音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝(11) ラジオ放送のはじまりとジャズソング

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 大正14年(1925)に我が国最初のラジオ放送がはじまります。1925年ですから70年前になりますか。ラジオ放送が始まりまして、3つ放送局ができたんですね。JOAK、JOBK、JOCKとありました。JOAKというのは東京なんです。JOBKが大阪なんですね。JOCKが名古屋なんです。一番最初の本放送が始まった時は、なんと近衛秀麿指揮のシンフォニーオーケストラでベートーベン 交響曲第5番だそうです。ラジオがどういった形で定着していくのかということの一番面白いところは、ラジオが一番有益に使われたというのはこれなんです。



 「ラジオ体操」ですけれども、これは昭和3年11月1日の昭和天皇御即位の礼というのが放送されまして、この記念事業としてはじめられたのがこの「ラジオ体操」なんです。昭和天皇の御即位を記念して作られたのがこの「ラジオ体操」なんですけれども、はじめの趣旨や意図は消えて行って、形が残るということは面白いですね。それで、東京のJOAKでジャズバンドがあったんです。これをJOAKジャズバンドといいます。ここで指揮をしていたり、いろいろなアレンジとか訳詞をしていた人に、堀内敬三さんという方がいます。堀内敬三さんがいろいろな曲をラジオから流して、ラジオでヒット曲がじゃんじゃん出てきます。どのような曲が流行ったのかをまずは聞いてみましょう。曲は「バレンシア」です。

 これが「バレンシア」で、堀内敬三さんが訳詞をしました。レコードになるとかならないの前に、放送局のJOAKジャズバンドでアレンジして、歌手を呼んできて、生で歌わせました。これでじゃんじゃん流行っていったんですけれども、これに目を付けたレコード会社は黙っていませんから、ラジオで流行っている曲をレコードで出すわけですね。洋楽のこのように流行っている曲を、当時はジャズソングと呼ばれていました。いわゆる今考えられている流行歌のおおもとが「東京行進曲」だとすると、ポップス的なもののおおもとはこのジャズソングにあります。そのジャズソングの第一号と言われたのが次の曲なんですけれども、歌手は二村定一と言う人です。二村定一さんが歌うところの「アラビアの唄」です。



 この曲は大ヒットしたんです。これはカップリングだったんですよね。A面B面はなかったと思いますけれども、もう一曲の方は「あお空 」という歌でした。



 この曲は前奏も間奏も長いんですけれども、これはダンスミュージックだったからなんです。だからテンポも速いでしょ。現代になって生活のリズムが早くなってリズムもどうのこうのってよく言いますけれども、テンポの速さで言えば今の音楽よりも数段速いですよね。それは時代の空気も含めてなんですけれども、実は流行歌のテンポはだんだん遅くなっていくということをこれからやっていきます。ここでようやく二村定一と「あお空 」と「アラビアの唄」が出てきました。いろいろなオペラが変化していったと。音頭や新民謡のようなものも出てきて、なおかつラジオの普及とともにジャズソングというものが全国に普及しはじめました。これがだいたい今回のまとめです。次回はジャズソングがどのように変貌していくのかです。

日本ポップス伝(10) 浅草オペラから宝塚歌劇団・松竹歌劇団へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 「東京行進曲」に匹敵する大阪のテーマソング「浪花小唄」というものを聞いていただきます。



 最後の「テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ」の所が有名ですけれども、 NHKで浪速演芸会があると、この曲がかかったんですよ。東京、大阪とくれば京都。



 昭和5年の作で京都の「祇園小唄」ですけれどもね。これが後ろにかかって月形半平太が出てくるというのは時代考証としてはSF的なものがありますけれども、これを流すといかにも京都かなという感じがします。知らない人は以前からあるという感じですが、これも昭和5年に作られたというのは面白いことではないでしょうか。この「浪花小唄」も「祇園小唄」も作った人は同じで、佐々紅華という人です。この人はレコード会社の社員であったり、浅草オペラの支配人なんかもしていた人なんですよ。なかなかにこの人は才人でして、この人が作った浅草オペラの頃の「カフェーの夜」という自作のオペラなんかも作ったりしています。オリジナルはありませんけれども、ここに「カフェーの夜」の「開幕の歌」がありますけれども、ちょっとこの歌詞を読んでみたりしてくれませんか。

