ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

デヴィッド・ボウイ(David Bowie)ヒストリー 24th「The Next Day」から25th「Blackstar」まで

20170109  「今日は一日“デヴィッド・ボウイ”三昧」より解説は小野島大氏です。

小野島大「2013年から2016年までです。「The Next Day」というアルバムで、デヴィッド・ボウイが10年ぶりにいきなり復活しました。それも、まったくなんの前触れもなく、公式サイトで告知が始まって、それから新曲のMVが流れて、それからアルバムがでると。結局デヴィッド・ボウイは、ライブもやらなかったですし、メディアに出ることもいっさいなくて、アルバムを出しただけで話題になって、アルバムも売れて、内容も最高だったので、これからデヴィッド・ボウイが大復活して、もしかしたら日本にも来てくれるんじゃないかって我々も希望を持ったんですけれども、とりあえず「The Next Day」というアルバムからという曲を聞いてください。Valentine's Day。」



小野島「10年ぶりということでデヴィッド・ボウイも半信半疑なところがあったと思うんですね。自分が10年ぶりにアルバムを出してみんなに受け入れてもらえるのかって。だからアルバムの内容としては、前のツアーバンドのメンバーなんかを中心として、わりと過去のデヴィッド・ボウイの総決算的な部分もありつつの、新しいものもだしていくというアルバムだったんですね。このアルバムが大成功して、その3年後に「Blackstar」という最後のアルバムが出るわけですけれども、もちろん皆さんがご存知のように、このアルバムを出した発売日の二日後に亡くなってしまったんですけれども、この最後の「Blackstar」というアルバムは非常に攻めたアルバムで、これまで起用していたミュージシャンは一切使わずに、新世代のジャズのミュージシャンを使って、攻めの内容のアグレッシブな内容のアルバムを作ったということで、我々も驚いたし、今後まだまだデヴィッド・ボウイもやる気満々だなということを感じさせてくれただけに、残念な思いも強いんですけれども、とりあえずタイトル曲のBlackstar、10分近い曲ですけれども、是非聞いてください。」



土屋昌巳「まずこのアルバムのビックリする所はドラムですよね。叩いたマーク・ジュリアナ(Mark Guiliana)本人がネットにのせているんですけれども、最初にデモを聞かされた時に、デヴィッド・ボウイ自身がまったくあれと同じものを打ち込んであって、だからデヴィッド・ボウイはハードディスクレコーダーとシーケンサーをどう使っていくのかっていうことを学んでいたんですよね。マーク・ジュリアナはすばらしいドラマーなんですけれども、まったくその通りに叩いただけだって。実はものすごく大変なんですよ。パソコンを使って打っていけばすぐに音楽になるじゃんってみんな軽くいいますけれども、ものすごく実は大変な作業で、しかも今曲を聞いてもらえば分かるように、ちょっとやそっとじゃできるプログラムじゃないですから。それをご本人が体調が悪い中でやったということは、本当に最後の最後までかっこをつけたというか、かっこ悪い所を見せたくないんでしょうね。普通ミュージシャンだったら、誰かに頼むときは、ザックリと「こんな感じでよろしくたのむ」というのは比較的あるんですけれども、それをやらなかったというか、それができなかった人なんでしょうね。」

小野島「また、打ち込みの通りに叩けるマーク・ジュリアナもすごいですよね。並みのテクニックじゃないですね。最後のアルバムらしい、昔馴染みのミュージシャンを片っ端から呼んで、昔を懐かしむようなアルバムを作ったとしても、誰も文句は言わないじゃないですか。それなのに、最後の最後にまだこの先があるんだと、謎を残して逝ったというのはすごいなぁと思いますね。」

土屋「そういう意味だと「The Next Day」の方が小野島さんがおっしゃったニュアンスがありましたね。」

小野島「あれも最高のアルバムなんですけれども、やっぱりどっちが攻めているかといったらやっぱり「Blackstar」ですね。ここまで、各アルバム一曲づつかけてきたんですけれども、さすがにこのアルバムだけは一曲だけとはいかないので、もう一曲聞いていただこうかと思います。I Can't Give Everything Away。」



土屋「この曲の歌詞が大好きです。歌い出しで泣けてしまいますし、曲としても素晴らしいんですけれども、特に中間部に出てくる「Seeing more and feeling less Saying no but meaning yes」っていう、「見るほどに感情を失ってNoと言ってるけれどもそれはYesだよ」っていう、今まで自分が言ってきたことを全部肯定もするし、否定もするし、結局最後までかっこをつけたと。「Saying no but meaning yes」なんて歌えないですよ普通。恥ずかしくなっちゃいますよね。でもデヴィッド・ボウイだからできるという。あと、象徴的なのが「Blackstar」っていう、夜空にひっそりと、見えない星ですよね。結論から言うと、1967年のデビューから今日まで全部の作品にデヴィッド・ボウイは、星の王子様を書きたかったんですよ。音楽絵本を作って、最後に最大のヒントですね。「Blackstar」っていうのは。要するに、大切なものは目には見えないんだよという。だから、大成功だったと思いますよ。彼の人生は。最後までかっこよかったし、なかなかできるものではないですね。」


