音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(4) 「演歌」の誕生

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より 

 明治といいますと、自由民権運動というのが起こりますね。始めて市民権を与えられたわけですから民衆は喜びましたけれども、あまりの欧化政策や富国強兵だけに国に、そういう自由民権を叫ぶという声も出てくるんですよね。政府の批判の歌とか、風刺とか、そういうようなものが出て来たのも明治の初期の頃なんですよ。その頃にものすごく流行ったのが、最初は演説をしていたんです。演説をみんな聞いていたんですけれども、演説を禁止されるんですね。演説が禁止されたので、歌を歌うようになります。それで、演説の歌というところから「演歌」と言われるようになります。演説の歌、これが演歌なんです。



 これが「オッペケペー節」というものです。川上音二郎という人が歌って流行したというんですけれども、とにかくこういう風に政府を批判する。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という批判の都都逸がありましたけれども、とにかくチョンマゲを落として洋風ぶればいいんだということへの批判ですよね。そういうようなものがだんだん歌われるようになって、いろいろな曲が出てくるんです。次は、「ダイナマイト節」、「ダイナマイトどん」とも言われていますが、聞いてみましょう。



 非常に勇ましい歌ですけれども、これも民衆の熱意みたいなものが感じられますけれども、こういう風に政治の風刺の歌から、いろいろなコミックソング的なものもあるんですけれども、これは女学生をからかったんだったっけかな、「ハイカラ節」あるいは「ハイカラソング」といわれたものであります。



 これが「ハイカラソング」でハイカラな人を皮肉った歌ですけれども、この辺から風刺ソングやコミックソングみたいなものが出てくるんですよ。最初は歌だけだったんです。それが、「ハイカラ節」ではバイオリンが入ってきましたよね。バイオリンが入ってきて、今度はバイオリン演歌と音楽的になってくるんですよ。バイオリンの次に入ったのが、アコーディオンなんです。時代とともにこの演歌がだんだん変遷していくんですけれども、今後は大正の頃に石田一松という人がいて、この人の「のんき節」というものがあります。


 
 「へへ、のんきだね」っていうのが最後に来るんですね。これもある程度批判があって、三番の歌詞には、アメリカの大統領が変わったら景気がよくなって、そんなんだったら毎年選挙をやってくれって、こういう風刺が大正時代からあるんですね。戦後、この流れの「~節」ですよね。さっきから「~節」がありましたよね。「オッペケペー節」、「のんき節」と。「~節」ってついたものも戦後いっぱいあるんですけれども、その中でも「~節」とついたところの最高傑作は、明治から100年の中でこの曲をおいてほかにありません。



 1960年に出てきましたけれども、この「スーダラ節」は詞の内容ももちろん風刺ソングだし、サウンドもこういう演歌の流れをくんでいるんですよね。だから、見事な、歴史的な演歌の流れだったんですね。この「スーダラ節」は。

日本ポップス伝(3) 唱歌をもとにして流行歌が生まれていった

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より

 軍歌でスタートした日本の流行り歌なんですけれども、明治政府は明治4年に文部省を設立します。これまでは一般の子ども達の教育制度はなかったんですね。一般の町の人たちは読み書きそろばんの寺子屋制度があったとしても、国がそういう教育をするということは、明治からなんですね。明治5年に学制が公布されたと。やはり教師は外国人教師だったんですね。だからクラーク博士のような人が来て、「少年よ大志を抱け」って札幌農学校で言って帰っていったわけですけれども、授業内容はみんな英語で行われたんですね。アメリカの人の場合は。医学はドイツ人が来て、そこではドイツ語で行われたんですね。だから、そういうような言葉が分野分野で残ったりしていますけれども、音楽もまた教育の対象になったんですね。なんで音楽は教育しなければいけなかったんでしょうかね。とりあえず富国強兵ということで、若者も含めて子ども達を教育して、立派な兵隊を作る、まあ立派な人間を作るですけれどもね、そういう風なことがあって、教育が行われたわけですよ。音楽では、音楽取調掛というのができるんですけれども、それが後の東京音楽学校で、それが芸大になるんですけれどもね。そこに外国人教師が来まして、それがメーソン(Mason)という人なんですけれども、このメーソンという人がきて音楽取調掛で教えるんですよ。この人が音楽を教えるために、はじめてピアノを輸入したんですね。それまでピアノが日本にはなかったんですね。それからバイエルをこの時に輸入しました。未だにみんな普通はバイエルから始めるんでしょ。最近は変わってきたみたいですけれども、これは明治から100年ずっと同じことをやってきたんです。このメーソンと言う人が最初にこれを持ってきたからですね。その時に違うものを持ってくれば、みんなバイエルをやらずに済んだんですね。バイエルで音楽嫌いになる人って多いんでしょ。メーソンがこんなものを持ってきたから失敗したんじゃないかって。それで、最初に子ども達を教育しようということで、唱歌教育というものを始めるんですね。まず歌を歌わせようと。本当は、メーソンの音楽学校では唱歌とピアノと和声学と管弦楽と四つ教えていたんですけれども、一般の次元では楽器がみなさん弾けないんです。この頃は。楽器どころか洋楽のメロディーすら覚えにくかった時期ですから、とりあえず歌だけは歌えるのではないかということで歌を作るのはいいんですけれども、作曲家がいないんです。ですから、海外の歌を、メロディーを借りてきて、その上に日本語をのせるということが、一番最初の唱歌教育だったんです。ほとんどの最初の頃の唱歌は、外国の曲です。さあ聞いてみましょうか。まずは「見渡せば」。



