1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜より
中山晋平をさらに発展させた人に古賀政男がるわけです。古賀さんの「丘を越えて」。
出だしがバンジョーですよね。それでアコーディオンが出てきて、マンドリンが出てくる。古賀さんは明大のマンドリン倶楽部ですから、当初はマンドリンの合奏隊でのインスト曲だったんですね。それで後から詞を付けたと。これはアメリカ民謡、当時はまだスティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster)がいますから、「草競馬」とかああいうような感じですよね。ですから、アメリカのフォークソングが日本にもそのうち入ってきますけれども、そういう下地になっているんじゃないかと思いますね。戦後に、アメリカンフォークソングの発展形であるところのウエスタンっていうのがありまして、ウエスタンがブームになった時期があって、ウエスタンブームのナンバーワンの人気者が小坂一也さんという人です。小坂一也さんに古賀さんが曲を提供しているんですよ。「青春サイクリング」。
古賀さんのもう一つは、ジャズソングを見事に取り込んだという名作があります。
これは「東京ラプソディ」という、「青い山脈」にも匹敵するくらいの名曲だと思いますけれども、これを境に軍事色が強くなったというのは前回でもお話をしたんですけれども、こういうようなタイプの曲も古賀さんにはあるということですね。昭和14年に古賀さんは、音楽使節になりましてアメリカに行くんですよ。その時にNBC放送で古賀さんの曲が何曲か放送されているんですよ。今回はその中から「酒は涙か溜息か」を当時のNBC放送で放送したものを聞いていただきます。
モダンな感じですが、この曲が最初からこういうアレンジでしたら、この後の古賀政男はあったのかということを一瞬考えてしまいました。服部良一さんはリズム歌謡というか、中野リズムボーイズとかリズムシスターズでいろいろなことをアレンジしてやっていましたけれども、こういう感じだったんですね。これに日本語をのせるという感じだったので、戦前にポピュラリティーという意味では、古賀さんにかなわなかった感じですね。「雨のブルース」とかああいうようなブルースが出てから、ようやく大衆に認められたということだったらしいですよ。曲もだいぶアレンジなり発表の仕方によって、同じ曲でも随分違うということですね。古賀さんにはこういうジャズソング的なものもありますし、さすがに中山晋平の後継者ですから幅広いわけですよ。さっきの「愛して頂戴」みたいな曲もありますし、コミックソングも結構得意な人なんですよ。
美ち奴さんの「あゝそれなのに」でした。「うちの女房にゃ髭がある」というこの続編もありまして、芸者さんのこういう歌も得意で、戦後にこういう芸者ソングの最上曲を西條八十さんとのコンビなんですけれども、作ります。
「芸者ワルツ」で、歌詞カードをみると全部英語で書いてありましたよ。作詞から作曲からプロデューサーまで書いてありましたけれどもね。当時「Tennessee Waltz」というパティ・ペイジ(Patti Page)で、江利チエミさんがカバーしましたが、それに対抗して「芸者ワルツ」をやりました。この路線なんですけれども、これにはまた後継者が現れます。「おひまなら来てね」。
徐々に遊興街も様変わりしますからね、それとともにいろいろなスタイルが変化していくんだと思いますが、この曲は遠藤実さんの作曲ですね。古賀さんの後継者として、たくさんいるんですけれども、遠藤実さんもその一人だと思いますね。続きましては古賀さんといいますと、古賀演歌ですね。先ほども「酒は涙か溜息か」がありましたが、「人生劇場」という曲がありまして、昭和13年ですけれども、楠木繁夫さんで聞いてみたいと思います。
これが「人生劇場」だったんですけれども、戦後にこれがリメイクされるわけですね。歌った歌手が村田英雄さんでございます。
一般的に戦前が古くて戦後が新しいと。戦後はアメリカに占領されましたし、アメリカニズムで覆いつくされていったと思われるかもしれませんが、今のが戦後のバージョンなんですよね。戦前のバージョンといいますものは、テンポが速いしジャズっぽいアレンジなんですね。だから、実は戦後の方が復古調なんですよね。よく生活のテンポが新しくなってきたから新しい音楽が云々なんていうものありますけれども、そうでないものもあるんですね。別段あっさりとは思ってなかったと思いますね。最初の楠木さんもね。藤山一郎さんの「影を慕いて」も今聞くとあっさりと聞こえるかもしれませんが、別段あっさりではないんですよね。何故かというと、後半の方が濃いんですね。後半が濃いので前のがあっさり聞こえるようになったとおもうんですけれども、そのぐっと濃いやつを聞いてみようと思います。「無法松の一生」。