デヴィッド・ボウイ(David Bowie)ヒストリー 17th「Black Tie White Noise」から23th「Reality」まで

20170109  「今日は一日“デヴィッド・ボウイ”三昧」より解説は小野島大氏です。

 1993年から10年くらいの足跡をおいます。「Let's Dance」以降、「Tonight」、「Never Let Me Down」、そしてティン・マシーン(tin machine)と、どちらかというとデヴィッド・ボウイにとっての低迷期というか、元気がなかった頃なんですけれども、この頃からだんだん調子がもとに戻ってくるんですね。まず、「Black Tie White Noise」というアルバムを出します。このアルバムはティン・マシーンが解散してソロに戻っての第一弾アルバムということで、この時に大事なことはイマン(Iman)さんと結婚されたということ。それからちょうどLAにいる頃で、ロス暴動にデヴィッド・ボウイ達は直面したんですね。その経験がこのアルバムにも反映されていると。アルバムのプロデューサーもナイル・ロジャース(Nile Rodgers)を再び起用して、ミック・ロンソン(Mick Ronson)とか昔の人も呼び寄せて、アルバムを作ろうということで作ったのが今作になります。この中からJump They Sayという曲を聞いてください。



 「Black Tie White Noise」のあとに、「The Buddha Of Suburbia」というアルバムを出します。これは何かというと、BBCのテレビドラマ用に曲を書いてくれとデヴィッド・ボウイが言われたら、いきなり40曲も書いてしまったと。結局テレビで使用されたのは1曲だけなんですけれども、もったいないからということでフルアルバムにしたしまったと。これが後に重要な意味を持ってくるんですけれども、その中からタイトル曲のThe Buddha Of Suburbiaを聞いてください。



 この「The Buddha Of Suburbia」はデヴィッド・ボウイの自宅で宅録みたいな形で作ったそうなんですけれども、今の曲はそうでもないんですけれども、全体の曲調がわりと「Low」とか「"Heroes"」とかあの頃に近い感じがあって、これを聞いたブライアン・イーノ(Brian Eno)がデヴィッド・ボウイに連絡をしてきて、また一緒にやらないかと聞いてきて、それで作られたのが次の「1.Outside」というアルバムなんですね。ブライアン・イーノとデヴィッド・ボウイは何度もやってますけれども、実はプロデューサーをつとめたのはこのアルバムが最初で最後となんです。その中からHallo Spaceboy。



 「1.Outside」の次に出したアルバムが「Earthling」。このアルバムからDead Man Walking。


 「1.Outside」の頃はナイン・インチ・ネイルズ(Nine Inch Nails)とかインダストリアルな方向にデヴィッド・ボウイが傾倒して、実際にトレント・レズナー(Trent Reznor)と付き合いがあったりして、そういうような中で作られたアルバムであって、今聞いていただいても分かりますように、デヴィッド・ボウイ史上もっともハードな曲だと思います。ペット・ショップ・ボーイズ(Pet Shop Boys)のリミックスバージョンもあって、それもすばらしい出来なんですけれども、今回はあえてオリジナルバージョンにしました。ただこの辺はまだデヴィッド・ボウイも復調途上かなという感じがしていたんですけれども、「Earthling」は僕はすごくいいアルバムだと思いました。なぜかというと、なんでこのタイミングでドラムンベース(Drum and bass)をやるのって、その変わり方が唐突で、これって70年代のデヴィッド・ボウイと同じじゃんと、何をやりだすかわからないデヴィッド・ボウイが戻ってきたなと。しかも「1.Outside」は暗いアルバムだったんですけれども、「Earthling」は非常に明るいし、今聞いていただいても分かるように非常にアッパーな感じで、疾走感もあって、美しいところもあるし、だんだんデヴィッド・ボウイは調子が出て来たなというのが、その当時の私の率直な感想です。これは第二の黄金期がくるのかなと思ったんですけれども、それから2年半くらいの沈黙があって、それから出したアルバムが「 'hours...'」。これはゲーム音楽ということで作ったアルバムなんですけれども、聞いていただくとわかるんですけれども、非常に回顧的な保守的な内容であって、デヴィッド・ボウイはこんな後ろ向きな音楽をやっていいのかなと当時はおもったんですけれども、曲は非常にいい曲ばかりで、じっくり聞ける、非常に味わい深いアルバムになっています。この中からThursday's Child。



