ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝2(17) 中山晋平の後継者・古賀政男

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜より

 中山晋平をさらに発展させた人に古賀政男がるわけです。古賀さんの「丘を越えて」。



 出だしがバンジョーですよね。それでアコーディオンが出てきて、マンドリンが出てくる。古賀さんは明大のマンドリン倶楽部ですから、当初はマンドリンの合奏隊でのインスト曲だったんですね。それで後から詞を付けたと。これはアメリカ民謡、当時はまだスティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster)がいますから、「草競馬」とかああいうような感じですよね。ですから、アメリカのフォークソングが日本にもそのうち入ってきますけれども、そういう下地になっているんじゃないかと思いますね。戦後に、アメリカンフォークソングの発展形であるところのウエスタンっていうのがありまして、ウエスタンがブームになった時期があって、ウエスタンブームのナンバーワンの人気者が小坂一也さんという人です。小坂一也さんに古賀さんが曲を提供しているんですよ。「青春サイクリング」。



 古賀さんのもう一つは、ジャズソングを見事に取り込んだという名作があります。



 これは「東京ラプソディ」という、「青い山脈」にも匹敵するくらいの名曲だと思いますけれども、これを境に軍事色が強くなったというのは前回でもお話をしたんですけれども、こういうようなタイプの曲も古賀さんにはあるということですね。昭和14年に古賀さんは、音楽使節になりましてアメリカに行くんですよ。その時にNBC放送で古賀さんの曲が何曲か放送されているんですよ。今回はその中から「酒は涙か溜息か」を当時のNBC放送で放送したものを聞いていただきます。

 モダンな感じですが、この曲が最初からこういうアレンジでしたら、この後の古賀政男はあったのかということを一瞬考えてしまいました。服部良一さんはリズム歌謡というか、中野リズムボーイズとかリズムシスターズでいろいろなことをアレンジしてやっていましたけれども、こういう感じだったんですね。これに日本語をのせるという感じだったので、戦前にポピュラリティーという意味では、古賀さんにかなわなかった感じですね。「雨のブルース」とかああいうようなブルースが出てから、ようやく大衆に認められたということだったらしいですよ。曲もだいぶアレンジなり発表の仕方によって、同じ曲でも随分違うということですね。古賀さんにはこういうジャズソング的なものもありますし、さすがに中山晋平の後継者ですから幅広いわけですよ。さっきの「愛して頂戴」みたいな曲もありますし、コミックソングも結構得意な人なんですよ。



 美ち奴さんの「あゝそれなのに」でした。「うちの女房にゃ髭がある」というこの続編もありまして、芸者さんのこういう歌も得意で、戦後にこういう芸者ソングの最上曲を西條八十さんとのコンビなんですけれども、作ります。



 「芸者ワルツ」で、歌詞カードをみると全部英語で書いてありましたよ。作詞から作曲からプロデューサーまで書いてありましたけれどもね。当時「Tennessee Waltz」というパティ・ペイジ(Patti Page)で、江利チエミさんがカバーしましたが、それに対抗して「芸者ワルツ」をやりました。この路線なんですけれども、これにはまた後継者が現れます。「おひまなら来てね」。



 徐々に遊興街も様変わりしますからね、それとともにいろいろなスタイルが変化していくんだと思いますが、この曲は遠藤実さんの作曲ですね。古賀さんの後継者として、たくさんいるんですけれども、遠藤実さんもその一人だと思いますね。続きましては古賀さんといいますと、古賀演歌ですね。先ほども「酒は涙か溜息か」がありましたが、「人生劇場」という曲がありまして、昭和13年ですけれども、楠木繁夫さんで聞いてみたいと思います。