 これは「むすんでひらいて」のメロディーです。一番最初は「見渡せば」という歌詞がついたそうです。これはスコットランド民謡と言う風に言われていますけれども、スコットランド地方では有名な歌で「Auld Lang Syne」。



 最近の卒業式は二番くらいで終わるのが通常ですけれども、この曲は四番まであります。この四番は今は歌われません。何故歌われないかは聞いてみましょう。「蛍の光」の四番。



 というもので、明治の最初は「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり」と、こういうものです。最後は「努めよ我が兄、恙無く」と兄を送るという。これは結局出征する先達を送る歌なんです。だから卒業式に歌うんですよ。今は出征することがなくなったので、形式だけ残ったんですね。だから別れの歌というような感じでとらえられています。そういうことで、四番はないんですね。でも最初はあったんですね。このように唱歌でも、景色とか自然とか、またはこういう富国強兵とか国体にかかわるものの詞がのっていたんですよ。こういうのが唱歌教育で情操教育だったんですね。では、これもスコットランド地方の民謡ですけれども聞きましょう。



 「Comin' Thro the Rye 」、日本ではこれは「故郷の空」というタイトルでしたね。




 オリジナルは「Gin a body meet a body, Comin' Thro' the Rye」で、この後、ザ・ドリフターズが「誰かさんと誰かさんが麦畑」というのが、どちらかというとオリジナルの原詞に近いんですね。原詞の意味はドリフターズの方が近いんですけれども、「夕空はれて、秋風ふき」「思えば遠し、故郷の空」ですからね。結局ここで一つの結論が出ているのは、その詞の内容がどういう風につくのかでその曲がほとんど変わってしまう。明治の場合はどんな詞をつけるのかが一番のポイントだったでしょう。曲はあるものですからね。だから、童謡を聞いたり唱歌を聞いて涙するっていのが国民のなにがしと言う人がいるんですけれども、原曲がまるで違うというところにになにがしか面白いと思いますけれどもね。他には「追憶」とか「久しき昔」とかも外国曲です。こういうような種類の曲がジャンジャン輸入されたのがこの時代だったんです。初期の頃は外国曲に日本語の歌詞をつけたんですけれども、日本の曲だと思っている人が多いんです。教育される側は分からないから。「思えば遠し、故郷の空」とかついていればそういうことを考えてしまいますからね。それだけ言葉の力は大きなと思いますけれども。さて、そこで外国曲ばっかりでもあれだということで、作曲する人がようやく現れます。音楽取調掛の学生であり卒業生だった人が現れまして、その人の名を滝廉太郎といいます。滝廉太郎が出てきまして、ようやく日本のオリジナルの唱歌が作られるようになります。「花」。



 これまでの日本の歌と比べれば、非常に洋楽風ですけれども、このハーモニーが独特ですよね。なんとなれば、これまでの日本の音楽はハーモニーがないんですよね。基本的に仏教のお経などがそうですけれども、歌舞伎なんかを見に行ってもそうだと分かると思いますが、全部ユニゾンなんです。ハーモニーがないんです。要するに、ハーモニーも輸入したんですね。自分で独学で考えたハーモニーなので、教えて覚えなきゃいけないんですよ。無理につけたハーモニーなので覚えなきゃいけないんです。滝廉太郎の中ではこのような唱歌みたいなのが多いんですけれども、中学唱歌というものの中にも書きました。この頃はいろいろな曲をたくさんオリジナルが欲しいということで、音楽取調掛が教員とか学生に懸賞募集をしたりします。曲を作れと。そして当たると何円あげますと。その懸賞で受かった曲が次の曲なんですけれども、これが有名な「荒城の月」です。「荒城の月」なんですけれども、今回聞いてもらうのはオリジナルです。今流布されている「荒城の月」と一カ所音程が違います。それをちょっと聞いてみてください。