  ザプリティガールズ
  ウィズチャーミングアイズ
  アンドローズリップス
  スイートドリンク
  ユーアーヘルス
  アイラブユー
  ユーラブミー
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか
  大正の新しい女はどこよ
  スイートドリンク
  フルオブジョイ
  待っててよ
  よくってよ
  ハンケドンケ
  誰とキスしようか

 大正の女の人はずいぶん進んでいるでしょ。すごいじゃないですか。その辺のディスコで踊っている女の子に聞かせてあげたいくらいですよ。こんな横文字だらけで、佐々紅華さんは。また浅草オペラがいかに時代の先端だったのかということですね。これは歌詞なので歌ったんですよ。すでに、浅草オペラに熱狂的なファンがいます。そういう人たちをペラゴロと呼んでいます。これはオペラのゴロツキではなくて、オペラとジゴロを足したんですね。女の子がダンスで出てくるじゃないですか。そうすると二人くらいひいきがいて、片方と片方で応援合戦が始まったりするんですよ。その中に18歳の川端康成がいたそうです。川端康成はこの後浅草オペラについての新聞小説を連載するんです。それで浅草オペラが一般的にさらに人気が出てくるんです。この当時の浅草オペラの中でナンバーワンの人気を誇っていたのが田谷力三さんでした。この人のインタビューがCDになっておりまして、ちょっとそれを聞いてみましょう。

 司会「その頃浅草で上演されましたオペラの曲目はどんなものを上演されましたか。」
  
 田谷力三「もちろんローシーゆかりのオペラはね、「ボッカッチョ」、「コルヌヴィルの鐘」、「マスコット」といったものをやっております。間にね、日本ではまだ早いだろうと申しましたけれども、「カルメン」を。これはもう当たりましてね、そこから創作オペラを。」

 司会「日本人の作曲でございますね。」

 田谷「これは伊庭孝さんの作詞で、作曲は竹内平吉さんで。」

 司会「あの宝塚に行かれた。」

 田谷「ええ。「釈迦」を。これも入りましてね。」

 司会「お客様が賽銭を舞台に投げたと。」

 田谷「そうなんですよ。その当時の二銭銅貨です。こんな大きなの。お釈迦様にご奉仕をやっているってことで、紙に包んだり、しまいには生でポーンと放るものですから、歌っていて危なくて口の中に入っては大変だということで、お釈迦様へのご奉仕はどうぞおやめくださいって。それから歌舞伎十八番の「勧進帳」を佐々紅華か何度も上映したいっていうんでやりました。富樫左衛門尉。エノケンの師匠の柳田貞一が弁慶で。柳田貞一の所にちょうど13、4から、後に歌う喜劇王になりました榎本健一がコーラスで一生懸命稽古していたんです。だから柳田貞一の弁慶に対する後見がエノケンだったんです。」

 司会「関東大震災の時でございますね。あの時は何を出し物にしていましたか。」

 田谷「ちょうど「マダム・バタフライ」の二日目でございました。これもよく入りましてね。それで浅草オペラは大正12年(1923)に壊滅しまして、私はとにかく7年間、一日も休まずに歌いましたので、この辺でもう一度声を練り直して、いちいちまで歌いたいという気持ちから、音楽家に転向しました。それで音楽界の方で歌っておりましたけれども、再びまた昭和に入りまして、12、3年頃に浅草にまた出まして、それから戦後ももちろん浅草オペラを持ちまして、ダイジェスト、さわりでございますけれども、今もなおローシーゆかりの浅草オペラを歌い続けております。」

