ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

ブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)とは何か(4) イギリスのブルー・アイド・ソウル

20141215 ロック巌流島より

萩原健太「東海岸、西海岸、中西部とザックリとやってきて、本当は南部もやろうと思ったんですけれども、南部はエルビスの地元でもあって、トニー・ジョー・ホワイト(Tony Joe White)とか、ジェリー・リード(Jerry Reed)とか、ロビー・ジェントリー (Bobbie Gentry)とか。」

近田春夫「カントリーっぽい人たちですね。」

萩原「日本だとカントリーって先入観をもって誤解している人が多いんだけれども、本物のカントリーは滅茶苦茶ファンキーでブルージーでかっこいいんですよ。ただ、これを語りだすと長くなるので、今回は南部は飛ばします。続いて、イギリスに目を移します。アメリカというのは、結局ある意味1960年代は人種差別のただ中ですよ。今でも人種差別は相変わらず変わっていませんが、1960年代はマーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King)がいろいろなことをやって、ザ・ラスカルズ (The Rascals) はそういうことがあったので、自分は黒人のアーティストが一組以上でないコンサートにはでないと言って、まったく南部で活動ができなくなって、それが原因で彼は人気が失墜していきました。そういう中でやっていたので、アメリカの場合は黒人の音楽を白人としてやるという事に対する覚悟も違うじゃないですか。音楽的には、黒人音楽がすばらしいっていうことは、音楽家たちはみんな分かっているんですけれども、社会的にはまだ難しい時期に彼らは声を上げていたわけで、ただ中で戦っているという感じがあったんですけれども、イギリスは国が違うので黒人音楽に対する憧れがもう少しストレートなんですよね。」

近田「大変な文化的背景がないんですよね。単純にサウンドがカッコいいとかそんな感じで。」

萩原「そうそう。その違いがまた面白さにつながっていて。だから、ザ・ビートルズ (The Beatles)もザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) もアニマルズ(The Animals)とかも、あの頃出て来た人達というのは基本的にみんなアメリカのR&Bをカバーしていて、それもアメリカのロックンロールと同様、ブルー・アイド・ソウルと言えば全部ブルー・アイド・ソウルと言えるんですけれども、そんな中で一つ大きな個性を見せてくれたのは、スティーヴ・ウィンウッド(Steve Winwood)。今回は、彼がキーボードを弾きながらボーカルをしている、スペンサー・デイヴィス・グループ(The Spencer Davis Group)のKeep on Runningを聞いてください。」



萩原「僕はこの人にインタビューをさせてもらったことがあるんですけれども、すごくまじめな人で、あのインタビューは心に残るインタビューの一つですね。イギリスではこのスティーヴ・ウィンウッドのほかにもヴァン・モリソン(Van Morrison)とかトム・ジョーンズ(Tom Jones)とかいます。」

近田「トム・ジョーンズいいよね。」

萩原「トム・ジョーンズも結構バカにする人が多いんですけれども、トム・ジョーンズはすばらしいんです。」

近田「トム・ジョーンズがウィルソン・ピケット(Wilson Pickett)と一緒に歌っていると、ウィルソンの声に勝ってたときもあるよ。」

萩原「1960年代に日本でも、トム・ジョーンズ・ショーがテレビでやっていて、ファンクラブがあって、俺は入っていたんですよ。ファンクラブに入ると今月出るゲストと歌う曲の曲目表がもらえて、そこでサム&デイヴ(Sam & Dave)がゲストに出る時に、サムが「俺が今一番ソウルフルだと思う歌手はトム・ジョーンズだ」と言っていたんですよ。本当に、トム・ジョーンズはすごいんですよ。トム・ジョーンズがアメリカのカントリーの曲を歌ったGreen Green Grass Of Homeって曲があるんですけれども、そのカントリーの作家でチャーリー・リッチ(Charlie Rich)という人がいるじゃないですか。あの人が作ったMohair Samという曲をトム・ジョーンズが歌っているバージョンが滅茶苦茶カッコいいので、それを聞いてください。Mohair Sam。」