 これが「人生劇場」だったんですけれども、戦後にこれがリメイクされるわけですね。歌った歌手が村田英雄さんでございます。



 一般的に戦前が古くて戦後が新しいと。戦後はアメリカに占領されましたし、アメリカニズムで覆いつくされていったと思われるかもしれませんが、今のが戦後のバージョンなんですよね。戦前のバージョンといいますものは、テンポが速いしジャズっぽいアレンジなんですね。だから、実は戦後の方が復古調なんですよね。よく生活のテンポが新しくなってきたから新しい音楽が云々なんていうものありますけれども、そうでないものもあるんですね。別段あっさりとは思ってなかったと思いますね。最初の楠木さんもね。藤山一郎さんの「影を慕いて」も今聞くとあっさりと聞こえるかもしれませんが、別段あっさりではないんですよね。何故かというと、後半の方が濃いんですね。後半が濃いので前のがあっさり聞こえるようになったとおもうんですけれども、そのぐっと濃いやつを聞いてみようと思います。「無法松の一生」。



 無法松の一生は戦前、阪東妻三郎の当たり役なんですね。それで、日本人の非常に好きな男性のキャラクターなんですよね。寅さんの原型がこの無法松だという説もあります。「小倉生れで」と言ってましたけれども、村田さんも古賀さんも同じ九州ですからね。戦前、古賀さんは藤山一郎さんとコンビでしたよね。藤山さんとの出会いは時代的な出会いだったと思いますが、村田さんとの出会いは運命的な必然の出会いだったと思いますね。その必然の出会いがさらに演出が濃くなっていったというか、必然ですからそうならざるを得ないとなっていたんじゃないかと思います。今の歌い方を聞いていただいてわかるように浪曲なわけですね。村田さんは浪曲師だったわけですから、歌謡曲の中に浪曲を戦後持ち込んだということになるんです。戦前は浪曲を歌謡曲の歌手が普通に歌っていたわけですね。東海林太郎さんで「赤城の子守唄」。



 テーマは国定忠治ですけれども、流行歌歌手が歌っていたわけですよね。特に東海林太郎さんはコブシはないんですね。今の曲でもほとんどコブシらしいところは数カ所しかありませんでしたし。そもそもコブシと呼べるかというもので、この人はほとんどコブシはない人ですね。オペラ歌手になりたかった人ですから。続いて平手造酒を扱った浪曲があるんですが、「大利根月夜」という田端義夫さんがまた出てきます。



 バタヤンはコブシがある方ですからね。戦後に同じく平出造酒をテーマにしましたところの「大利根無情」というのが出てきました。



 三波春夫さんも本物の浪曲師ですから、浪曲のコブシが楽曲の中に入ってきたというのは戦後なんですね。戦前は流行歌歌手が歌っていたんですけれども、戦後は本物の浪曲師が入ってきましたから、本物の節回しがそのまま入っていったということなんですけれども、それで浪曲といった名がついたところの大ヒット曲がこの後出てまいります。一筋太郎さんで「浪曲子守唄」。



 浪曲は節と語りがバターンですが、ここまで来ますとこの独特な発声はすごいでしょ。これは「浪曲子守唄」で一節太郎さんですけれども、実はこの人の発声法がとある地方の民族音楽に似ているのではないかということを、私はえのきどいちろうさんのラジオで聞いたんですね。これはモンゴル地方の民謡でホーミーの音というのがあるんですけれども、これをちょっと聞いてみましょう。



 色を付けるといろいろつきますが、発声法の技術というのを考えてみますと、また新しい側面が見えてくるのではなかということで、これはまた時間がありましたら後日行きたいと思います。さて、古賀さんといいますと何といってもこれでしょう。藤山一郎さんで「影を慕いて」。



 イントロは都都逸の三味線で弾いていたフレーズなんですよ。それをギターに置き換えたんですね。それが実は新機軸だったんですよ。古賀メロディーが出てきてギターが使われることによって、三味線からギターへの移行が始まるんですね。これまでは弦楽器というと三味線がほとんどだったんですよ。今は弦楽器というとギターがほとんどだという風になりましたけれども、古賀さんのこれで一気にギターになったわけです。ギターで三味線の代用ができるということだったんでしょうね。代用もできるからさらにもっといろいろなことにトライしてみようじゃないかということだったんじゃないかと思います。戦後も古賀さんのギターで始まる古賀メロディーというのをどしどし作ります。近江俊郎さんで「湯の町エレジー」。



 こういうものを流しの人がやったので、流しはギターでこういうフレーズを弾くものだというのが定着したんですね。それで、古賀さんの後にギターの古賀メロディーの後継者が出てくるんです。