 「花の宴」の「え」がシャープしていましたね。滝廉太郎は最初はこう作ったんです。こう作ったんですけれども、誰も歌ってくれなかったんですね。半音だから音をとるのが難しいんですよ。それで、「え」が半音ではなくみんなが歌いやすいように変えてしまって、原作者もやむを得ず歌いやすい方にしたと。



 これは「荒城の月」で「え」がシャープしていませんでした。それで、この「荒城の月」というのは非常にいろいろな意味合いで深くその後の音楽に影響を与えて、これをベースにしてできた曲が何百曲とあると思いますよ。これが非常に好まれたんですね。「荒城の月」と「花」とで知られている比率みたいなものでいきますと、7対3くらいじゃないですか。「荒城の月」はみんな知ってるけれども「花」はあまり知られていない。やはりここには、メジャーとマイナーとの日本人の好みが出ていると思うんですけれども、この「荒城の月」をいろいろ、これをベースにして作った曲がいっぱいあるんですけれども、戦後なんですけれども、私が非常に「荒城の月」に捧げる歌、オマージュをささげた曲があって、これが私としてはなかなかよくできた曲だなと思うんですけれども、これを聞いてみたいと思います。



 これは戦後の三橋美智也という人が歌った「古城」という歌なんですけれどもね。流行歌の中にまぎれてみんな分かりにくくなっていたと思うんですけれども、これは見事に詞曲ともに「荒城の月」に捧げた歌なんです。こういうようなことが流行歌の中によくあったんですよ。だから唱歌と別に考えていないんですね。唱歌をもとにしてだんだん流行歌が出来ていくということは追々話しますけれども、だんだん流行歌の中にも入っていくんです。これは見事な捧げ方だなと僕は思いますけれどもね。これは、私の説ではなく、橋本治さんという人の発見でございますので、マルCはそちらの方に。ということで、このような自作というものが出来てきますけれども、滝廉太郎は生徒のうちから作曲をしていて、作曲をする人がそう多くはないわけじゃないですか。そうすると、学生の中でいろいろと作曲をしてくるということが起きるんです。それで、一高の第十二回記念祭寮歌、記念祭をするたびに寮歌をつくるんですね。寮歌を集めるとすごくいっぱいあるんですけれども、何かある度に作ってたんじゃないですか。それで、寮歌というとこれが一番最初に出てくるっていうくらい有名な歌で、「嗚呼玉杯に花うけて」。



 これが寮歌なんですね。実はこの曲の原曲はこういうマイナー的なメロディーじゃないんですよ。実はメジャーなんです。「嗚呼玉杯に花うけて」のオリジナル、メジャーバージョンを聞いてください。

 こちらは遊んでるとしか聞こえないかもしれませんね。昔よく楽屋でメジャーの曲をマイナーにしたり、マイナーの曲をメジャーにしたりしてみんな遊びましたけれども、そう遊んでるのではないかって。最初長調で作っていたのが、歌われている間に短調になっちゃったんです。だから、滝廉太郎の「荒城の月」の半音がとれないのと同じように、日本人はマイナーの方に馴染んでいるんですね。ということで、そっちの方になったということがあるそうです。なかなか最初の頃はいろいろな事があったんでしょうね。寮歌というと、男だけではなくて、明治35年に創立された佐世保女学校というのがありまして、そこの愛唱歌として作られた歌があります。それが「美しき天然」と、後に「天然の美」というタイトルでも知られていますけれども、これは佐世保の女学校の愛唱歌だったんです。ところが今佐世保の女学校の人が歌っている音源がありませんので、当時を再現して女学生はこう歌ったんじゃないかというような感じでとってきました。



 
 これがこの後ヒットするんですよね。この女学校の歌は楽譜が飛ぶように売れて、なんで売れるようになったのかというと、軍隊だけじゃなくて街中に楽隊ができるようになるんです。それを市中音楽隊と呼んだりしたんですけれども、民間でも楽団を持つようになるんです。民間が持つと、百貨店が持ったりとか、ウナギ屋さんが持ったりとかして、自分の店のPRなんかも始めるんです。それで、軍楽隊をだんだん小規模にして外を練り歩いたりして広告したりするという、そういう小規模のグループを「ジンタ」と呼んだんです。それが映画館とかいろいろな所にいって演奏するんです。例えば何か催し物があるぞというと、街中を歩くわけです。今でもパチンコ屋の開店とかだとまだあるかもしれません。それで、この時に「美しき天然」のメロディーがジャンジャン使われたんです。「美しき天然」のメロディーが市中の音楽隊の手にかかるとどうなるのか、これを聞いてみましょう。