萩原「うちの奥さんがニューヨークで、トム・ジョーンズのインタビューをしたことがあるんだけれども、向かいの部屋にいるけど、なかなか部屋に来ないんだって。しばらく待っていると大きな音でトム・ジョーンズの音楽がかかりだし、声もしはじめ、歌いながらバーンと扉をあけて「お待たせ」みたいな形で入ってきたんだって。滅茶苦茶カッコよかったって言っていたよ。でもそういう在り方も含めてブルー・アイド・ソウルだと思うんですよ。いろいろな形でソウルを表現していくわけだけれども、ただのマネに終わらない、一歩先まで進もうとしている、自分のソウルを見つけようとしているヴァン・モリソンみたいな人とか、あるいはザ・ラスカルズもGroovin'以降はそんな感じでしょ。全然ソウルっぽくないのになぜかソウルフルという。トム・ジョーンズはどんな曲でも歌う人だから、生き方自体がソウルじゃないかなぁと思います。」

萩原「今日はいろいろやってきましたけれども、女性が出てこなかったので、ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)という方を最後にかけたいと思います。」

近田「あと誰がいるだろう。」

萩原「ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)とか。1970年代以降になってしまえばいっぱいリタ・クーリッジ(Rita Coolidge)みたいな細い声なのにソウルフルみたいな人とか、ローラ・ニーロ(Laura Nyro)とかいますけれども、今日はダスティ・スプリングフィールドが1969年にリリースしました「Dusty In Memphis」というアルバムがありますが、その中からSon Of A Preacher Manをかけます。」


ブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)とは何か(3) 中西部のブルー・アイド・ソウル

20141215 ロック巌流島より

萩原「東海岸と西海岸のブルー・アイド・ソウルときて、今度は真ん中に行きましょうか。」

近田「真ん中というとどこらへんですか。」

萩原「例えば、デトロイトとか。デトロイトといえばミッチ・ライダー(Mitch Ryder)じゃないですか。ミッチ・ライダー・アンド・ザ・デトロイト・ホイールズ(Mitch Ryder And The Detroit Wheels)。東海岸だとわりとスムーズに歌う人が多い中で、このミッチ・ライダーと言う人は黒人のコミュニティーの中でクラブシーンで育ったというところもあるから、声がすごいですよね。」

近田「喉の強さというか。やっぱり鍛えられているんだね。マイクなしでも声が通るという、そういう感じの声ですよね。」

萩原「では、ミッチ・ライダー・アンド・ザ・デトロイト・ホイールズで聞いてください。I Never Had It Better。」



萩原「フォー・シーズンズ(The Four Seasons)のプロデューサーってボブ・クリュー(Bob Crewe)じゃないですか。ミッチ・ライダーもボブ・クリュー。後にディスコ時代に入るとLady Marmaladeって曲がありますが、あれもボブ・クリューだし、Get Dancin'もボブ・クリューなんですよ。要するに、こういう人がずっと1950年代くらいからのフィラデルフィアからはじまって、ずっと好きな事をやり続けているのがブルー・アイド・ソウルになったり、ディスコミュージックになったりと連なっているんです。ディスコは、ソウルっぽい所を抜いてしまった、ある意味ブルー・アイド・ソウルの究極みたいな所のものです。」