 次のアルバム「heathen」はISOという自分のレーベルを作ってその第一弾です。これは「Scary Monsters」以来の22年ぶりにトニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)がプロデュースしたということで話題になったアルバムですが、その中からSlip Away。



 「heathen」というアルバムを出した時に、私は初めてデヴィッド・ボウイさんにお会いしまして、ニューヨークまで行って取材をしたんですけれども、いい人なんですよ。人間ができていて、穏やかだし、気を遣うし、お茶でも飲むかいっていう感じでお茶を入れてくれたり、非常に優しい人で、この「heathen」の時と次の「Reality」の時と二回続けて取材させてもらったんですけれども、非常にいい思い出です。この「'hours...'」と「heathen」とわりとじっくり聞かせるアルバムが続いて、こんな感じで落ち着いていくのかなとおもったら、「heathen」のツアー中にデヴィッド・ボウイはのっちゃったらしくて、ツアーが終わったらすぐにスタジオにはいって次のアルバムを作ろうということで、ツアーバンドと一緒に作ったのが次に出す「Reality」です。非常にアグレッシブでバイタリティーのある作品で、これは本格的にいい感じになるかなと思ったのがこの作品です。タイトルナンバーのReality。



 このRealityツアーは、バンドもいいし、演奏もいいし、歌もいいし、デヴィッド・ボウイにとっても過去何回もないような一番いい時期だったと思います。しかし、残念ながらこのツアーの途中に倒れて、手術を受けて、そこから10年間沈黙をしてしまいます。


デヴィッド・ボウイ(David Bowie)ヒストリー 14th「Let's Dance 」から16th「Never Let Me Down」、そしてtin machine活動期まで

20170109  「今日は一日“デヴィッド・ボウイ”三昧」より解説は小野島大氏です。

 アルバム「Scary Monsters」でデヴィッド・ボウイはやりたいことをやり尽くしたんじゃないのかというのが私の説ですけれども、実際にここから「Let's Dance 」を出すまではデヴィッド・ボウイの音楽活動はほとんどなくて、映画俳優としての仕事が多かったんですね。音楽活動は主だったものは2つしかやっていなくて、一つ目は映画「キャット・ピープル(Cat People)」の主題歌、そしてもう一つがクイーン (Queen)とのコラボ。Under Pressureという曲なんですけれども、これはちょうどクイーンが「Hot Space」というアルバムをスイスモントレーのスタジオで作っていて、そこにデヴィッド・ボウイが遊びに行って客演することになったと。2曲参加したらしいんですけれども、発表されたのはこのUnder Pressureだけということできいてください。



 クイーンとのコラボの後に「Let's Dance 」というアルバムを作ります。この頃は、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の撮影が終わってから「Let's Dance 」の制作に入ったらしいんですけれども、ちょうど「Let's Dance 」が出ると同時に「戦場のメリークリスマス」も公開になって、「Let's Dance 」は大ヒット、「戦場のメリークリスマス」も日本ではカルト的な人気を獲得して、この辺りでデヴィッド・ボウイは別格的なスーパースターになっていったんですけれども、この中からいろいろいい曲はあるんですけれども、China Girlというイギー・ポップ(Iggy Pop)との共作になった曲を聞いてください。



 イギー・ポップが「The Idiot」というアルバムでやったオリジナルバージョンのChina Girlです。全然アレンジは違いますが、どちらもいい曲です。



 この「Let's Dance 」というアルバムはシック(Chic)というバンドのナイル・ロジャース(Nile Rodgers)がプロデュースをして話題になったんですけれども、正直当時の感覚でいうと、なんで今時シックなの、というのがあったんです。聞いてみたら非常によくできたポップでコマーシャルな作品で、デヴィッド・ボウイは売れたかったんだなというのが良くわかりました。実際このアルバムは非常に売れて、イギリスで2位、アメリカで3位と、デヴィッド・ボウイにとって最大のヒットとなって、当然Let's Danceというシングル曲も大ヒットして、スーパースターの座についたんですね。China Girlという曲をデヴィッド・ボウイが「Let's Dance 」でなぜやったのかというと、この当時イギー・ポップは財政的に苦しくて、その救済のために、要するに彼に印税をあげるためにこの曲をやったんじゃないのかと言われています。その後、シリアス・ムーンライト・ツアー(Serious Moonlight Tour)というデヴィッド・ボウイ史上最大規模と言われたツアーを行って、この時も日本にきていますけれども、そこからわずか1年ちょっとで次のアルバムを発表します。これが「Tonight」というアルバムで、この作品はちょっとした問題作でありまして、デヴィッド・ボウイ1人で作った新曲は全9曲中2曲しかないと。イギー・ポップとのコラボが3曲で、カバーが4曲。要するに自分が作ったオリジナルよりもカバーの方が多いというそういう作品です。つまりは、「Let's Dance 」が大ヒットして、ツアーも世界中あちこちまわって、時間がない中で無理やりつくったのがこのアルバムだったんですね。先ほどAbsolute Beginnersとかかけましたけれども、この時代のデヴィッド・ボウイもいい曲をたくさん書いているんですよ。でも、アルバムになると契約なのかレコード会社の要請なのかは知りませんが、拙速に作ってしまってアルバムとしてのクオリティーが落ちてしまったんじゃないのかなという印象があって、次にかけるのはBlue Jeanという曲なんですけれども、この曲も非常にポップでいい曲なんですが、残念ながらほかにいい曲がいまいちなくて、「Tonight」というアルバムはちょっとイマイチかなという感じが否めないかなという所なんですけれども、Blue Jeanという曲はとてもいい曲なので、この曲を聞いてください。



