音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(10) 浅草オペラから宝塚歌劇団・松竹歌劇団へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 「東京行進曲」に匹敵する大阪のテーマソング「浪花小唄」というものを聞いていただきます。



 最後の「テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ」の所が有名ですけれども、 NHKで浪速演芸会があると、この曲がかかったんですよ。東京、大阪とくれば京都。



 昭和5年の作で京都の「祇園小唄」ですけれどもね。これが後ろにかかって月形半平太が出てくるというのは時代考証としてはSF的なものがありますけれども、これを流すといかにも京都かなという感じがします。知らない人は以前からあるという感じですが、これも昭和5年に作られたというのは面白いことではないでしょうか。この「浪花小唄」も「祇園小唄」も作った人は同じで、佐々紅華という人です。この人はレコード会社の社員であったり、浅草オペラの支配人なんかもしていた人なんですよ。なかなかにこの人は才人でして、この人が作った浅草オペラの頃の「カフェーの夜」という自作のオペラなんかも作ったりしています。オリジナルはありませんけれども、ここに「カフェーの夜」の「開幕の歌」がありますけれども、ちょっとこの歌詞を読んでみたりしてくれませんか。

  ザプリティガールズ
  ウィズチャーミングアイズ
  アンドローズリップス
  スイートドリンク
  ユーアーヘルス
  アイラブユー
  ユーラブミー
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか
  大正の新しい女はどこよ
  スイートドリンク
  フルオブジョイ
  待っててよ
  よくってよ
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか

 大正の女の人はずいぶん進んでいるでしょ。すごいじゃないですか。その辺のディスコで踊っている女の子に聞かせてあげたいくらいですよ。こんな横文字だらけで、佐々紅華さんは。また浅草オペラがいかに時代の先端だったのかということですね。これは歌詞なので歌ったんですよ。すでに、浅草オペラに熱狂的なファンがいます。そういう人たちをペラゴロと呼んでいます。これはオペラのゴロツキではなくて、オペラとジゴロを足したんですね。女の子がダンスで出てくるじゃないですか。そうすると二人くらいひいきがいて、片方と片方で応援合戦が始まったりするんですよ。その中に18歳の川端康成がいたそうです。川端康成はこの後浅草オペラについての新聞小説を連載するんです。それで浅草オペラが一般的にさらに人気が出てくるんです。この当時の浅草オペラの中でナンバーワンの人気を誇っていたのが田谷力三さんでした。この人のインタビューがCDになっておりまして、ちょっとそれを聞いてみましょう。

 司会「その頃浅草で上演されましたオペラの曲目はどんなものを上演されましたか。」
  
 田谷力三「もちろんローシーゆかりのオペラはね、「ボッカッチョ」、「コルヌヴィルの鐘」、「マスコット」といったものをやっております。間にね、日本ではまだ早いだろうと申しましたけれども、「カルメン」を。これはもう当たりましてね、そこから創作オペラを。」

 司会「日本人の作曲でございますね。」

 田谷「これは伊庭孝さんの作詞で、作曲は竹内平吉さんで。」

 司会「あの宝塚に行かれた。」

 田谷「ええ。「釈迦」を。これも入りましてね。」

 司会「お客様が賽銭を舞台に投げたと。」

 田谷「そうなんですよ。その当時の二銭銅貨です。こんな大きなの。お釈迦様にご奉仕をやっているってことで、紙に包んだり、しまいには生でポーンと放るものですから、歌っていて危なくて口の中に入っては大変だということで、お釈迦様へのご奉仕はどうぞおやめくださいって。それから歌舞伎十八番の「勧進帳」を佐々紅華か何度も上映したいっていうんでやりました。富樫左衛門尉。エノケンの師匠の柳田貞一が弁慶で。柳田貞一の所にちょうど13、4から、後に歌う喜劇王になりました榎本健一がコーラスで一生懸命稽古していたんです。だから柳田貞一の弁慶に対する後見がエノケンだったんです。」

 司会「関東大震災の時でございますね。あの時は何を出し物にしていましたか。」

 田谷「ちょうど「マダム・バタフライ」の二日目でございました。これもよく入りましてね。それで浅草オペラは大正12年(1923)に壊滅しまして、私はとにかく7年間、一日も休まずに歌いましたので、この辺でもう一度声を練り直して、いちいちまで歌いたいという気持ちから、音楽家に転向しました。それで音楽界の方で歌っておりましたけれども、再びまた昭和に入りまして、12、3年頃に浅草にまた出まして、それから戦後ももちろん浅草オペラを持ちまして、ダイジェスト、さわりでございますけれども、今もなおローシーゆかりの浅草オペラを歌い続けております。」

 ということで、少し前のインタビューですけれども、「ローシーゆかりの浅草オペラ」ということで、帝劇の流れをくんでいて、普通のちゃんとしたオペラをやっていたということなんでしょうね。中でもときどき「勧進帳」のオペラが出てくると言っていましたから。そしてこれをやったのが佐々紅華だという話もしていましたけれどもね。その時に柳田貞一と言う人も出演者だったんですが、その人に弟子入りしたのが榎本健一、後のエノケンと呼ばれた人ですけれども、エノケンが後見をしていたと言っていましたけれども、これは黒澤明さんの「虎の尾を踏む男達」のあそこのような感じになっていますけれども、エノケンさんもこれに登場するんですけれども、登場した途端に関東大震災が来まして、浅草オペラが全滅しちゃんですよ。隆盛を極めた浅草オペラはこれでいったん止まるんですね。それで大挙してミュージシャンがいったん大阪に向かうというようなことが起きたりもしました。さっきの中にもちょっと出てきましたけれども、帝劇のオペラ、そして浅草オペラもありますけれども、これらのオペラを見て阪急の社長の小林一三と言う人がいて、これの少女によるオペラというものを考えたんです。これが有名な宝塚なんです。だから、もとは帝劇のオペラなんです。宝塚少女歌劇団の第一回の公演は「どんぶらこ」という和洋折衷のものだったそうです。それから大正7年に宝塚音楽歌劇学校というものの創立が認可されまして、ここから宝塚の歴史がはじまるんです。浅草オペラの中の人が宝塚に引き抜かれたんです。そういう人が小林社長にお金をもらって、当時のショービジネスの本場はパリなので、パリに勉強しに行って、帰ってくるんですね。それで、このパリに行って勉強して帰ってきたというのを一つのミュージカルにするんです。これが宝塚の一番最初の大当たりになります。



 これが「モン・パリ ~吾が巴里よ!~」です。帝劇出身の演出家の岸田辰彌という人の作品で、わが国でレビューと銘打たれた最初の作品です。中国、セイロン、エジプトを経て、パリへ旅した思い出を、レビューでたどる構成で、なかなかしゃれたものです。ラインダンス、フィナーレの階段下りが最初に行われたました。これから宝塚はパリ物をじゃんじゃん出していくわけですね。宝塚は阪急が作ったというので、松竹が対抗して作ったのが松竹歌劇団ですね。後にはSKDと言われますけれども、松竹の方でも後々には水の江瀧子とかスターが出ますけれども、松竹の方のテーマソングとなったのが「春の唄」です。



 帝劇ではじまったオペラが、このように浅草行ったり、宝塚に行ったり、松竹歌劇団の方に行ったりとだんだん広がりを見せていくんですね。

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