萩原「続いて、東海岸と西海岸以外だと、バッキンガムズ(The Buckinghams)というグループがありまして、これはイリノイ州のシカゴですね。James William Guercioというプロデューサーが手掛けていて、後のブラスロックのシカゴ(Chicago)のプロデューサーですね。ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ (Blood, Sweat & Tears)もセカンドはJames William Guercioで、後のブラスロックの原型みたいなものですね。今日聞いていただくのはMercy, Mercy, Mercy。キャノンボール・アダレイ(Cannonball Adderley)というジャズのサックス奏者がはなった大ヒット曲ですが、この曲を作ったのはキャノンボール・アダレイで当時キーボードを弾いていたJoe Zawinul。この人は、ウィーン生まれの白人ですからね。キャノンボール・アダレイがこの曲を出した時に、ついにブルースやソウルといったものまで、ヨーロッパの白人が聞くようになってしまったって、複雑な批評が結構でました。ある意味、このブルー・アイド・ソウルというテーマの中では重要な曲なんです。それに歌詞をのっけてバッキンガムズがカバーしました。バッキンガムズでMercy, Mercy, Mercy。」



ブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)とは何か(2) 西海岸のブルー・アイド・ソウル

20141215 ロック巌流島より

萩原健太「今度はちょっと目を西に移してみます。移民について東海岸はイタリア系が多いんですけれども、西はメキシコ系ですよ。大元をたどると東海岸はホワイト・ドゥーワップ(White Doo-Wop)があったんですけれども、西はリッチー・ヴァレンス(Ritchie Valens)とかLa Bambaとか、ああいうメキシコ系のものとロックンロールを合体したものを基本として、徐々に他に音楽性を広げていって、ソウルに行ったと。だから、東と西だと全然ちがうんだけれども、その折衷の在り方みたいなものが、すごくブルー・アイド・ソウルを語る時には大きなものになるわけですよね。さっきも聞いたように、東海岸のディオン(Dion)にあたるようなものとして、西から出て来たブルー・アイド・ソウルの一つの形としては、ライチャス・ブラザーズ (The Righteous Brothers) という人たちがいて、この人たちは後にフィル・スペクター(Phil Spector)がプロデュースして、You've Lost That Lovin' Feelin'とかUnchained Melodyとかがあります。この人たちは最初は黒人がいっぱいいるクラブで歌っていて、白人なんだけれども黒人の観客からは「お前らは俺たちの正当なブラザーだ」と、つまりRighteous Brotherだと言われたことで、名前を名乗りました。では、初期の曲でLittle Latin Lupe Luという曲を聞いてください。」



萩原「西の方のメキシコ系のアメリカ人がやっているロックというのは、もっともっとソウルに近くなるわけですけれども、ラテンロック風味なんだけれども、すごくファンキーというのが多くなります。エル・チカーノ(El Chicano)というグループの曲を聞いてみましょう。Tell Her She's Lovelyという、これはもともと白人のシンガーソングライター系の人がやっていたものを、さらにラテンのグルーブとファンキーなリズムパターンで生まれ変わらせた曲です。Tell Her She's Lovely。」



近田春夫「西海岸はリズムはラテンだよね。」

萩原「ラテンですね。ここから、例えば、ザ・ウォー(The War)だとか、もちろんサンタナ(Santana)もそうだけれども、そういうものに移行していきます。ただし、アップテンポの曲はこういう感じだけれども、バラードになるとスウィートソウルそのものみたくなります。あの感じがまたいいんですよね。恋するための音楽みたいなところがあるじゃないですか。行き着くところはそういう所になっていくのかなぁという気もしますけれどもね。」

近田「東海岸と西海岸は同じブルー・アイド・ソウルといっても、違う部分がたくさんあるね。」

萩原「だいぶ違いますね。やっぱり土地柄が出ますよね。」

ブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)とは何か(1) 東海岸のブルー・アイド・ソウル

20141215 ロック巌流島より

萩原健太「今日はブルー・アイド・ソウル。微妙な名前なんですけれどもね。」

近田春夫「意味としては、黒人音楽をアメリカ人の白人とかがやっているということですよね。」

萩原「そう。黒人の音楽を目指してやっている白人の音楽。」

近田「ただ、そういうものに聞こえなくなっちゃうものもあるんですよね。」

萩原「そうそう。ここがポイントで、ソウルというものは誰のものなのかという話じゃないですか。結局ブルー・アイド・ソウルと言っていること自体、ソウルというのは黒人のものだと言っているようなものですから、この辺が非常に複雑なテーマではあるんですね。白人のアーティストがやっているソウルミュージックは楽しいのが多いです。」

