に後続がいっぱいでるんです。松井須磨子は聞いても分かるように、とてもうまいとはいいがたいでしょ。中山晋平の当時の本を読むと、お須磨さんの歌には参ったと書いてありますけれどもね。このレコードは伴奏もなくて、旅先の京都のどこかでただふき込んだんです。それで、倒産寸前のレコード屋がこれで立ち直ったという話もあるんですけれども、本当にただ音盤を前にしてふき込んだだけなんですね。それで、舞台では最後に歌っているんですよ。確かに、主人公が歌って終わるとか歌舞伎とか考えると、歌って終わらないですからね。この後、帝国劇場でツルゲーネフの「その前夜」をやります。その劇中歌で歌われたのがこの曲でした。



 これが「ゴンドラの唄」で、黒澤明さんの「生きる」という映画で、最後に志村喬さんが歌いますけれども、これが松井須磨子の第二弾なんですね。ピアノの伴奏とバイオリンが入っていましたから、多分ピアノの伴奏は中山晋平本人が弾いているんではないかとおもわれますけれども、こういうのは何となく現在の流れの基本のものだなという感じはありますよね。中山晋平はこういう曲をたくさん作っていくんですけれども、その次に作ったのが「船頭小唄」という歌です。作詞は野口雨情なんです。これが非常に大ヒットしたのは、また演歌師なんですよ。この頃はレコードを持っている人はそう多いわけではないので、演歌師が各地で歌い歩くというのが一番のメディアだったんですね。だから、演歌師にどれくらい歌われるのかがヒットのバロメーターだったんです。この「船頭小唄」も演歌師によって歌われているんです。この演歌師出身で鳥取春陽さんという人がいるんですけれども、この鳥取春陽さんのバージョンで「船頭小唄」を聞いてみましょう。



 この曲はいろいろな人にカバーされていますが、オリジナルを聞いて私が思う事は、とにかく明るいんですね。これ以降の人たちはだんだん暗く歌っていくんですよ。この曲が大ヒットした直後に関東大震災が起きてしまいます。震災が起きたのはこういう暗い歌が流行るせいだとこの歌のせいにされて、一時期歌われなくなったということがありました。だいたいこういう風に、演劇の流れからも歌が出てくる、オペラの中からも歌が出てくる、いろいろな所から西洋的なものをベースにしていろいろなものができてくるというのが明治から大正の流れなんですね。

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