 ということで、少し前のインタビューですけれども、「ローシーゆかりの浅草オペラ」ということで、帝劇の流れをくんでいて、普通のちゃんとしたオペラをやっていたということなんでしょうね。中でもときどき「勧進帳」のオペラが出てくると言っていましたから。そしてこれをやったのが佐々紅華だという話もしていましたけれどもね。その時に柳田貞一と言う人も出演者だったんですが、その人に弟子入りしたのが榎本健一、後のエノケンと呼ばれた人ですけれども、エノケンが後見をしていたと言っていましたけれども、これは黒澤明さんの「虎の尾を踏む男達」のあそこのような感じになっていますけれども、エノケンさんもこれに登場するんですけれども、登場した途端に関東大震災が来まして、浅草オペラが全滅しちゃんですよ。隆盛を極めた浅草オペラはこれでいったん止まるんですね。それで大挙してミュージシャンがいったん大阪に向かうというようなことが起きたりもしました。さっきの中にもちょっと出てきましたけれども、帝劇のオペラ、そして浅草オペラもありますけれども、これらのオペラを見て阪急の社長の小林一三と言う人がいて、これの少女によるオペラというものを考えたんです。これが有名な宝塚なんです。だから、もとは帝劇のオペラなんです。宝塚少女歌劇団の第一回の公演は「どんぶらこ」という和洋折衷のものだったそうです。それから大正7年に宝塚音楽歌劇学校というものの創立が認可されまして、ここから宝塚の歴史がはじまるんです。浅草オペラの中の人が宝塚に引き抜かれたんです。そういう人が小林社長にお金をもらって、当時のショービジネスの本場はパリなので、パリに勉強しに行って、帰ってくるんですね。それで、このパリに行って勉強して帰ってきたというのを一つのミュージカルにするんです。これが宝塚の一番最初の大当たりになります。



 これが「モン・パリ ~吾が巴里よ!~」です。帝劇出身の演出家の岸田辰彌という人の作品で、わが国でレビューと銘打たれた最初の作品です。中国、セイロン、エジプトを経て、パリへ旅した思い出を、レビューでたどる構成で、なかなかしゃれたものです。ラインダンス、フィナーレの階段下りが最初に行われたました。これから宝塚はパリ物をじゃんじゃん出していくわけですね。宝塚は阪急が作ったというので、松竹が対抗して作ったのが松竹歌劇団ですね。後にはSKDと言われますけれども、松竹の方でも後々には水の江瀧子とかスターが出ますけれども、松竹の方のテーマソングとなったのが「春の唄」です。



 帝劇ではじまったオペラが、このように浅草行ったり、宝塚に行ったり、松竹歌劇団の方に行ったりとだんだん広がりを見せていくんですね。

日本ポップス伝(9) 新民謡から音頭へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 新民謡運動ではいろいろな民謡が作られましたが、中山晋平の創作ですけれどもなんか昔からあったような民謡という感じで定着したものもあるんです。



 これは「天竜下れば」という曲で、信州地方の歌だと思われているでしょうけれども、中山晋平がだいたい信州の出身で、この歌詞が「伊那節」を基にして作られていて、歌っている市丸姉さんがまた信州の出身だったということもあるんですよね。でもこういう「天竜下れば」は昔からあった民謡のように思われますよね。新民謡運動はこの後に町田佳声さんが受け継いで、町田佳声さんもいろいろな新民謡を作っているんですけれども、その町田佳声さんの民謡も聞いてみましょう。



 「ちゃっきり節」をお送りしましたけれども、これも昭和6年のものです。静岡の電鉄会社のCMソングだったんですね。CMソングの第一号でもあったんですけれども、時代考証でいえば、清水次郎長が富士山の前を歩いている時に、これがかかるというのは、時代考証としてはおかしいんです。音楽は昭和6年なんですから。清水次郎長の頃にはこの音楽はないんですね。ないんだけれども、いかにもピッタリでずっと前からあったように思うじゃないですか。ずっと前からあるように思う事って多いじゃないですか。でも必ず最初があるんですね。これはいつ頃からなんだろうかって考えると、必ず最初があるんです。当たり前ですけれどもね。いろいろな音頭がありますけれども、音頭といえば中山晋平。中山晋平はとにかくいっぱい作っているんです。また、新民謡の流れで中山晋平の曲をお聞きください。