近田「ある意味では、白人がやったバージョンの方がよかったりするよね。」

萩原「ありますね。本当に泥臭い感じのサウンドに慣れていない人にとっては、入り口として聞きやすいと思います。このあと、ブルー・アイド・ソウルの定義について、グチャグチャとやっていこうと思いますけれども、こんな感じの曲を今日はたくさん聞いていきたいと思っているということで、最初の曲はフィラデルフィアのアーティストでLen Barry (レンバリー) の1-2-3。」



萩原「よくロックンロール自体、黒人のブルースと白人のカントリーが合体したものだとザックリと説明されるじゃないですか。本当はもうちょっと複雑なんですけれども、じゃあ白人が歌っているロックンロールはブルー・アイド・ソウルじゃないのかと。」

近田「ここが難しい所だよね。じゃあエルヴィス・プレスリー (Elvis Presley)はもろブルー・アイド・ソウルということになりますよね。」

萩原「しかもエルヴィス・プレスリー にたくさん曲を書いているJerry Leiber and Mike Stollerというソングライターチームがいますけれども、彼らは白人、ユダヤ人ですけれども、彼らがたくさんのR&Bのシンガーたちに曲を提供しているわけじゃないですか。それで、彼らが史上初のブルー・アイド・ソウル・ブラザーと呼ばれているんです。そういった意味ではロックンロールという文化自体がブルー・アイド・ソウルということになるんですけれども、そうするとなんでもありで話が進まないので、ここでは音楽のフォーマット的に限定して、特にロックンロール以降に出て来た音楽の中で、黒人へのあこがれとかそういったものを表明しながら、自分達のソウルを模索した音楽とします。地域別にみていくのも悪くないかなぁと思いまして、アメリカからスタートします。今の曲が東海岸のフィラデルフィア。東海岸だとニューヨークとかその辺になりますよね。ブルー・アイド・ソウルというのは、やっている人たちの顔ぶれをざっと見てみると、イタリア系、ポーランド系、スペイン系と移民の子達が多いです。そういう移民の若者達というのは、1950年代に黒人の若者達と生活環境が共通しているというか、お互いいがみ合ったりもしているんだけれども、生活のレベルとか環境とか地域とかが同じであると。当時1950年代にロックンロールのレコードを買って聞いていたのはミッドタウンのユダヤ系で、ロックンロールをラジオから聞きながらストリートで楽しんでいたのが、こういうスパニッシュとかイタリア系の若者達と言われたりしているんですよ。なので、そういうもののひとつとして、ブルー・アイド・ソウルという呼び名ができるちょっと前に、ホワイト・ドゥーワップ(White Doo-Wop)と言われる、ドゥーワップというのは黒人のボーカルグループによる文化ですけれども、それを移民系の白人たちがやっているのをホワイト・ドゥーワップと言ったんです。そのうちの一つとして有名なのがフォー・シーズンズ(The Four Seasons)。また、ディオン・アンド・ザ・ベルモンツ(Dion and the Belmonts)。ニューヨークのブロンクスにベルモンツストリートというのがあるんですけれども、それにちなんで、悪ガキ達があつまって始めたグループがあるんですけれども、このディオン・アンド・ザ・ベルモンツあたりのホワイト・ドゥーワップのスタイルみたいなものが、徐々に徐々に後のブルー・アイド・ソウルに広がっていったと。まず、その最初の頃のホワイト・ドゥーワップの曲でLove Came to Meという曲があって、この曲を聞いてみてください。」