 原譜がアレンジされて、だんだん馴染みやすいようになっていって、これがさらにもっともっと馴染んでいくんです。これは我々の世代まででしょうか、サーカスで聞かれました。サーカスの中で必ず「美しき天然」が、このメロディー=サーカスというのは我々の世代までだと思います。そういうので非常に流行ったんですけれども、もとは女学校の愛唱歌で、作曲者の田中穂積と言う人は、やはり海軍の軍楽隊の出なんです。だから大元はすべて外国人教師から習って、「軍艦行進曲」の人も、この「美しき天然」の人も、こういうような曲を作って、それがだんだん軍隊のものだけではなく、学校の唱歌だけではなく、寮歌として学生が歌い、それから市内に楽隊として出ていって一般の人がきいて、それがサーカスにも入っていくという、だんだんだんだん明治の教育されていたものが一般に少しずつ浸透していくということになります。以前の日本の音楽ではないから、耳新しいじゃないですか。だいたい、楽隊自体が耳新しいでしょ。だから、そういうものが街中を練り歩いて、メロディーが染みついていくと。

日本ポップス伝(2) 軍歌をもとにして流行歌が生まれていった

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より

 明治がはじまって、鹿鳴館の話しをしたいんですけれども、これは欧米並みの文化水準を持つ日本というものをアピールしようとしたんですね。ご存知の通り、明治は開国をしたわけで、列強並みいる中にこれから日本が行かなければならないということで、いろいろな欧化政策をやったわけですね。その辺は学校で勉強したと思いますが、舞踏会もやらなければならないと考えたんです。自然発生的なものではなかったんです。鹿鳴館で踊られていたのはワルツだけだったのかですが、僕は踊りはよく知らないんですけれども、明治16年から23年頃までの鹿鳴館は、ポルカ、カドリール、ギャロップ、ワルツとそういうようなものがあったそうです。これは私もよく知りませんけれども。というようなことで、欧化政策をやらなければならないということで、鹿鳴館が作られたわけです。



 これは「トンヤレ節」だけれども、知ってますか。これは官軍が江戸に入場するときに、京都から道中歩いてきたんですよ。行進するときに退屈ではいけないので、歌を作って歌を歌いながら、この鼓笛隊のようなものを鳴らして、江戸に進軍して入ってきました。これが俗に「宮さん宮さん」と言われますけれども、「トンヤレ節」というものです。これが日本最初の軍歌であり、また日本最初の流行り歌なんですね。それまでは都が中心でとかはあったんですけれども、日本全体に行き渡るというようなものは、あまりなかったんですよ。そういうような意味合いで、今の流れから考えていくと、とりあえずこれを我が国の流行り歌の第一号と。とにかく東海道をずっと歩いてくるわけですから、みんなそれを知らず知らずのうちに覚えたということです。これが「トンヤレ節」というものでございました。それで、薩摩藩とかもちろん江戸幕府もそうなんですけれども、軍隊を仕入れたときに音楽も仕入れたんです。例えば、江戸幕府だったら、フランスからラッパを吹く人を呼んだんですね。それで武士にラッパを覚えさせてラッパを吹かせました。薩摩藩はイギリスと交流がありましたから、軍隊と同時に鼓笛隊とかそういうものもやって、幕末の頃には軍隊にすでに楽隊があって、演奏をしていたそうです。だから、薩長が中心になったので、こういうようなサウンドで江戸に入場してきたということだったそうです。それで、明治政府ができてから、また音楽の教師を呼ぶんです。イギリスから来た人がフェントン(Fenton)という人です。この人を呼んで、音楽をいろいろ教えてもらったんです。いろいろこの人に教わったんですけれども、この人が日本に来て驚いたのは、国歌がなかったんです。一番最初に演奏するには国歌を演奏しなければならないということで、詞を作ってもらって、フェントンという人が作曲しました。これがオリジナルバージョンの「君が代」です。