無法松の一生は戦前、阪東妻三郎の当たり役なんですね。それで、日本人の非常に好きな男性のキャラクターなんですよね。寅さんの原型がこの無法松だという説もあります。「小倉生れで」と言ってましたけれども、村田さんも古賀さんも同じ九州ですからね。戦前、古賀さんは藤山一郎さんとコンビでしたよね。藤山さんとの出会いは時代的な出会いだったと思いますが、村田さんとの出会いは運命的な必然の出会いだったと思いますね。その必然の出会いがさらに演出が濃くなっていったというか、必然ですからそうならざるを得ないとなっていたんじゃないかと思います。今の歌い方を聞いていただいてわかるように浪曲なわけですね。村田さんは浪曲師だったわけですから、歌謡曲の中に浪曲を戦後持ち込んだということになるんです。戦前は浪曲を歌謡曲の歌手が普通に歌っていたわけですね。東海林太郎さんで「赤城の子守唄」。
テーマは国定忠治ですけれども、流行歌歌手が歌っていたわけですよね。特に東海林太郎さんはコブシはないんですね。今の曲でもほとんどコブシらしいところは数カ所しかありませんでしたし。そもそもコブシと呼べるかというもので、この人はほとんどコブシはない人ですね。オペラ歌手になりたかった人ですから。続いて平手造酒を扱った浪曲があるんですが、「大利根月夜」という田端義夫さんがまた出てきます。
バタヤンはコブシがある方ですからね。戦後に同じく平出造酒をテーマにしましたところの「大利根無情」というのが出てきました。
三波春夫さんも本物の浪曲師ですから、浪曲のコブシが楽曲の中に入ってきたというのは戦後なんですね。戦前は流行歌歌手が歌っていたんですけれども、戦後は本物の浪曲師が入ってきましたから、本物の節回しがそのまま入っていったということなんですけれども、それで浪曲といった名がついたところの大ヒット曲がこの後出てまいります。一筋太郎さんで「浪曲子守唄」。
浪曲は節と語りがバターンですが、ここまで来ますとこの独特な発声はすごいでしょ。これは「浪曲子守唄」で一節太郎さんですけれども、実はこの人の発声法がとある地方の民族音楽に似ているのではないかということを、私はえのきどいちろうさんのラジオで聞いたんですね。これはモンゴル地方の民謡でホーミーの音というのがあるんですけれども、これをちょっと聞いてみましょう。
こういうものを流しの人がやったので、流しはギターでこういうフレーズを弾くものだというのが定着したんですね。それで、古賀さんの後にギターの古賀メロディーの後継者が出てくるんです。
「別れの一本杉」という船村徹さんなんですよね。ですから、古賀さんの「影を慕いて」で始まった戦前のものが、船村さんの「別れの一本杉」のギターのイントロで、戦後のまた完成をみるというのがこの流れなんですね。船村さんもやらなきゃいけないんですけれども、これまた時間がかかるわけで、ひとつ後日ということにさせていただきます。続いて遠藤実さんですけれども、遠藤実さんも古賀さんのこういうタイプを引き継ぐんですけれども、この曲を聞いてみたいと思います。
遠藤実さんの「星影のワルツ」でしたが、この曲の前に遠藤さんはこういうタイプの曲をすでに作っているんですね。
これが遠藤実さんの「学園広場」という曲で、舟木一夫さんが歌っています。続いて、遠藤実さんの作曲で島倉千代子さんの「襟裳岬」という曲を聞いてみましょう。
この人が歌謡曲に民謡のコブシを入れた最初の人なんですね。この人以上にコブシをうまく入れた人は、あとにも出てこないんですね。最初の人のすごいところというんでしょうかね。だから、結局日本のフォークは三橋美智也が原点だったんですよ。「北国の春」が1970年代の頂点でしたけれども、この民謡の三橋さんの頂点は次の曲でした。「達者でナ」。
こういう風に脈々と伝統は受け継がれています。先ほどの菊地さんはカントリーというかウエスタン歌手だったんですね。ですので、「スタコイ東京」みたいな曲を歌いながらも、こういう歌も歌っていたんです。「トンバで行こう」。
これが「人生劇場」だったんですけれども、戦後にこれがリメイクされるわけですね。歌った歌手が村田英雄さんでございます。