荻原「僕は今年6月に、ニューヨークまでディオンを見に行ってきたんですよ。すごくよくて、まちがいなくステージングを見ていて、ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)の原型がここにあるってよくわかりました。ディオンは、キング・オブ・ニューヨーク・ストリーツと言われていて、ルー・リード(Lou Reed)もキング・オブ・ニューヨークと言われていて、要するにディオンのあこがれがあって、ニューヨークのストリートの音楽はこれなんだっていう感じで、ルー・リードはディオンを受け継ぎたかったし。」

近田「でも音楽性は関係ないよね。」

萩原「いやいや、結構あります。例えば、ディオンから派生している感覚からいうと、ポール・サイモン(Paul Simon)なんかもそうですね。そこらへんに、ディオンの中にあったものが広がって、ルー・リードになったり、ポール・サイモンになったり、ローラ・ニーロ(Laura Nyro)になったり。」

近田「日本で言うとスリーファンキーズ(3 Funkies)とか。」

萩原「それはカバーしてたってだけですからね。ブルー・アイド・ソウルの源流にホワイト・ドゥーワップがあって、これが1950年代の末から1960年代頭くらいにかけて東海岸を中心に盛り上がって、これを受け継ぐような形で出て来たのが、ザ・ヤング・ラスカルズ (The Young Rascals) 。彼らはロングアイランドから出てきて、要するに黒人の音楽が大好きで、リズム&ブルースのコピーばかりやっていたわけですね。アトランティックという黒人を中心としたレーベルが初めて契約をした白人なんですよ。Good Lovin'とか、Mustang Sallyとかそういう曲をカバーしてやっていたんでけれども、でもGood Lovin'以外は当たらなくて、ちょっとヤバいかなというときにオリジナルでやらせてくれと言って、Lonely Too Longという曲を発表して、これで成功したことが後のラスカルズの活躍につながっていきました。要するに、黒人のコピーばっかりやっていた段階から自分達のソウルを模索した最初の一歩みたいな曲です。ラスカルズで聞いてください。Lonely Too Long。」



萩原「これが東海岸のブルー・アイド・ソウルの典型ですよね。」

世界で最もサンプリングされたミュージシャン、ジェームス・ブラウン

20160503 「今日は一日“JB(ジェームズ・ブラウン)&ファンク”三昧」より解説は吉岡正晴氏です。

1、世界で最もサンプリングされたミュージシャン、ジェームス・ブラウン

 ジェームス・ブラウンでFunky Drummer。

 

 Funky Drummerという曲は、ジェームス・ブラウンのヒット曲で、1970年にシングルが出て、ソウルチャートで20位にしかなっていないのですが、当時はあまりヒットしなかったのですが、その後ヒップホップのアーティスト達がこの曲のいろいろなパートをサンプリングするようになって、ものすごく知名度が上がった曲なんですね。発表された当時よりもサンプリングされた90年代の方がこの曲はヒットした感じなんですね。このFunky Drummerのいろいろな所が使われているんですけれども、サンプリングする方もパートパートによって、この部分を使ったりとか、あっちを使ったりとかいろいろあるのですが、ジェームス・ブラウンのレコードというのは最も世界でサンプリングされているアーティストなんですね。その中でもこのFunky Drummerは、ジェームス・ブラウンの作品の中でも最もサンプリングされている作品なんです。このジェームス・ブラウンのFunky Drummerをサンプリング曲にどのようなものがあるのかについてちょこっとだけ聞いていただいて、こうやってサンプリングされているんだということをご紹介したいと思います。まず、ファイン・ヤング・カニバルズ(Fine Young Cannibals)で I'm Not The Man I Used To Be。

 

 これはお分かりだと思いますが、ドラムのチキチキというのとギターがFunky Drummerから使っているんですね。ジェームス・ブラウンのFunky Drummerを元に作った曲というのは、ヒップホップ系のラップのアーティストが圧倒的に多いのですが、こういう普通のR&Bの歌ものでも使われるというところが、ジェームス・ブラウンのリズムの普遍性というか、そういう所があるのではないのかと思います。次の例をご紹介しましょう。Run DMCのBeats To The Rhyme。