 「別れの一本杉」という船村徹さんなんですよね。ですから、古賀さんの「影を慕いて」で始まった戦前のものが、船村さんの「別れの一本杉」のギターのイントロで、戦後のまた完成をみるというのがこの流れなんですね。船村さんもやらなきゃいけないんですけれども、これまた時間がかかるわけで、ひとつ後日ということにさせていただきます。続いて遠藤実さんですけれども、遠藤実さんも古賀さんのこういうタイプを引き継ぐんですけれども、この曲を聞いてみたいと思います。



 遠藤実さんの「星影のワルツ」でしたが、この曲の前に遠藤さんはこういうタイプの曲をすでに作っているんですね。



 これが遠藤実さんの「学園広場」という曲で、舟木一夫さんが歌っています。続いて、遠藤実さんの作曲で島倉千代子さんの「襟裳岬」という曲を聞いてみましょう。



 島倉さんの「襟裳岬」ですけれども、襟裳岬というとみなさんはこちらの曲の方を思いこされるのではないかと思います。森進一さんで「襟裳岬」。



 遠藤実さん島倉さんのバージョンの方が先なんですね。詞は岡本おさみさんですからね。吉田拓郎さんが曲ですから。偶然だと思うんですが、私が思うにこれは決して偶然じゃないんですね。歴史的な必然があるんです。何故か岡本おさみさんは襟裳岬を選んでしまったと思うんですね。この二つの曲に何の関係があるのかということは次の曲を聞くとわかると思います。


 千昌夫さんの「北国の春」ですよね。これは遠藤実さんなんですね。島倉さん、拓郎バージョン、千さんの「北国の春」とリリース順なんですね。実は、1970年代の日本の若者によってつくられたところの日本のフォークというジャンルがあるんですが、島倉さんよりも拓郎バージョンの「襟裳岬」が有名になりましたけれども、実は本家は遠藤実さんだったんですよ。遠藤実さんも負けてはいられないということで、「襟裳岬」の後に「北国の春」を作って位置を奪回したのではないのかと僕は思うんですね。1970年代フォークは吉田拓郎さんが有名ですけれども、その前に岡林信康さんがいて、実はその岡林信康さんの前に千昌夫さんがいたんです。ですから日本のフォークは遠藤実さんが創始者であると私は思います。といいながらも、実は千昌夫さんにも先達がいるんです。



 これが三橋美智也さんの「新相馬節」です。三橋さんは民謡歌手だったんですね。三味線もうまいんです。お弟子さんもとっていて、お弟子さんがのど自慢に出て民謡日本一になったんです。それのレコーディングに三味線の伴奏でついていったら、お前も歌ったらどうだとディレクターに誘われて、それで歌手になったという方なんですよ。「新相馬節」を下敷きにした歌謡曲でデビューします。「酒の苦さよ」。


 
 この人が歌謡曲に民謡のコブシを入れた最初の人なんですね。この人以上にコブシをうまく入れた人は、あとにも出てこないんですね。最初の人のすごいところというんでしょうかね。だから、結局日本のフォークは三橋美智也が原点だったんですよ。「北国の春」が1970年代の頂点でしたけれども、この民謡の三橋さんの頂点は次の曲でした。「達者でナ」。



 これが日本のフォークの祖ですね。民謡には馬子唄がありますけれども、これは創作馬子唄ですよね。農業の人がだんだん減っていくので、それが現実的なものではなくなるんでしょうけれども、日本のフォークは誰が何といってもこれが原点なんです。さて、当時民謡をロックの歌手とかロカビリーを取り入れるというのが流行しました。「ロック「おてもやん」」。

 これが平尾昌晃さんなんですよ。平尾さんは長い作曲家人生を始めるわけですけれども、いろいろやってる人なんですよね。これはおてもやんだから熊本弁なんですよね。九州弁はこの後、武田鉄矢さんの「母に捧げるバラード」が出てきますけれども、あまり方言が歌謡曲や流行歌に出てくるというケースは少ないんですよね。同じくロカビリーで菊地正夫さんが歌っている、方言がどっさりと入っている「スタコイ東京」。