一般的に戦前が古くて戦後が新しいと。戦後はアメリカに占領されましたし、アメリカニズムで覆いつくされていったと思われるかもしれませんが、今のが戦後のバージョンなんですよね。戦前のバージョンといいますものは、テンポが速いしジャズっぽいアレンジなんですね。だから、実は戦後の方が復古調なんですよね。よく生活のテンポが新しくなってきたから新しい音楽が云々なんていうものありますけれども、そうでないものもあるんですね。別段あっさりとは思ってなかったと思いますね。最初の楠木さんもね。藤山一郎さんの「影を慕いて」も今聞くとあっさりと聞こえるかもしれませんが、別段あっさりではないんですよね。何故かというと、後半の方が濃いんですね。後半が濃いので前のがあっさり聞こえるようになったとおもうんですけれども、そのぐっと濃いやつを聞いてみようと思います。「無法松の一生」。
無法松の一生は戦前、阪東妻三郎の当たり役なんですね。それで、日本人の非常に好きな男性のキャラクターなんですよね。寅さんの原型がこの無法松だという説もあります。「小倉生れで」と言ってましたけれども、村田さんも古賀さんも同じ九州ですからね。戦前、古賀さんは藤山一郎さんとコンビでしたよね。藤山さんとの出会いは時代的な出会いだったと思いますが、村田さんとの出会いは運命的な必然の出会いだったと思いますね。その必然の出会いがさらに演出が濃くなっていったというか、必然ですからそうならざるを得ないとなっていたんじゃないかと思います。今の歌い方を聞いていただいてわかるように浪曲なわけですね。村田さんは浪曲師だったわけですから、歌謡曲の中に浪曲を戦後持ち込んだということになるんです。戦前は浪曲を歌謡曲の歌手が普通に歌っていたわけですね。東海林太郎さんで「赤城の子守唄」。
テーマは国定忠治ですけれども、流行歌歌手が歌っていたわけですよね。特に東海林太郎さんはコブシはないんですね。今の曲でもほとんどコブシらしいところは数カ所しかありませんでしたし。そもそもコブシと呼べるかというもので、この人はほとんどコブシはない人ですね。オペラ歌手になりたかった人ですから。続いて平手造酒を扱った浪曲があるんですが、「大利根月夜」という田端義夫さんがまた出てきます。
バタヤンはコブシがある方ですからね。戦後に同じく平出造酒をテーマにしましたところの「大利根無情」というのが出てきました。
三波春夫さんも本物の浪曲師ですから、浪曲のコブシが楽曲の中に入ってきたというのは戦後なんですね。戦前は流行歌歌手が歌っていたんですけれども、戦後は本物の浪曲師が入ってきましたから、本物の節回しがそのまま入っていったということなんですけれども、それで浪曲といった名がついたところの大ヒット曲がこの後出てまいります。一筋太郎さんで「浪曲子守唄」。
浪曲は節と語りがバターンですが、ここまで来ますとこの独特な発声はすごいでしょ。これは「浪曲子守唄」で一節太郎さんですけれども、実はこの人の発声法がとある地方の民族音楽に似ているのではないかということを、私はえのきどいちろうさんのラジオで聞いたんですね。これはモンゴル地方の民謡でホーミーの音というのがあるんですけれども、これをちょっと聞いてみましょう。
色を付けるといろいろつきますが、発声法の技術というのを考えてみますと、また新しい側面が見えてくるのではなかということで、これはまた時間がありましたら後日行きたいと思います。さて、古賀さんといいますと何といってもこれでしょう。藤山一郎さんで「影を慕いて」。
イントロは都都逸の三味線で弾いていたフレーズなんですよ。それをギターに置き換えたんですね。それが実は新機軸だったんですよ。古賀メロディーが出てきてギターが使われることによって、三味線からギターへの移行が始まるんですね。これまでは弦楽器というと三味線がほとんどだったんですよ。今は弦楽器というとギターがほとんどだという風になりましたけれども、古賀さんのこれで一気にギターになったわけです。ギターで三味線の代用ができるということだったんでしょうね。代用もできるからさらにもっといろいろなことにトライしてみようじゃないかということだったんじゃないかと思います。戦後も古賀さんのギターで始まる古賀メロディーというのをどしどし作ります。近江俊郎さんで「湯の町エレジー」。
こういうものを流しの人がやったので、流しはギターでこういうフレーズを弾くものだというのが定着したんですね。それで、古賀さんの後にギターの古賀メロディーの後継者が出てくるんです。