 

 これもFunky Drummerのドラムの一部をとって、そころループでまわすようにしてやっているんですね。だから、これもFunky Drummerから生まれた一曲と。そしてもう一曲、R&BグループのTLCのShock Dat Monkey。

 

 これもドラムの所がまさにFunky Drummerなんですが、時々テンポをはやめたりとか、遅くしたりして使っているんですけれども、この元ネタはジェームス・ブラウンのFunky Drummerというわけなんですね。だから、Funky Drummerの例を挙げると600曲くらい、もっとかな、どんどん増えているので、いろいろな曲にサンプリングされているのですが、今度はサンプリングされた曲をご紹介いたしますので、元曲は何かということを想像してください。Eric B. & RakimでEric B.Is President。

 

 こういう感じで、このリズムパターンですね。これがジェームス・ブラウンのあの曲をサンプリングしているんです。かわって、 LL Cool Jで6 Minutes Of Pleasure。

 

 これも先ほどのEric B. & Rakimと同じようにジェームス・ブラウンの曲がサンプリングされています。もう一曲例を挙げましょう。DJ Jazzy Jeff & The Fresh PrinceでWho Stole Your Car?。

 

 ヒップホップ系のアーティスト達がこぞってサンプリングをしているこれらの曲の元ネタをお分かりになったでしょうか。正解はこの曲です。

 

 ジェームス・ブラウンの大ヒット曲であるFunky President。このリズムがヒップホップの世界で大人気で、いろいろな人達がこれをサンプリングしております。ジェームス・ブラウンはヒット曲は80年代の半ばくらいで止まってしまうのですけれども、彼が作り出したリズムというのはすごく革新的で、すごく踊るにも適していたことから、60年代から70年代のジェームス・ブラウンの作品の中からのリズムが80年代90年代にヒップホップのアーティスト達によってたくさんサンプリングされました。そして、ヒップホップのアーティスト達がジェームス・ブラウンの曲のサンプリングをすることによって、ジェームス・ブラウンのリズムを作るアーティストとしての価値が90年代以降にものすごく上がったんですね。そういう意味でジェームス・ブラウンの再評価という動きが改めて出てきたんです。ジェームス・ブラウンをリアルタイムで体験した人たちと、それと同時にジェームス・ブラウンの世代からは全然若い、それこそ子どものような世代の人たちと架け橋にもなったということにもなるんですね。サンプリングという手法はそもそも80年代にはなかったんですけれども、そういう機材の発展によってそれができるようになって、それがまた新しい音楽の動きを作るようになったんです。

2、ヒップホップ黎明期のサンプリング事情

オダイジュンコ「ヒップホップ黎明期の頃は、版権の使用料の問題とかで相当グレーゾーンで、そういう部分が大変でどうなるのかなぁと思っていたら、普通になりましたね。」

吉岡正晴「そうですね。いまはサンプリングの許諾を得る専門の会社があって、この曲をサンプリングしたいというと、そこの専門の会社がその曲の権利を持っている会社と交渉をしてくれて、その人たちが事務レベルの話をするんですけれどもね。最初の頃で言うと、シック(Chic)のGood TimesのベースリフをRapper's Delightでシュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)がサンプリングした時は、なんの断りもなくやっていて、それをナイル・ロジャース(Nile Rodgers)達が訴えて、それで名前のクレジットをいれることになったという。






 だけれども、今はそういうプロたちがいるので、権利関係もうまく処理されるようになっています。プリンスももともとはジェームス・ブラウンの大ファンで、ジェームス・ブラウンの曲をサンプリングした作品があるのですが、その中から1991年にリリースされたGett OffのリミックスEPにFunky Drummerをサンプリングした曲があります。Prince And The New Power GenerationでGangster Glam。」

 
記事検索
スポンサーサイト
スポンサーサイト
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プライバシーポリシー
ラジオFMのメモ