 「Tonight」を出した後で、2年半くらい間があいて、その間に例えばライヴエイド(LIVE AID)に出てミック・ジャガー(Mick Jagger)とDancing In The Streetという共演曲を出したりとか、Absolute Beginnersとかいろいろな映画関係の仕事をやって、デヴィッド・ボウイの関心はそちらの方に向いていたんだなという感じなんですけれども、1987年になって「Never Let Me Down」というアルバムを出します。これも実はイマイチかなという感じのアルバムになってしまったんですけれども、やはり「Tonight」の時に慌てて出してしまったのがデヴィッド・ボウイのペースを狂わせてしまったのだと思います。後に、90年代になってからデヴィッド・ボウイのインタビューで、やっぱりあの時代の自分の作品というのはイマイチだったとはっきりと認めているので、デヴィッド・ボウイにとっては厳しい時期だったんですが、その中でもいい曲はありますので、Never Let Me Down。



 「Never Let Me Down」が1987年の4月に出て、このアルバムはあまり売れなかったんですけれども、その後にデヴィッド・ボウイにとって重要な出来事があって、それは何かというと1987年6月にベルリンの壁の前でライブをやったんですね。これはNHKのドキュメンタリー「新・映像の世紀」の第5集・激動の1960年代・若者の反乱が世界に連鎖したという回があって、そこでも取り上げられていたんですけれども、要するにベルリンの壁の前でデヴィッド・ボウイが演奏をして、PAのスピーカーを3分の1くらい東ドイツに向けて演奏をしたと。それがきっかけとなって、2年半後のことですけれども、崩壊したんじゃないのかと、そういうのがドイツ国内では定説になっているらしくて、今度のデヴィッド・ボウイの展覧会でも「新・映像の世紀」の映像が展示されてたりして、ある意味アルバムを出すよりも重要なことをこの時期のデヴィッド・ボウイはやっていたということですね。

 デヴィッド・ボウイにとっても1980年代というのはイマイチテンションが上がらなかった時代だと、デヴィッド・ボウイ自身が言っているという話をしましたけれども、このままではイカンと。自分も音楽に対する熱意が薄れてきているから、なんとかそれを立て直すために初心に戻ろうということで、ティン・マシーン (Tin Machine)というバンドを組むんですね。組んだ相手というのは、リーヴス・ガブレルス(Reeves Gabrels)、トニー・セイルス(Tony Fox Sales)とハント・セイルス(Hunt Sales)のセイルス兄弟、これはイギー・ポップのバンドなんかでやっていた人たちなんですけれども、この3人と四人組のバンド・ティン・マシーンを組んで、デヴィッド・ボウイは完全に一人のメンバーとして、その中でやっていくと。要するに、発言権も4人平等だし、曲も4人平等に作るし、デヴィッド・ボウイとそのバックバンドではなくて、ティン・マシーンというバンドとしてこれからはやっていくという風に宣言をして、「Tin Machine」という同名のアルバムを出すんですが、その中からUnder the Godという曲を聞いてください。



 ティン・マシーンというバンドは、デヴィッド・ボウイにとって音楽への情熱を取り戻すために必要だったという話をしましたけれども、同時にソロとして売れる前のバンドをやっていた頃に全然売れなかった。その復讐というかリベンジというのもおそらくあったと思うんですね。ただ、残念だったのは、本人達の意気込みと、周りがデヴィッド・ボウイに対して求めるものが全然すれ違っていたというところで、ティン・マシーンがファーストアルバムを出した後に、デヴィッド・ボウイはソロでサウンド&ビジョンツアー(Sound+Vision Tour)をやったんですよ。これが何かというと、デヴィッド・ボウイの旧譜がボーナストラック付で再発になるので、世界的な大ツアーをやって、その時に昔の曲もやって、その後は昔の曲を全部封印すると言ってツアーをやったんですよ。ところがサウンド&ビジョンツアーをやったことによって、ティン・マシーンの影がますます薄くなってしまったというかわいそうな状況になってしまいました。ティン・マシーンはセカンドアルバムを2年後に出しています。ティン・マシーンの時期は、デヴィッド・ボウイ自身にとってみれば、リハビリというか、失いかけていた音楽への情熱を取り戻したという意味で、非常にティン・マシーンの活動は大きかったとデヴィッド・ボウイ自身が言っていることを最後に付け加えておきます。