「別れの一本杉」という船村徹さんなんですよね。ですから、古賀さんの「影を慕いて」で始まった戦前のものが、船村さんの「別れの一本杉」のギターのイントロで、戦後のまた完成をみるというのがこの流れなんですね。船村さんもやらなきゃいけないんですけれども、これまた時間がかかるわけで、ひとつ後日ということにさせていただきます。続いて遠藤実さんですけれども、遠藤実さんも古賀さんのこういうタイプを引き継ぐんですけれども、この曲を聞いてみたいと思います。
遠藤実さんの「星影のワルツ」でしたが、この曲の前に遠藤さんはこういうタイプの曲をすでに作っているんですね。
これが遠藤実さんの「学園広場」という曲で、舟木一夫さんが歌っています。続いて、遠藤実さんの作曲で島倉千代子さんの「襟裳岬」という曲を聞いてみましょう。
島倉さんの「襟裳岬」ですけれども、襟裳岬というとみなさんはこちらの曲の方を思いこされるのではないかと思います。森進一さんで「襟裳岬」。
遠藤実さん島倉さんのバージョンの方が先なんですね。詞は岡本おさみさんですからね。吉田拓郎さんが曲ですから。偶然だと思うんですが、私が思うにこれは決して偶然じゃないんですね。歴史的な必然があるんです。何故か岡本おさみさんは襟裳岬を選んでしまったと思うんですね。この二つの曲に何の関係があるのかということは次の曲を聞くとわかると思います。
遠藤実さん島倉さんのバージョンの方が先なんですね。詞は岡本おさみさんですからね。吉田拓郎さんが曲ですから。偶然だと思うんですが、私が思うにこれは決して偶然じゃないんですね。歴史的な必然があるんです。何故か岡本おさみさんは襟裳岬を選んでしまったと思うんですね。この二つの曲に何の関係があるのかということは次の曲を聞くとわかると思います。
千昌夫さんの「北国の春」ですよね。これは遠藤実さんなんですね。島倉さん、拓郎バージョン、千さんの「北国の春」とリリース順なんですね。実は、1970年代の日本の若者によってつくられたところの日本のフォークというジャンルがあるんですが、島倉さんよりも拓郎バージョンの「襟裳岬」が有名になりましたけれども、実は本家は遠藤実さんだったんですよ。遠藤実さんも負けてはいられないということで、「襟裳岬」の後に「北国の春」を作って位置を奪回したのではないのかと僕は思うんですね。1970年代フォークは吉田拓郎さんが有名ですけれども、その前に岡林信康さんがいて、実はその岡林信康さんの前に千昌夫さんがいたんです。ですから日本のフォークは遠藤実さんが創始者であると私は思います。といいながらも、実は千昌夫さんにも先達がいるんです。
これが三橋美智也さんの「新相馬節」です。三橋さんは民謡歌手だったんですね。三味線もうまいんです。お弟子さんもとっていて、お弟子さんがのど自慢に出て民謡日本一になったんです。それのレコーディングに三味線の伴奏でついていったら、お前も歌ったらどうだとディレクターに誘われて、それで歌手になったという方なんですよ。「新相馬節」を下敷きにした歌謡曲でデビューします。「酒の苦さよ」。
これが三橋美智也さんの「新相馬節」です。三橋さんは民謡歌手だったんですね。三味線もうまいんです。お弟子さんもとっていて、お弟子さんがのど自慢に出て民謡日本一になったんです。それのレコーディングに三味線の伴奏でついていったら、お前も歌ったらどうだとディレクターに誘われて、それで歌手になったという方なんですよ。「新相馬節」を下敷きにした歌謡曲でデビューします。「酒の苦さよ」。
この人が歌謡曲に民謡のコブシを入れた最初の人なんですね。この人以上にコブシをうまく入れた人は、あとにも出てこないんですね。最初の人のすごいところというんでしょうかね。だから、結局日本のフォークは三橋美智也が原点だったんですよ。「北国の春」が1970年代の頂点でしたけれども、この民謡の三橋さんの頂点は次の曲でした。「達者でナ」。
これが日本のフォークの祖ですね。民謡には馬子唄がありますけれども、これは創作馬子唄ですよね。農業の人がだんだん減っていくので、それが現実的なものではなくなるんでしょうけれども、日本のフォークは誰が何といってもこれが原点なんです。さて、当時民謡をロックの歌手とかロカビリーを取り入れるというのが流行しました。「ロック「おてもやん」」。
これが平尾昌晃さんなんですよ。平尾さんは長い作曲家人生を始めるわけですけれども、いろいろやってる人なんですよね。これはおてもやんだから熊本弁なんですよね。九州弁はこの後、武田鉄矢さんの「母に捧げるバラード」が出てきますけれども、あまり方言が歌謡曲や流行歌に出てくるというケースは少ないんですよね。同じくロカビリーで菊地正夫さんが歌っている、方言がどっさりと入っている「スタコイ東京」。