 「東京行進曲」で銀座がものすごく流行るんですよ。あまりにも銀座にばかり客が集まるので、丸の内の商店街の若旦那がみんな集まって、丸の内の客を呼ぼうということになって、丸の内のテーマソングを作るということで、これが「丸の内音頭」なんですね。中山晋平が作ったんですけれども、今ひとつ流行らなかったんだね、これが。これが次の歌詞にかわって、歌手も小唄勝太郎さんになりましてできたのが次の曲でございます。



 これが「東京音頭」ですけれども、この東京音頭も作詞西條八十、作曲中山晋平ですね。西條八十は初めて故郷に錦を飾った、自分の生まれ故郷の東京のテーマソングが書けてうれしかったと語っていますけれども、当時これがビクターの売り上げナンバーワンになりまして、120万枚売れました。日本で初めて100万枚ヒットはこの「東京音頭」なんです。この西條八十と中山晋平のコンビは、とにかくありとあらゆる音楽を作ったんです。中山晋平は音頭の親というか、私の親みたいなものですけれどもね。「東京音頭」の次に「さくら音頭」というものも作りました。



 作詞は西條八十さんにかわりまして佐伯孝夫さんですね。中山晋平が作曲ですけれども、これは各社競作です。コロンビア、ポリドール、テイチク、ビクターとみんなちがう「さくら音頭」なんですよ。各々が作詞家、作曲家、歌手を全部集めてレコード会社が競ったんですけれども、このビクター盤が最後に売上ではナンバーワンだったということで、コロンビアの文芸部長がその責任をとってその席を去ったそうですけれども、いつの世もなかなか厳しいものでございますね。これが、新民謡から音頭が出来てくるという感じですけれども、いまでは定着しているようですけれども、創作の音頭であったということですね。これがここのコーナーのポイントでございました。

 新民謡運動とか音頭を聞いてみると、明治政府は欧化政策だったじゃないですか。ダンスを踊ろうで鹿鳴館、オペラを歌おうってことで帝国劇場っていうので欧化政策ばかりだったので、無理に押し付けられているという民衆のエネルギーみたいなものが、こういう新民謡や音頭に集まったのではないのかと言う気もするんですよね。明治政府はなんとバカなことに、盆踊り禁止令を出したんですよ。鹿鳴館の時代に。風俗的に外国の人が見たら低いということで。東京オリンピックの時も似たようなことがありましたけれども、とにかく盆踊り禁止令を出したけれども、誰もやめなかったそうです。こういったような洋風のサウンドが一方にありながら、和風なサウンドもやっているんですかれども、和風な中にも洋風のものを取り入れてというか、和風と洋風がごっちゃになったそういったものもあったんですけれども、今度は「浪花小唄」というものを聞いていただきます。「東京行進曲」に匹敵する大阪のテーマソングができるんですよ。



 最後の「テナモンヤ ないかないか 道頓堀よ」の所が有名ですけれども、 NHKで浪速演芸会があると、この曲がかかったんですよ。東京、大阪とくれば京都。



 昭和5年の作で京都の「祇園小唄」ですけれどもね。これが後ろにかかって月形半平太が出てくるというのは時代考証としてはSF的なものがありますけれども、これを流すといかにも京都かなという感じがします。知らない人は以前からあるという感じですが、これも昭和5年に作られたというのは面白いことではないでしょうか。

日本ポップス伝(8) 童謡から新民謡、そして流行歌へ

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 童謡と同じように、あたらしい民謡を作ろうということで、新民謡運動というものも起きるんです。それまではご存知のとおり民謡というのは各地にいっぱいあったんですけれども、そういうのではなくて新しい民謡を作ろうということで、作詞家の野口雨情と作曲家の中山晋平が全国民謡調査に歩いて、行く先々で新しい民謡を作って歩いたんですね。さらに新しい民謡だから、昔のような手拍子の民謡だけではなくて、新しい形の民謡を作ろうということで創作民謡。だから、民謡といってもいわゆる我々が単純に民謡だと思っているようには聞こえないんです。新民謡という形で出来た歌として、まずはこれを聞いてみましょう。「出船の港」という曲です。



