音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

U2のギターサウンドはどのようにして生まれたのか

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180603

大貫憲章「U2でI Will Follow。」



大貫「U2は1976年に地元アイルランドのダブリンで、高校生バンドとして活動を始めました。やがて、地元のタレントコンテストLimerick Civic Week Pop '78で優勝しました。この人達はコンテスト上がりなんです。他の当時のパンクバンドは、コンテストに出た人はいないじゃないですか。みんな地道にバンドをやって、ライブハウスからのし上がったぜという感じなんですけれども、U2は律儀なというか真面目な感じなのかもしれません。」

Katchin'「逆に言えばパンクをやろうとは思ってなかったんじゃないの。」

大貫「初期の頃から発言は、ザ・クラッシュ(The Clash)を信仰しているとかそういう発言をしていたから、俺も気にはしていました。グループ名はいろいろ言われていますけれども、それも全部霧の中ということで、本人たちはたまたまゴロが良かったからと言っていますが、俺としてはアメリカの偵察機U2からとったとしか思えないんですけれどもね。それで、アイルランドのCBSと契約して、デビューしました。この時は母国アイルランドのみということで、メジャーになったのは1980年にアイランドと契約して、1980年5月に11 O'Clock Tick-Tockというシングルでデビューしました。それで10月にいよいよ「Boy」というアルバムで、アルバムデビューということになります。最初の頃はジョイ・ディヴィジョン (Joy Division) などで知られるマーティン・ハネット(Martin Hannett)がプロデュースしていました。しかしマーティン・ハネットは、やらないって言ったのか、メンバーが気にくわなかったのかはしりませんが、スティーヴン・リリーホワイト(Stephen Lillywhite)になりました。スティーヴン・リリーホワイトも当時注目の人でした。よって、新人の割にはすごいバックアップもされていました。1stの「Boy」、2ndの「October」からそれぞれ一曲づつ聞いていただきますが、先ほどのI Will Followは「Boy」にも収録されています。「Boy」からA Day Without Me、「October」からGloria。」



大貫「この頃の彼らの一つの特徴ですけれども、ギターがクリアな感じで非常に清々しいですね。」

Katchin'「私分りましたよ。私がU2の好きではない所は、このギターなんですよ。このディレイがかかってるようなギターがあまり好きではないんですよね。」

大貫「これが売りだったんですけどね。特にスティーヴン・リリーホワイトはこういう録音をやらせると右に出るものはいなかったというくらい、彼のレコーディングの技術も含めて、エッジというギタリストの評価が高くなったのも、その二人の組み合わせがよかったからだといわれているんですけれども、これがダメですか。」

Katchin'「そこがダメなんですね。」

大貫「ウァンウァンウァンというのが?」

Katchin'「チュクチュクチュクチュクするのが、あまり好きではないですね。」

大貫「でも、エッジは世界のギタリストの中ではトップランクですよ。」

Katchin'「だから、ある意味で言ったらエッジは正しいんですよ。自分のスタイルを発明したんだから。逆にこのスタイルが私も知るくらいに有名になったので、あれは嫌だなぁみたいな。」

大貫「むしろそこが売りでしたからね。私もそこに惹かれましたし。ということで、「Boy」は1980年夏に、地元アイルランドのダブリンのスタジオ、Windmill Lane Studiosというところで、スティーヴン・リリーホワイトを迎えて、さらに二枚目の「October」はその翌年の1981年春から秋にかけてと、この頃はだいたい夏場にレコーディングをしていたんですけれども、同じくダブリンのスタジオで、もう一つこの頃はNassauにあったCompass Point Studiosもよく使われるようになっていて、そこでも録音したりしていました。ただ、すでにこの頃メンバー間に亀裂が、ということではないんですけれども、いろいろな本を読んでいたら、この当時ベースのアダム・クレイトン(Adam Clayton)以外の3人のメンバーがシャロームという宗教団体に入っていて、ロック人生と正しいキリスト教徒としての人生の間で、心が揺れていたということで、やめるという選択肢もあったそうです。」

Katchin'「宗教に入っていた3人がやめようかって言ったのですか。」

大貫「みんなキリスト教だけれども、その中でも特殊な戒律の厳しい所だったようですね。でも結局はバンドをやろうぜということで事なきを得たようです。続いて3rdの「War」からSunday Bloody Sunday、The Refugee。」



Katchin'「ボノはジョーイ・ラモーン(Joey Ramone)が亡くなるときに病室で看取った人なんですよ。さらにU2は自分たちのライブで、Swallow My Prideというラモーンズのセカンドアルバムに入っている曲を追悼で演奏しました。だからU2はいい人なんですよ。」

大貫「いい人だっていう噂は多いですね。ただ、そこが鼻にかけていて嫌だなっていう人もいますけれども。」

Katchin'「有名な人はワーストとベスト裏表ですから。しょうがないですよ。」

大貫「曲を聞いただけでも実際にいい曲作るしね。男らしいし正々堂々としている所は感じるし、サウンドも立体的で奥行きがあってカッコいいなぁってね。あの時代独特のものもあるし。今でも遜色ないし。1983年2月に三枚目のアルバムとして「War」が録音されているんですけれども、結局スティーブ・リリーホワイトとの最後の組み合わせとなりました。スティーブ・リリーホワイトは同じアーティストとは二枚仕事をしないという主義だったらしくて、でもここまで三枚やってるじゃないかということなんですけれども、それを曲げてバンドサイドが「よろしくお願いします」って言ったのでここまで付き合ったようですけれども、もうだめだよということになって、レコーディングがなかなかうまく進みませんでした。そこで、アメリカに行ったときに、ザ・クラッシュ(The Clash)のセカンドアルバムをプロデュースしたことでも知られるサンディ・パールマン(Sandy Pearlman)とセッションをしてみたそうですが、うまくいかなかったということで、同郷でLimerick Civic Week Pop出身のビル・ウィーラン (Bill Whelan)という人を起用して、The Refugeeという曲をプロデュースしてもらいました。ビル・ウィーランは1990年代にリバーダンス(Riverdance)という有名なアイリッシュの舞台作品があるんですけれども、これですごく有名になった作曲家兼プロデューサーなんですけれども、この人が無名の頃に協力してくれたという、いろいろないわくがある「War」なんですけれども、それでは最後にみなさんよくご存じだと思います。1983年1月にシングルが発売されて、私もよく使いましたU2でNew Year's Day。」



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