さらに同じ所にいるこの人がこの曲を作りました。吉幾三さんで「俺ら東京さ行ぐだ」。
さらに同じ所にいるこの人がこの曲を作りました。吉幾三さんで「俺ら東京さ行ぐだ」。
こういう風に脈々と伝統は受け継がれています。先ほどの菊地さんはカントリーというかウエスタン歌手だったんですね。ですので、「スタコイ東京」みたいな曲を歌いながらも、こういう歌も歌っていたんです。「トンバで行こう」。
ヨーデルうまいでしょ。この二面性。吉幾三さんも「雪国」とかあの二面性がありますよね。ウエスタンといいますと、アメリカでウエスタンの神様のように言われているハンク・ウィリアムズ(Hank Williams)なんですけれども、この人の歌を聞いてみましょう。「Lovesick Blues」。
ウエスタンの人全員がヨーデルをやるわけではありませんが、ハンク・ウィリアムズはなまりを前面に、そういうのがウエスタンの味なわけですから、地方色の独自性が民謡とクロスするわけです。世界的に1960年代の一番大きな音楽のムーブメントは、ザ・ビートルズ(The Beatles)の登場があったわけですけれども、ビートルズのこの曲を聞いてみましょう。「Do You Want To A Secret」。
リバプールなまりが一番ひどかったのはジョージ・ハリスン(George Harrison)なんですよね。かなりなまっているんですよ。これはピーター・バラカンさんに聞いた話ですけれども、それまでイギリスの歌手は、アメリカ発音だったんですね。クリフ・リチャード(Cliff Richard)が代表例のように、アメリカの英語のように歌っていかなきゃヒットしないだろうということですが、ビートルズが出てきたときにそのままだったということで、驚いたと同時に解放感があったということですよ。この今のテーマは、三橋美智也、菊地正夫、吉幾三、ハンク・ウィリアムズ、ビートルズとなまりについてなんですけれども、民謡となまりとオリジナリティーの固有のものが、もし次回があればこれまた大テーマになると考えております。ロックに民謡をアレンジするというのは、日本だけの流行りじゃなかったんですよ。向こうにもこういう曲がたくさんあるんですよ。
マイ・ボニー(My Bonnie Lies over the Ocean)はフォークソングですからね。トニー・シェリダン(Tony Sheridan)の後ろでキャーキャー言っていたのがビートルズの若いころなんですけれどもね。このようにたくさんフォークソングをロックにアレンジしたということで、フォークソングは日本語で民謡ですからね。民謡をロックにアレンジするということはこういうことなんですね。
これは寺内タケシさんの「津軽じょんがら節」の名演ですけれどもね。三橋美智也さんもじょんがらうまいですからね。寺内さんと三橋さんの競演って見たことありますよ。すごかったですよ。古賀さんがギターを使ってエコー感を取り入れましたけれども、それがエレキになったということですね。エレキが大ブームだったのはこのグループが火付け役だと言われています。
これはベンチャーズ(The Ventures)なんですけれども、曲は「Love Potion No. 9」で向こうの曲なんですけれども、なぜかじょんがら節に聞こえましたね。このベンチャーズが日本にエレキブームを起こしました。我々もベンチャーズなり寺内さんに影響されましてやりましたけれども、一番アイドルとしたのがバッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)っていうグループがあったんですね。この曲を随分練習しました。「Bluebird」。
フレーズがトンヤレ節みたいじゃないですか。この曲に非常に影響されて、私は1969年にグループを組みまして、それがヴァレンタイン・ブルーと言いましたが、はっぴいえんどというグループの前身でした。
これが一枚目のアルバムの一曲目に入っていた「春よ来い」という歌だったんですけれども、考えてみますと古賀さんが三味線に代わってギターを入れて、アンドレス・セゴビア(Andrés Segovia)のギタープレイに魅せられたといいますが、我々はバッファロー・スプリングフィールドやベンチャーズやアメリカンミュージックやイギリスの音楽などいろいろなものに影響されてこういうのを作ったんですけれども、時間軸的に新しかっただけで古賀さんとやってることは何も変わらなかったんだなと思いました。