 なんか「きよしこの夜」みたいな感じですけれども、これはわりあい有名な話で、去年も日比谷音楽堂かどこかでこれが演奏されておりました。ところが、メロディーがあまりにも洋風なのと、そうじゃなくても我々が聞いても覚えにくいじゃないですか。それで、全く浸透しなかったんです。フェントンと言う人は解雇されまして、明治9年にこのフェントンバージョンは廃止されました。それで次に、ドイツからエッケルト(Eckert)が呼ばれまして、今の「君が代」になりました。エッケルトという人がアレンジしているんです。今の「君が代」はすごくアレンジの力が大きい感じがしますよね。あの重厚な感じはアレンジによるものだという感じがしますけれども、ドイツ人だからあの重厚な感じがするんです。その次に、フランスからルルー(Leroux)という人がやってきます。音楽に限らずですけれども、明治の頃はとにかく外国人教師を呼んで、農業、工業、医学もすべて外国人教師だったんですよね。それで音楽もそうだったということで、フランス人のルルーという人がやってきまして、この人が軍歌を作るんです。詞は日本人です。「抜刀隊」という曲です。



 イントロが異常にながかったですけれども。「抜刀隊」の部分が始まった時、マイナーで始まったのが途中からメジャーになったでしょ。この当時陸軍の人がこれで歩いたそうですけれども、歌詞のバージョンもあるんですよ。歌詞がつくと本当に軍歌だなという感じがします。




 これを歌いながら行進したんだけれども、さっきのメジャーの所あるでしょ。あそこは全員音がとれなかったんだって。軍歌やマーチというのは、もともと日本にありません。だいたい、行進がありません。全員がまとまって行進するというのは、この時代に入れたものじゃないですか。だいたい宮中とか時代劇を見ていると、着てるものがあれだから右手と右足を同時に出すでしょ。僕らくらいの年代までは、昭和40年の後半ですけれども、体育会とかそういうのがあると、必ず右手と右足が同時に歩いている人間がいたものですよ。最近はいないんですかね。まだ居たりすると、その人は文化に深く根差した人だということが言えるんですね。これはどうでもいい事なんですけれども、この曲のメロディーがとある歌劇の中にあると言っている人がいるんです。それはビゼー(Bizet)の「カルメン(Carmen)」という歌劇なんです。(8:00あたり)。



 これは僕の説ではなくて、堀内敬三さんという、日本の音楽解説家としても最初ですし、「カルメン(Carmen)」の最初の訳をされた方もこの堀内敬三さんという方なんです。これは堀内敬三さんの説なんです。ルルーというのは音楽学院でビゼーの後輩だったそうです。そういう調べもついた上でそういうことを言っているわけです。そういうわけで、さっきの「抜刀隊」は忙しい歌でしたけれども、メロディーの下敷きは外国の曲だったということです。でも面白いことに、この「カルメン(Carmen)」っていうのは、すごく日本人に好まれたんですね。いろいろな曲がこの「カルメン(Carmen)」をもとにして、代々ものすごく生まれています。これをやっていると、「カルメン(Carmen)」だけで一時間が終わってしまいますけれども、とりあえず「カルメン(Carmen)」がどんなものだったのかについて聞いてみましょう。



 これは最後の方だけですけれども、とにかくこの「カルメン(Carmen)」は受けまして、映画のタイトルでも「カルメン故郷に帰る」とか、歌のタイトルに使われたりとかいろいろあるんですけれども、1977年ですから、つい20年くらい前ですね。「カルメン(Carmen)」が日本でリバイバルしたことがあるんですよ。



 これが「カルメン'77」ですけれども、阿久悠さんと都倉俊一さんの作品で、阿久悠さんのパロディーものですよね。だいたいピンク・レディーそのものが全編パロディーにしてできたものなんですよね。その中でも「カルメン(Carmen)」が出て来たということで、ビゼーとかルルーの明治の人たちの頃から100年くらいこの「カルメン(Carmen)」はずっと生き続けたんですね。その後はあまり聞きませんけれども、いろいろな所に忍び込まれているというか、忍び込んでいるという感じはあります。阿久悠さんと都倉俊一さんはピンク・レディーの前に山本リンダという一つの冗談プロジェクトをやっていまして、この人がこういう曲を出していました。



 これが「狙いうち」というタイトルでして、これが一番聞かれるシーズンはもうすぐですね。夏の甲子園なんです。野球の応援に、甲子園を見ているとこればかりかかっていますよ。ここ5年くらいですかね。これがよく使われているのは。それで、これが「狙いうち」という詞なんですけれども、実は「ウララ ウララ…」の部分のメロディーは、「抜刀隊」のメロディーをひっくり返したものではないかというのが、僕の仮説なんです。もともと「狙いうち」のジャケットは赤いバラを腰にさして、「カルメン(Carmen)」のイメージなんですよ。だから阿久悠さんと都倉俊一さんは二度やってるんですね。山本リンダとピンク・レディーで。両方とも「カルメン(Carmen)」をベースにしたら、なんと「抜刀隊」の軍歌の勢いを感じ取って、野球の応援歌に使われているのではないかというのが私の仮説です。だから、野球とかスポーツの応援に、行進曲なり軍歌が根強く残っているということは、これから追々でてきます。それで、「抜刀隊」の次に、あれだと官軍の歌ですからね。少しずつ近代的な軍歌を作るようになります。