デヴィッド・ボウイ(David Bowie)ヒストリー 10th「Low」から13th「Scary Monsters」まで

20170109  「今日は一日“デヴィッド・ボウイ”三昧」より解説は小野島大氏です。

 ベルリン三部作の時代。ある意味、デヴィッド・ボウイが音楽的に一番充実していた時期ではないかと思います。前作の「Station to Station」というアルバムが内容的にも大成功で、ツアーもすばらしかったと。で、デヴィッド・ボウイは重度のコカイン中毒に悩まされていて、その当時のことは全然記憶にないというくらいにはまりまくっていたんですね。さすがにもう生命の危機を感じるくらいの危機感が彼の中にもあったらしくて、LAでの退廃的な生活はもうやめようということで、区切りをつけたいと。それから「Low」というアルバムを作るのですが、その前に盟友のイギー・ポップ(Iggy Pop)が苦境に陥っていて、じゃあイギーを助けようということで、イギー・ポップの「The Idiot」というアルバムを作るんですけれども、それに並行して自分のアルバムも作り始めると。最初はパリで制作をはじめたんですけれども、パリのスタジオに不具合があったという話で、ベルリンに移るんですね。その時のパートナーというのがトニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)とブライアン・イーノ(Brian Eno)。このふたりをパートナーにして「Low」というアルバムをベルリンで制作を続けて、完成させます。それが1977年1月に出たアルバムなんですけれども、そこからこれもすごい曲がいっぱいあるのですが、ここではSubterraneansという曲を聞いてください。



 これは名高いベルリン三部作の最初のアルバム「Low」の一番最後に入っている曲で、最後の方でデヴィッド・ボウイは歌っていますけれども、歌詞は意味がないというか、よくわからない歌詞なんですけれども、なんでこういう音楽性にいきなり変わってしまったのかというと、ブライアン・イーノが当時はじめたばかりのアンビエントミュージックのコンセプトにデヴィッド・ボウイが深く共感をして、こういうのをやりたいと。あとはブライアン・イーノのすすめもあって、ジャーマンエレクトロニクスのバンド、例えばタンジェリン・ドリーム(Tangerine Dream)とか、クラフトワーク(Kraftwerk)とか、ノイ!(NEU!)とかそういうバンドを聞き始めてその影響というのがまずあります。それに、アメリカでの退廃的な生活から逃れたヨーロッパに回帰していくというこれらの思考が重なって、こういうアルバムができました。このSubterraneansという曲は、冷戦時代の東ベルリンの様子を曲にしたらしいんですけれども、もともとは「地球に落ちて来た男」という映画のサントラ盤として書いた曲にブライアン・イーノがシンセサイザーをダビングした作ったという曲で、すばらし、美しい曲です。この後、デヴィッド・ボウイは即座に次ぎのアルバムの制作にかかります。イギー・ポップの「The Idiot」を出して、イギー・ポップの次のアルバム「Lust For Life」というのがあるんですけれども、それとまた同時進行で作られて行って、それが「"Heroes"」というアルバムです。このアルバムにも名曲がいっぱい入っているんですけれども、これもちょっとひとひねりしてThe Secret Life of Arabia。



 「Low」というアルバムがわりと短めのニューウェーブっぽい感じのポップな曲とシンセのインスト曲が中心だったんですけれども、「"Heroes"」はもうちょっとロック的にメリハリのきいたドラマティックな曲が多いのですが、あえてひとひねりしてThe Secret Life of Arabiaをかけました。ちょっとファンタジックというか、映画の一場面のような、エキゾチックな、こういう曲を歌わせると本当にデヴィッド・ボウイはうまいというか、雰囲気だすなぁという感じで、好きな曲なんですね。次は「Lodger」というアルバムなんですかれども、それの予告にもなっている感じです。このアルバムを出した翌年の1978年の12月にデヴィッド・ボウイは二度目の来日を果たすんですね。私も見に行って、何が鮮烈だったかって、「Low」のB面の1曲目に入っているWarszawaという曲があるんですけれども、まだ客電がついている中にメンバーがゾロゾロ出てきていきなりWarszawaを演奏し始めたという。ビックリして、会場の人はあわてて照明を消したのを鮮烈に覚えていますけれども、あの演出が衝撃的で、かっこよかったです。この演出に影響を受けて、日本のバンドも同じような演出をしていたことも覚えています。それで、ベルリンの二部作が終わって、次が「Lodger」というアルバムなんですが、実はこの作品はベルリンでは制作していなくて、スイスのモントレーで録音をして、ニューヨークで仕上げたと。ただ、ブライアン・イーノがかんでいるのでベルリン三部作と言われています。このアルバムは、前の二作が非常に緊張感があるダークなアルバムだったのですけれども、この「Lodger」というアルバムはどちらかというとリラックスしたアルバムで、アフリカとか中近東とかいろいろなところを旅したデヴィッド・ボウイの印象のようなものがつづられているリラックスしたアルバムなんですけれども、そのような中でもデヴィッド・ボウイらしいピリピリとした曲もあるので、それを聞いてください。African Night Flight。