 メロディーは民謡のようなんですけれども、ピアノだし、普通の民謡では出だしからないですよね。この流れの中で次の曲が出されるんですけれども、昭和3年くらいになってくると、外資系のレコード会社が出来まして、日本ビクターと日本コロンビアがちょうどこの頃できるんです。二大レコード会社ということで、レコード産業がだいたいこの辺からスタートします。その前にも独立のレコード会社はたくさんあったんですけれども、このような大きい資本の会社が出来たのはちょうど昭和2、3年くらいなんです。そのビクターの邦盤の第一回のふき込みというのが、今歌っていたのが藤原義江という人なんです。藤原義江さんの歌で同じく中山晋平の曲で「波浮の港」という曲を。これがビクターの邦盤の第一回の新譜でした。



 歌詞は野口雨情、作曲は中山晋平と言う童謡の「証城寺の狸囃子」を作っていたコンビがこれを作ったんですけれども、先ほどの新民謡みたいな感じもあるし、歌曲的な感じもあるし、少し日本語がおかしかったでしょ。この藤原義江さんという方は、お父さんがイギリス人なんですね。お母さんは大阪の人なんですけれども、田谷力三なんかをよく聞いて、浅草オペラにもいたことがあるんですよ。その後、この人も海外に行った、海外に出た三浦環に続く第二号になりますね。その後は、藤原歌劇団を作ってやった人ですけれども、その藤原義江の歌が、レコード産業の第一曲目だったんですね。先ほどやった「船頭小唄」も茨城県かどこかの水郷を歩いているときに作った、新民謡の一種だったんです。新民謡的な歌と、流行り歌の境界線がだんだんなくなってくるんです。同じこの「波浮の港」を女性歌手も歌っています。洋楽のレーベルの方を赤盤と呼んで、邦楽のレーベルを黒盤という風に、洋楽邦楽と最初から分けて出しているんです。ずっと未だに洋楽と邦楽というのがあって、最初から値段が違ったんです。その邦楽の方のレーベルで出たのが佐藤千夜子さんという人ですけれども、同じ「波浮の港」を聞いてみましょう。



 ビクターの邦楽の方ですね、黒盤歌手の第一号と言われている佐藤千夜子ですけれども、彼女は東京音楽学校で学んでいるんですね。それで、帝劇に来たアドルフォ・サルコリ(Adolfo Sarcoli)というイタリア人の人から、ベルカント唱法なりいろいろな発声法を学んだということでしっかり教育を受けました。当時は歌手の人は譜面が読めないとダメなわけです。だから譜面を読むというのは一つの技術だったわけですね。この人が第一号の歌手ということで、この人がだんだんいろいろな曲を歌っていくわけですね。先ほどは野口雨情と中山晋平のコンビだったのですが、ここに西條八十が登場するんですよ。西條八十さんが中山晋平と組んで、本当の意味合いでの流行歌の第一号というのがこの曲なんです。これがなんと行進曲というタイトルがついています。当時は浅草が東京で一番の繁華街だったんですけれども、少しづつ銀座が開けていくわけですね。今度は銀座が中心地になっていくということも含めて聞いてください。「東京行進曲」という曲です。