 これが「来たれや来たれ皇国の守」という忙しい歌ですけれども、先ほどは官軍だけの歌でしたけれども、やはり富国強兵で列強に伍してこれから海外に出ていくぞという感じがあらわれているのではないのでしょうか。次は「敵は幾万」という、だんだん勇ましくなるんですよね。



 これは六大学の野球を聞いていると必ず聞かれますね。歌詞はないですけれども、このメロディーは必ず出てきます。だんだん明るい感じになってきますけれどもね。小山作之助さんという、滝廉太郎の師匠筋にあたる方の作品です。次に、陸軍がようやく最初の軍歌を持ったんですけれども、陸軍は歩きますから、「歩兵の本領」という曲です。




 ところが、このメロディーが、もともとはこの軍歌用のものではなくて、一高ですね、今の東大ですけれども、一高の寮歌で「アムール川の流血や」という、これまたすごいタイトルの寮歌があったんですけれども、それのメロディーだったんです。




 同じメロディーなんですけれどもね。実はこのメロディーは今度、大正11年にメーデーで歌われます。「聞け万国の労働者」。



 寮歌のメロディーが陸軍の歌になったり、メーデーの行進の歌になったり、いかにこの当時メロディーがなかったのか、こういう西洋的なものはまだ作曲する人が多くはなかったので、メロディーを使って詞を書いて、いろいろな歌詞を歌ったというわけですけれども、陸軍とメーデーのメロディーが一緒というのは、いかにもという感じがします。このメロディーがだんだんいろいろな形になっていって、いわゆる童謡のようなものの中にも入っていったりするんですよ。同じメロディーではないんですけれども、いかにもこれをベースにして作ったなという感じのものが、後に出てきます。「お山の杉の子」。



 基本の構成が全く同じです。それでこういうようなウキウキした感じの、軍歌が童謡の中に入っていくということがあります。そうこうしているうちに、いろいろな曲が出てきまして、海軍の中で日本のマーチといえばこれという決定的なものが出てきました。「軍艦行進曲」。



 初期の頃に作られて、これを超えるマーチは出てきませんよね。音楽的な解釈だけでいっても、非常によくできているマーチですよね。この曲の作曲者が日本のスーザと呼ばれている瀬戸口藤吉なんですけれども、この人の孫弟子にあたる方で、古関裕而さんという方がいます。古関裕而さんはこの後いろいろなマーチを作るんですけれども、大学の校歌とか寮歌とかそういう大学の応援歌のようなものを作るんです。それで、古関裕而さんが作った大学の応援歌というのがこれです。「紺碧の空 - 早稲田大学応援歌」。



 これが昭和6年に作られた「早稲田大学応援歌」。古関裕而さんが作曲したものなのですね。さっきのような軍歌がこういう大学の応援歌とか、そういうようなところに。六大学は野球がすごく盛んだったんですね。それで、そういう所で歌われたりしました。やっぱり野球に関係しているんですよ。古関裕而さんにはマーチとか応援歌の依頼が殺到しまして、いろいろな曲を古関裕而さんは作っているんですけれども、次の曲もこの古関裕而さん作曲の曲なんです。



 現在では「六甲颪」って俗称で言われていますけれども、阪神の応援歌なんですけれども、オリジナルは「大阪タイガースの歌」です。最初は大阪タイガースって言ったんですね。東京ジャイアンツと大阪タイガース。これも早稲田の応援歌と同じく古関裕而さんなんですね。大阪タイガースの歌があるとすると、ジャイアンツの歌もあるのではないかと思うのが普通なんですけれども、これがあるんですね。巨人軍の歌は三回作られているんです。第三代がその中でも一番有名ですから、その第三代目を聞いてもらうんですけれども、これは俗称は「闘魂こめて」という歌です。これもまたなんと、阪神タイガースの歌を作った古関裕而さんの作曲なんですね。巨人と阪神が同じ人が作曲した応援歌を歌っていたという。