 さらに同じ所にいるこの人がこの曲を作りました。吉幾三さんで「俺ら東京さ行ぐだ」。


 こういう風に脈々と伝統は受け継がれています。先ほどの菊地さんはカントリーというかウエスタン歌手だったんですね。ですので、「スタコイ東京」みたいな曲を歌いながらも、こういう歌も歌っていたんです。「トンバで行こう」。



 ヨーデルうまいでしょ。この二面性。吉幾三さんも「雪国」とかあの二面性がありますよね。ウエスタンといいますと、アメリカでウエスタンの神様のように言われているハンク・ウィリアムズ(Hank Williams)なんですけれども、この人の歌を聞いてみましょう。「Lovesick Blues」。



 ウエスタンの人全員がヨーデルをやるわけではありませんが、ハンク・ウィリアムズはなまりを前面に、そういうのがウエスタンの味なわけですから、地方色の独自性が民謡とクロスするわけです。世界的に1960年代の一番大きな音楽のムーブメントは、ザ・ビートルズ(The Beatles)の登場があったわけですけれども、ビートルズのこの曲を聞いてみましょう。「Do You Want To A Secret」。



 リバプールなまりが一番ひどかったのはジョージ・ハリスン(George Harrison)なんですよね。かなりなまっているんですよ。これはピーター・バラカンさんに聞いた話ですけれども、それまでイギリスの歌手は、アメリカ発音だったんですね。クリフ・リチャード(Cliff Richard)が代表例のように、アメリカの英語のように歌っていかなきゃヒットしないだろうということですが、ビートルズが出てきたときにそのままだったということで、驚いたと同時に解放感があったということですよ。この今のテーマは、三橋美智也、菊地正夫、吉幾三、ハンク・ウィリアムズ、ビートルズとなまりについてなんですけれども、民謡となまりとオリジナリティーの固有のものが、もし次回があればこれまた大テーマになると考えております。ロックに民謡をアレンジするというのは、日本だけの流行りじゃなかったんですよ。向こうにもこういう曲がたくさんあるんですよ。



 マイ・ボニー(My Bonnie Lies over the Ocean)はフォークソングですからね。トニー・シェリダン(Tony Sheridan)の後ろでキャーキャー言っていたのがビートルズの若いころなんですけれどもね。このようにたくさんフォークソングをロックにアレンジしたということで、フォークソングは日本語で民謡ですからね。民謡をロックにアレンジするということはこういうことなんですね。



 これは寺内タケシさんの「津軽じょんがら節」の名演ですけれどもね。三橋美智也さんもじょんがらうまいですからね。寺内さんと三橋さんの競演って見たことありますよ。すごかったですよ。古賀さんがギターを使ってエコー感を取り入れましたけれども、それがエレキになったということですね。エレキが大ブームだったのはこのグループが火付け役だと言われています。



 これはベンチャーズ(The Ventures)なんですけれども、曲は「Love Potion No. 9」で向こうの曲なんですけれども、なぜかじょんがら節に聞こえましたね。このベンチャーズが日本にエレキブームを起こしました。我々もベンチャーズなり寺内さんに影響されましてやりましたけれども、一番アイドルとしたのがバッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)っていうグループがあったんですね。この曲を随分練習しました。「Bluebird」。



 フレーズがトンヤレ節みたいじゃないですか。この曲に非常に影響されて、私は1969年にグループを組みまして、それがヴァレンタイン・ブルーと言いましたが、はっぴいえんどというグループの前身でした。



 これが一枚目のアルバムの一曲目に入っていた「春よ来い」という歌だったんですけれども、考えてみますと古賀さんが三味線に代わってギターを入れて、アンドレス・セゴビア(Andrés Segovia)のギタープレイに魅せられたといいますが、我々はバッファロー・スプリングフィールドやベンチャーズやアメリカンミュージックやイギリスの音楽などいろいろなものに影響されてこういうのを作ったんですけれども、時間軸的に新しかっただけで古賀さんとやってることは何も変わらなかったんだなと思いました。