 ニューウェイブと共振したような曲です。この当時はファンクとかニューウェイブとかが出てきて、オールドウェイブと言われる昔のロックの人たちは完全に脇に追いやられる時代だったんですね。実際に私たちは耳が変わってしまって、昔のザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) とかは聞いてられるかっていう時代だったんですけれども、デヴィッド・ボウイだけは例外というか、実際にデヴィッド・ボウイも若いニューウェイブの人たちと交流があって、そのデヴィッド・ボウイの影響から出て来たニューウェイブの若い人たち、具体的に言うとニューロマンティック(New Romantics)という人たちなんですけれども。そういう人たちに一番影響を及ぼしたのではないのかなぁというのが、次の「Scary Monsters」です。これはもうヨーロッパから離れてニューヨークで録音されました。かけるのはScary Monstersというタイトル曲なんですが、これがロバート・フリップ(Robert Fripp)というキング・クリムゾン (King Crimson)のギターがフィーチャーされています。前私がロバート・フリップにインタビューした時に、あなたのギタリストとしてのベストプレイは何なんだって聞いたら、一曲目がブライアン・イーノのBaby's on Fire、二曲目がデヴィッド・シルヴィアン(David Sylvian)のGone To Earth、最後にあげたのがこのScary Monstersと。要するに、キング・クリムゾンの曲ではないんですよ。全部他人のレコードで弾いた曲が自分のベストプレイと。そのロバート・フリップのベストプレイが聞けるScary Monstersを聞いてください。



 Scary Monstersというのはニューウェイブへの対応というのもありますし、Ashes to Ashesのミュージックビデオが革新的だったというのもあって、80年代のミュージックビデオの時代を予見していたというのが一つ。それからもう一つ、デヴィッド・ボウイにとっても70年代の総括という意味もあったんですね。そういうわけで、これは私の完全に偏見なので異論はたくさんあると思いますけれども、おそらくデヴィッド・ボウイはこの時点で音楽的なモチベーションはほとんど使い果たしてしまったと。やりたいことは全部やり尽くしてしまったというのが私の見立てなんですよ。その他にもいろいろマネージャーとの契約問題とかもあったんですけれども、その後2年半くらいデヴィッド・ボウイはほとんど音楽活動をしていない。次のアルバムは「Let's Dance」なんですけれども、そういうことで、それよりはむしろ俳優とかそういった方向に彼の力が向いていったのが80年代なのかなという感じです。


デヴィッド・ボウイ(David Bowie)はファッションに興味がなかった説

20170109  「今日は一日“デヴィッド・ボウイ”三昧」より解説は新谷洋子氏です。

森田美由紀「デヴィッド・ボウイのファッションの変遷を伺っていきたいと思います。ステージ、フォトセッションでの衣装と。デヴィッド・ボウイといえばとにかくファッションと切り離せないっていう感じがしますよね。」

新谷洋子「それがちょっと面白いことに、2004年のリアリティツアーの時に、デヴィッド・ボウイにインタビューをした際にファッションの話になって、「実はあまり興味がないんだよ」って、彼が言いました。本当にファッションショーなんかに行ったことはないし、モデルと付き合ったのも今が初めてだと。インタビューの日はツアー中のオフだったので、まさにカジュアルな、本当に何でもないファッションをしていて、帽子をかぶってスニーカーを履いていて、ファッションに興味がないということにすごく説得力がある格好をしていました。よく考えてみると、彼にとってファッションというものは自分がなりたいものになるというためのツール、演じるためのツールであり、おしゃれをしてキレイに見せるとかそういうものではないというのが、彼のファッション感のようなんですね。日常で何がファッションのこだわりかというと、目立たないもの、動きやすいものとキッパリとおっしゃっていました。白紙の状態で、何になりたいのか、何を見せたいのかがあって、いろいろな要素の一つがファッションというとらえ方をした方が正しいのかなと思います。」

森田「表現者のデヴィッド・ボウイのファッションというと、本当にこれも短いサイクルで、曲と一緒で変わっていますよね。それをざっくりとまとめていただきますとどのような流れになるのでしょうか。」

新谷「まずは、デヴィッド・ボウイになるまでの下積みの時代があり、その後に70年代のキャラクターを演じていた時代があり、その後80年代からのスーツの時代があり、その後tin machineを経てなんでもありの時代に入っていくという、4つに分けてみました。」