 これが読売巨人軍が1963年に作った三代目の曲なんですね。ちなみに、初代も古関裕而さんだったんですけれども、とにかくマーチといえば古関裕而という。ですから、「軍艦行進曲」の瀬戸口藤吉の流れがずっと流れているわけです。それで、この人が晩年に作ったマーチというのがありました。



 今年は戦後50年と言われていますけれども、敗戦後日本が見事に復興した一つの象徴として行われた1964年の東京オリンピック。その東京オリンピックの「オリンピックマーチ」です。これも古関裕而さんなんですね。だから、明治の外国人のフェントンなりエッケルトなりルルーなりそういう人たちが教えて、その教えを受けて瀬戸口藤吉その他の人たちがマーチを作って、その孫弟子の古関裕而さんがマーチとか応援歌を、はたまた野球の応援歌を含めて、いろいろ作って、1964年にこのマーチも作られたということです。これがだいたい100年くらいの流れですね。ここまできますと、昔みたいに敵をやっつけろとか、そういう感じの勇ましさはなくなりましたし、敗戦のショックというものもありまして、あまり出かけるのもよくないだろうということになりまして、そうなると行進するのはいいんだけれども、どこに行進をしたらいいのだろうかということが分からなくなります。さて、行進するところが分からなくても、どこかに行進をしようという気持ちをどうぶつけたらいいのか。これがこの東京オリンピックの翌年、1965年に作られたマーチがあります。「ホンダラ行進曲」。



 どこに行進するのでしょうか。私は目的地はわかりません。とにかく分からなくてもホンダラッタホイホイが答えだという、これが明治100年たっていろいろ前に進んで戻りながらもいろいろやってきた日本の、一つの1960年代半ばの答えだったのではないかという風に私は思っております。さてその後、1968年にまた勤勉な日本人のためにといいますか、マーチが作られますけれども、これが大ヒットしたマーチという名がついた最後の曲だったのではないかと思います。



 水前寺清子さんの「三百六十五歩のマーチ」。一年間ずっとマーチをしなければならないというくらいですけれども、作曲家は米山正夫さんで、明治の最初に進もうとして、途中の「汗かき~」でマイナーになるところは第二次世界大戦で負けて、それでも希望をもって明日をめざそうと、そういう構成の歌だと私は解釈しております。米山さんはわりあいそういった作り方をする人だと私は思っています。この後なんとかのマーチという曲が一位になったりはしていないはずですよ。1968年以降は。または、なんとか行進曲とついたものもほとんどないのではないでしょうか。この後、今は行進曲として常に注目されているのは、高校野球の入場式なんです。だから、高校野球の入場式に何が行進曲として使われるのかが一つのテーマになるということは、やはり行進曲というものを国民が必要としているというか、それの代用として使われているのではないかというのが私の考えです。この後いろいろな曲が作られて、100位以内にマーチという曲がヒットしたのは、私の「うなずきマーチ」だけだと思います。



 20年前に私が作りましたマーチがございます。「ロックン・ロール・マーチ」。

 明治の頃は富国強兵。外国に向かうというテーマがありましたけれども、100年もたちますと、ロックンロールだったり、うなずいたり、ホンダラダッタだったりするわけです。ちなみに、「三百六十五歩のマーチ」の1968年というのは、明治から100年目です。そこになにがしかあるのではないのかというのが私論でございます。

日本ポップス伝(1) TRFから鹿鳴館へダンスミュージックの歴史を遡る

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第一夜より



 一曲目にかかりました曲は、TRFの「BOY MEETS GIRL」という歌です。今聞いてみて、これが洋楽だとか邦楽だとかそういうような意識では聞いてないでしょう。普通に今のヒットしている曲だということで、これが何百万枚も売れるというのが、今の音楽の象徴だと思ってこれを選んだわけです。ここに到達するまでにはそれぞれ長い歴史があるので、本日はここに来るまでにどういうような音楽があったのかということを、いろいろ聞いていこうと思います。これはダンスミュージックのリズムですよね。踊りはいつの世の中にもあるものですけれども、1980年代にもいろいろありましたけれども、その中からこの曲を選んでみました。



 「Shake Your Booty」という曲だったんですけれども、こういうようなダンスミュージックもヒットしたんですけれども、20年くらい前に1970年代中期にもまたディスコブームというのがあったんですよ。



 これはこの頃「Saturday Night Fever」というのがヒットして、フィーバーするっていうのが一つの流行語になったんですよ。ディスコっていうのが流行って、こういう音楽が流行ったんですけれども、リズムのタイプは「Shake Your Booty」とあまり違っている感じはしません。これが「Stayin' Alive」ですね。1970年代中期にはこういうディスコのサウンドが流行ったんですけれども、そのまた昔、1960年代中期から後期にディスコがブームだった時期があって、その頃にヒットしていた感じの曲はこういう感じの曲だったんです。