 菊池寛の小説『東京行進曲』が150万部を突破する大ベストセラーになったんですよ。それを映画化するということになって、それの主題曲を作ろうということになって作ったんですね。これまで純粋詩人であった西條八十なんですけれども、西條八十は自分で「生まれて初めてあてようと思って思いっきり調子を落として書いたもので、この時ほど私がヒットを気にした経験はない」という風に語っています。確かに、この歌詞はすごくて、出だしから「昔恋しい 銀座の柳」とありますが、当時銀座には柳がなかったんですよ。柳がなかったのでこの歌がヒットした後に銀座に柳が植えられたということがあるんです。それから「ジャズで踊って」というのがありますし、それから「ダンサー」がいて、もうジャズの時代にだんだんなってきているんです。それから「丸ビル」があって、「ラッシュアワー」がすでにあったでしょ。それから「浅草」があって「地下鉄」、「バス」。「恋のストップ」というのは停車場のストップと掛けているんですね。それで「シネマ」が出てきて「小田急」が出てきて、「月もデパートの屋根に出る」というのは、新宿のとあるデパートが出来上がるんですけれども、60年代になると銀座から新宿に繁華街が移るんですけれども、すでに西條八十はそれを予見しているというか、そういうような意味合いから言っても、本当にこれが流行歌の第一号だと言っていいと思います。歌っているのは先ほどの佐藤千夜子で、東京音楽学校で学んでこれを歌ったんです。中山晋平と西條八十は童謡も作ってきたんだけれどもこういうのも作って、次に映画の主題歌を中山晋平、西條八十、佐藤千夜子のコンビは作るわけです。なんとその次の曲は「愛して頂戴」という曲です。



 大正から昭和になったとはいえ、女の人が愛して頂戴というだけでもびっくりすると思いますけれども、それを朗々と一生懸命歌っていますからね。これが西條八十、中山晋平、佐藤千夜子でみんなそれなりにやってきた人が、だんだんこうなっていくんですよね。時代がいわゆるエロ・グロ・ナンセンスと言われた時代になっていっているのでそれの影響をうけているのですが、そういう社会的なことは今回はやっていると時間がないので音楽だけでいこうと思いますけれども、「愛して頂戴」の次にまたその第二弾みたいなのが出てきますけれども、なんとそのタイトルが「あらその瞬間よ」という曲です。



 「愛して頂戴」は中山晋平も西條八十もさすがに恥ずかしかったようで名前を変えているんですよ。というような感じで、童謡から新民謡にいってこういうような形の流行歌に同じ作曲家が移っていった変遷をたどっていくというのをちょっと駆け足で追ってみました。なお、新民謡は全国各地を歩いて民謡の調査をしましたが、昭和60年代くらいにも永六輔さんといずみたくさんもやっぱり全国を歩いて新しい民謡を作りました。「京都大原三千院~♪」で有名な「女ひとり」もそうですよね。この活動は、野口雨情と中山晋平が全国を周って民謡を作ったというのがヒントになっているのではないかと思います。

日本ポップス伝(7) 童謡運動と現代の音楽への影響

1995年 大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜より 

 唱歌というのは文部省がやっていたものなんですね。だから、内容も富国強兵であるとか固いものばかりなんですね。それで、そういうものばかりではいけないと唱歌への反動として、童謡運動というものが起こります。今は唱歌と童謡はひとまとめにして考えられていますけれども、唱歌と童謡は違うんですよね。童謡というものは、大正時代になって運動として起きたものです。その核になったのが、童謡童話雑誌として大正7年(1918)にできた『赤い鳥』です。詩人の鈴木三重吉という人が編集したんですけれども、「今までの子ども向けの読み物や唱歌が俗悪貧弱として、芸術として真価ある童話や童謡を創作する最初の運動を起こした」ということで、当時の詩人であるとかそういう人たちに呼びかけました。この運動に集まってきた三大詩人と言われているのが、北原白秋、西條八十、野口雨情という風に言われています。童謡とかいまはたくさんCDが出ているじゃないですか。それをかけようと思ったんだけれども、みんな最近のものにアレンジされているんです。童謡は素で歌うのが一番いいでしょ。適当にどんなものがあったのかについてやってみたいんですけれども、西條八十さんは「かなりや」。北原白秋の「赤い鳥小鳥」、「ゆりかご」。作曲家の山田耕作さんも「あわて床屋」などいろいろな童謡を作っていますけれども、非常に有名な歌ということで「赤とんぼ」があります。