森田「では、そのデヴィッド・ボウイになるまでの時代というと。」

新谷「世代的にまさに60年代、どっぷりモッズカルチャーに浸っていて、モダンジャズを聴いて、当時は洋服が大好きで。だから10代の頃彼がいたバンドの写真を見るとスーツを着ていて、そしてヘアーだけが彼が好きだったリトル・リチャードにそっくりだったり、好きなものを純粋に受け止めて、流行を追っかけて、いろいろなものを吸収していた時代です。そして、いろいろな人との出会いを通じて開眼していく時代だとも思うんです。例えば、リンゼイ・ケンプ(Lindsay Kemp)であるとか、最初のマネージャーのケネス・ピット(Kenneth Pitt)であるとか、お二人ともカルチャー全般に造詣が深い方で、そういった方にいろいろな事を教えてもらって、興味を広げていって、あとは最初の奥さんのアンジー・ボウイ(Angie Bowie)も非常にファッショナブルな方で、旦那様を成功させたいがために、どんどんいろいろなことをやりなさいってけしかけていったんですけれども、彼女のドレスを着て写真を撮ったり、男がどうだとか女がどうだとかは気にしなくていいからってけしかけて、ジギー・スターダストのヘアスタイルももともとはアンジーさんがこれがいいんじゃないかってやってもらったというエピソードがありますし、そういった出会いを通じて、じゃあ自分はオリジナルで出せるものは何なのかを考えていた時に、キャラクターを演じるという答えにたどり着いたわけです。もちろん時代もそこで60年代から70年代にかわりますよね。60年代は、ナチュラルだったり、オーセンティックだったり、そういったことが良しとされていた時代で、そして非常に楽観的な時代だったんですけれども、それが60年代末になるとベトナム戦争などで様子がかわってくる。ちょっと不穏なものだったり、危険なものだったり、そういったものに興味が向いてきます。あとはやっぱり、セクシャリティー感も変換期を迎えていて、イギリスの中でも一部で成年男性間の同性愛が合法化されるという大きな動きがあって、これまでアンダーグラウンドだったものがどんどん表に出て来た時代ということもあって、そこで彼はキャラクターを何かを演じるファンタージーにするという答えにたどり着いたんだと思います。」

小野島大「ちなにみアンジーというのは、ローリング・ストーンズの悲しみのアンジーのモデルの人ですね。」

森田「このキャラクター時代を象徴する曲として新谷さんが選んでくださった曲がThe Man Who Sold The World。」



新谷「「The Man Who Sold The World」のアルバムジャケットはいろいろいわくがありまして、彼はマンドレスという男性用に作られたドレスを着て、長髪で、シェーズロングに寝そべっていて、構図はビクトリア時代の絵画を意識したものなんですけれども、男か女かわからないイメージで、いままで誰も見たことがないビジュアルを提示して、かなり物議をかもしました。イギリスはいいとしてもアメリカは保守的だったので、こんな過激なものは見せられないということで、これが差し替えになってしまうんですね。そういういわくのあるジャケットで、最初にデヴィッド・ボウイが強く自分を印象づけた瞬間がこのアルバムジャケットだったと思います。」

森田「「ジギー・スターダスト(Ziggy Stardust)」とか「アラジン・セイン(Aladdin Sane)」のキャラクター時代って、結構少女漫画の中でもデヴィッド・ボウイのキャラクターがにぎわせましたよね。」

新谷「そうですね。少女漫画の王子様の原型がデヴィッド・ボウイだったという。」

森田「次のデヴィッド・ボウイのファッションの展開についてお願いします。」

新谷「4つの時代に分けたわけですけれども、その合間合間に転機というかリセットの時代があって、ちょうどThin White Dukeあたりでキャラクターの時代がひと段落して、その後はいわゆるベルリン三部作の時代にいくんですけれども、この時は音楽的にも彼にとってリセット、生活面でもリセットして、異国の街に溶け込んで暮らすということで、あまりビジュアルとかファッションとかが印象があまり残っていない時期だと思うんですね。ここでいったん白紙に戻って、次になるをするのかということで、彼はものすごい実験をするんです。例えば、Saturday Night Liveというアメリカの番組でパフォーマンスした時に、かなり奇抜な衣装を着ているんですけれども、後はBoys Keep Swingingのビデオクリップで、思いっきり女装、ドラッグで出ていたり、Ashes to Ashesでピエロになったり、まさに79年から80年ぐらいに突飛なことをつづけざまにやって、次に何をしたのかというと、いきなりスーツを着ました。普通だなという印象をうけるかもしれませんが、逆にデヴィッド・ボウイだから奇抜なことばかりやった人がいきなりスーツを着たというのが驚きでした。この後80年代を通じてスターのデヴィッド・ボウイ=紳士という印象がみなさんにとっても強いんじゃないのかなと思います。この頃のデヴィッド・ボウイは映画俳優としてもいろいろ活躍しているんですけれども、映画の中でもスーツを着ていました。その中でも一番デヴィッド・ボウイ=スーツ=俳優の姿といえば、映画Beginners。ほんの少ししか姿は見せていないんですけれども、まさに彼の少年時代、青年時代のモッズカルチャーにゆかりのある原作を映画化したもので、ビデオクリップの中でもスーツ姿でデヴィッド・ボウイが出てきます。ここで主題歌を聞いていただきます。Absolute Beginners。」