 これはSam & Daveの「Hold On, I'm Comin'」という曲ですけれども、こういうタイプの曲がヒットしました。でも、基本的にはさっきのサウンドよりはゆっくりとしたテンポですけれども、基本のビートは黒人の人たちのうねりといいますか、彼らがもっているダンスサウンドを踊っているという、そういうサウンドだったんです。それが1960年代の中期だったんですけれども、1960年代中期はものすごくいっぱいダンスがありまして、猿の真似をするモンキーダンスとか、馬の真似をするホースとか、サーフィンからスイムとか、スイムの場合は平泳ぎです。1960年代初期もいろいろなダンスのヒットがありました。



 これは「The Loco-Motion」という有名な曲ですけれども、どういう風に踊るのかというと、汽車ぽっぽですか。車輪のようにやってグルグル回るんですよ。この頃は「The Loco-Motion」の他には、食べ物のマッシュポテトというダンスもあったり、マッシュポテトの第二弾がグレイビーといいまして、マッシュポテトにかけるソースとかいくらでもあるんですよ。ハエのフライとか。とにかくいろいろなダンスがあったんです。1960年代初頭に一番大ヒットした踊りがあるんですけれども、それはアメリカで作ったものがフランスにいって、フランスから逆輸入したというのがあるんです。だいたいディスコティックというのは、フランス語なんですよね。それでフランスから逆輸入されてアメリカで流行って、日本にも来ましたけれども、1960年代の最大のダンスのヒット曲がこれでした。



 これはツイストというんですけれども、ツイストと言うくらいですから捻るんですね。これは腰を捻るんです。これはとにかくみんな腰を捻ったんです。それで腰を悪くして老人が病院に担ぎ込まれたりして、おじいさんやおばあさんにツイストの踊り方を教える時は、背中で乾布摩擦をする要領だと教えたんです。日本で大ヒットした証拠に、当時マイトガイと呼ばれた小林旭さんと美空ひばりさんが、自分でツイストをオリジナルで作っているというくらいに大ヒットしたのでございました。「アキラでツイスト」「ひばりのツイスト」。



 1950年代の半ばといいますと、ラテンミュージックがアメリカでも日本でも流行ったんですけれども、1950年代中期にラテンのリズムで大ヒットしたものがありました。



 ペレス・プラード楽団の「Mambo No.5」。マンボがこの頃はやって、ラテンはルンバだとか、チャチャチャだとかそういうのが1950年代中期なんです。ここでちょうど戦争がありまして、戦前に踊りというのは、ビッグバンドがバックでいろいろな踊りがあったわけです。ジャズと言われていましたけれども、戦前のサウンドを聞いてみましょう。



 ベニー・グッドマン楽団のあまりにも有名な「Sing Sing Sing」という曲ですけれども、こういうのに合わせて派手に動いていたんですよね。これが戦前の代表的なナンバーですけれども、もう一つ戦前の代表的なナンバーを聞いてみましょう。



 グレン・ミラー楽団の「In the Mood」という曲でして、終わるかなぁと思うと始まるというのは、ダンスをしている人、観客とのコミュニケーションですね。こういうようなビッグバンドのスタイルが戦前はあったわけですね。そのまたちょっと前に流行っていた踊りにはチャールストンというのがあります。「五匹のこぶたとチャールストン」という童謡もありますが、片足づつ後ろの方にあげるんですよ。

 これが「Charleston」という曲です。タップダンスとかも流行しますし、チャールストンのような踊りもありますし、基本的にはソーシャルダンスみたいな感じで、最後は必ずワルツがかかって終わるというような、そういうのが一つの戦前のスタイルだったんですけれども、この更に前となると、庶民が娯楽場で踊るというスタイルはないんですよ。あったのは、上流階級の人達があるまって舞踏会とか、そういうものになるんですよ。これは世界的にそうなんですよ。我が日本でも舞踏会というものが開かれました。最初の舞踏会が開かれたのは、有名な鹿鳴館になりますね。そこで日本最初の舞踏会というものが開かれました。そこで初めて洋楽なるものが一般に浸透するまではいかないけれども、聞かれるようになります。この鹿鳴館を中心に、日本のこのスタイルの音楽がスタートします。一挙に70、80年を、ダンスミュージックを遡ることによってやってみたのでございました。
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