 普通我々は「あかとんぼ」は「か」の部分を高く発音しますが、この歌は「あかとんぼ」の「あ」の部分を高く発音するようになっています。この「あ」の部分を高く発音するのはおかしいという論争も起きたんです。メロディーが洋風なものに日本語を入れると基本的に日本語のアクセントは必然的に変わってくるじゃないですか。洋楽の場合ならいざ知らず、オリジナルでも日本語の自然のものを無視したとかの論争はいまだにあるんです。まあ、そろそろなくなりましたけれどもね。こういう風に洋風のメロディーだと必ずついてまわる問題があって、逆に言えば言葉についているアクセントがあるじゃないですか。それ以外のメロディーものるようになったというのは、明治以降じゃないでしょうか。その前は、言葉についているアクセントに強く影響されるわけです。山田耕作の曲はたくさんありますけれども、こういう歌もありました。



 滝廉太郎の時に「荒城の月」に捧げる歌で三橋美智也の「古城」があったといいましたけれども、この「からたちの花」にも捧げる流行歌が作られました。それを聞いてみましょう。



 語りの部分で「からたちの花」のメロディーが使われていたのはわかりますか。このように童謡を流行歌の中に入れて発展していくというか、そういうようなことも行われたわけです。かわりまして、野口雨情の詩は「十五夜お月さん」、「七つの子」、「赤い靴」、「青い目の人形」、「黄金虫」、「うさぎのダンス」、「証城寺の狸囃子」。なんとなくテイストがあるでしょ。最初の「十五夜お月さん」から「青い目の人形」は本居長世という人の作曲で、「黄金虫」から「証城寺の狸囃子」までは中山晋平が作曲です。さて、童謡といいますと、童謡の大御所の中田喜直先生がいます。中田喜直さんの電話インタビューを少しお聞きください。

平岩英子「明治大正の音楽が現在の音楽に与えた影響はどんなものでしょうか。」

中田喜直「明治の終わりころ、明治20年代になってきてから滝廉太郎が出てきて、それからもう一人唱歌では岡野貞一という鳥取県出身の、あなたも知っていると思うけれども、「朧月夜」とか「故郷」とか。「故郷」はちょっと讃美歌みたいなんですよね。岡野貞一さんというのは、教会でオルガンを弾いていてクリスチャンだったんですよね。だから、明治の頃の唱歌というのは、讃美歌の影響を受けていますね。そういうことでだんだん洋楽が盛んになってくるし、大正の後半から昭和の初めは童謡が盛んになって、日本中で誰でも童謡を知らない人がいないくらい盛んだったんですよね。それが日本の洋楽の基礎みたくなっているんです。今のみなさんがたくさん歌っているポピュラーでも歌謡曲でも、今の作曲家はみなそういう日本の洋楽の歴史を背負って、そういう歴史の中から出てきていると思うんですよね。ですから、根本的にみんなそういうことで育ってきましたから、とても重要な事だと思うんですよね。」

 讃美歌の話が出てきましたけれども、明治の唱歌の中にもずいぶん讃美歌の影響を受けた曲が多いということなんですね。そして、この童謡にもずいぶん讃美歌の影響があるそうです。中山晋平は「背くらべ」、「てるてる坊主」と和風な感じが多いですよね。中でも「シャボン玉」というのはちょっと変わっているんです。これが讃美歌のとある歌の影響を受けているのではないかという説があります。




 これは讃美歌の「主われを愛す」という曲ですけれども、よく似ていますね。山田耕作さんも「主われを愛す」は子ども時代に非常に印象に残った歌だと書いていました。讃美歌と唱歌ないし童謡の関係を追及されている方の本も出ていますので、興味がある方はそちらの本を読んでください。唱歌から童謡になってきて、愛国調のものであるとか、忠君愛国調のものであるとか、軍歌の勇ましいものとか、そういうようなものではないものですよね。それから、北原白秋、西條八十、野口雨情は、歌にならない純粋詩も書いていて、詩集なんかもいっぱい出している文学者であったということも、一つのポイントですよね。作曲家としては、山田耕作そして中山晋平がいて、これらがだいたい童謡のポイントです。
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