森田「この後のデヴィッド・ボウイはどういう風にファッションが変わっていったのでしょうか。」

新谷「この後tin machineがリセット期となったんですが、ファッションとtin machineの関連については、私は壊した時期だと思います。コンセプト的にはスーツで大人がロックするというものだったので、この時期のデザイナーはミグレだとかヴェルサーチであるとかそういった方々に依頼をしてツアーをしていたんですけれども、なんとこの時デヴィッド・ボウイはミュージシャンとしてはじめて髭を生やしたんですね。その前にドラマの役で髭を生やしたことはあったんですけれども、ミュージシャンとしてのデヴィッド・ボウイが髭を生やしたのははじめてで、あとは半パンをはいたんですね。これは女性目線になってしまのかもしれませんが、少女漫画の王子様のような美しい男性だったデヴィッド・ボウイが、髭と半パンというのはちょっとありえない、ちょっとないなって引いた人が多いのではないのかなと思います。しかし、ここでいったん壊すことによって、その後の時代はもうなんでもあり、ビジュアルとかファッションにこだわることなく全然普通に流してしまうというか、例えばHoursとかビジュアルの印象は全くないと思うんですけれども、逆にOutsideはステージ、アートワーク含めて非常にビジュアルにこだわったものですし。そしてちょうどこの時にアレキサンダー・マックイーン(Alexander McQUEEN)とコラボレーションをはじめるんですね。ちょうどイギリスのファッション界に登場したばかり、ロンドンコレクションにデビューしたばかりの彼にデヴィッド・ボウイは目をつけまして。その後、Hoursをはさんで2000年代に入ると、今度はHeathenツアーの時に、またまた評価の高かった登場したばかりのエディ・スリマン(Hedi Slimane)というデザイナー、当時はディオール・オムのクリエイティブディレクターだったんですけれども、彼に声をかけて、エディはスリムなシルエットのスーツが彼のお得意とするところなんですけれども、もともとデヴィッド・ボウイに影響をうけてああいうスタイルを作った人なんですね。インタビューを読むと「僕はデヴィッド・ボウイのアルバムを持って生れて来た」っていう風にデヴィッド・ボウイが一番好きな原点のアーティストで、自分に影響を受けたデザイナーの服を今度は本人が着るという風に、サイクルが完結したようなところがあって、なのでデヴィッド・ボウイはファッションに興味がないといいつつ、何か突出した才能がある人、個性がある人を常にどこかで見ていて、うまく引き立てていく人だったと思います。」

小野島「こういう新進のデザイナーはデヴィッド・ボウイがアンテナをはって選んでいるのですか。」

新谷「どこまで本人が気にしているのかは分からないんですけれども、ファッションとかあまり区切りがないと思うんですね。映画だろうが、アートだろうが、文学だろうがなんとなく広くアンテナを張って、気に入った人を見つけていく、もしくは周りにそういう情報を与えてくれる人がいるのかはちょっと分からないんですけれども。」

小野島「ビヨーク(Bjork)なんかと似てますよね。ビヨークも自分にかかわることは全部自分で決めるって言っていて、例えばリミキサーの選択から何から全部自分でやっているっていう話なので、多分デヴィッド・ボウイの在り方からの影響もあるのかもしれないですね。」

森田「新谷さんのファッションコーナー。締めくくりに何の曲をおかけいたしましょうか。」

新谷「これはズバリなんですけれども、そんなデヴィッド・ボウイのファッションに対する複雑な気持ちを描いていると解釈することも可能な曲だと思います。Fashion。」



新谷「Fashionという言葉は英語だと、洋服のファッション以外に流行とかそういった意味もあるので、必ずしも洋服のことを言っているとは限らないんですけれども、右に倣え左に倣えでそれに従うのはどうなんだろうっていう疑問を提示しているような、そういったニュアンスの曲だと思います。」

森田「デヴィッド・ボウイのメッセージなんですかね。」

新谷「デヴィッド・ボウイの究極的なメッセージは自分のやりたい事をやって、自分のなりたいものになってということなので、そういった意味では、デヴィッド・ボウイの思いが感じられるのかなと思います。」

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