日本ポップス伝2(16) 近代歌謡の祖・中山晋平

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜より

 今回の講座のおさらいということで、まずは中山晋平をとりあげなければならないと思います。「カチューシャの唄」。



 中山晋平は近代歌謡の祖なんですけれども、和洋折衷ということと、「カチューシャの唄」は「復活唱歌」ですけれども、劇中歌ということですよね。劇中歌からスタートしたということは、これから映画主題歌がじゃんじゃんできるということは、今のテレビ主題歌がじゃんじゃんあるということの祖ですからね。日本の集会というのは歌が主なんですよ。まずは一曲といいますかね。必ず歌を歌うんですね。これは今に限らず随分長い伝統のようなんですよ。伴奏のあるなしに限らずですよ。一句も含めてもう歌ですからね。だからめでたい席でもいろいろな席でもまず歌を歌うと。それで、もともと日本人は主題歌主義なんですよ。だから、何か事があると必ずテーマソングというものを作ります。ですから、ドラマや映画や劇にも主題歌があるというのは、非常に伝統的なことだと思います。中山晋平さんは今のような創作の唱歌もありましたけれども、童謡もたくさん作っておりまして、代表的なものもたくさんありますけれども、この曲を取り上げてみました。

 「証城寺の狸囃子」ですけれども、戦後にアメリカのディズニーのテレビの中で使われるということで、アメリカのシンガーがアレンジして歌ったんですよ。それを聞いてみましょう。

 狸はアライグマということで、腹すかして、マケルナとマカロニが好きだという面白い歌ですけれども、戦後にジャズの有名なジーン・クルーパ(Gene Krupa)のトリオが来まして、やはり「証城寺の狸囃子」をジャズにアレンジしていましたから、ジャズにアレンジしやすいんですかね。中山晋平が持ってる作曲の何かがあるんじゃないかと思いますけれどもね。中山晋平と言えば童謡もあれば唱歌もありますけれども、新民謡、創作民謡もいっぱい作りました。今日は「船頭小唄」を森繁節で聞いてください。



 作詞家は野口雨情なんですけれども、野口雨情の映画があったんですよね。それで森繫久彌さんが主演しているんですよ。映画でエコーをかけて歌っているその慕情はさらに染みるんですよね。これは僕のちょっとした考えなんですけれども、近代小説のジャンルの中に自然主義運動の運動の中に、私小説という日本的な形ができましたよね。その歌謡史の中で森繁節というのは私小説にあたるのではないかと考えているんですね。私小説というのは私中心ですから、私中心に歌うという意味合いで演歌を捉えると、実は演歌のもとは森繁節ではないかということがあるんですけれども、これはまたじっくり取り上げてみたいというテーマでございます。その「船頭小唄」が古賀政男さんの「悲しい酒」を経て、今言われているところの演歌の源流になりましたけれども、この「船頭小唄」が昭和で枯れすすきという風になりまして、再登場しているんです。


 やっぱり今で言われる演歌のもとは中山晋平「船頭小唄」にありという感じがしますけれども、近代を感じさせるのはハーモニーがあるところですね。このハーモニーはすごいですよ。必死で上下してますからね。だから、何としても近代の中に入れ込もうとしている努力というのが、涙なくしては聞けませんね。同じく新民謡でも先ほどは利根川の歌だったんですけれども、民謡は地名をタイトルに入れるわけですね。ですから結局は、ご当地ソングの始まるという感じですね。より民謡らしい曲を聞いてみましょう。「天竜下れば」を市丸さんで。



 音楽の形態を伝統的なものを使うと、前からあったように思えてしまいますけれども、ご当地ソングはご当地ソングで新しく作られたわけですよね。ですから、「柳ケ瀬ブルース」とか柳ケ瀬が繁華街になったのは随分新しいんでしょうね。ていうことは、「柳ケ瀬ブルース」は新民謡なんでしょう。形態が歌謡曲なのであえて民謡とはつきにくいのかもしれませんけれども、でも結局ご当地ソングは民謡の範疇ではないかと思います。中山晋平さんの唱歌、童謡、新民謡と来ましたけれども、歌謡曲の第一号も作りましたからね。佐藤千夜子さんで「東京行進曲」。



 これで西條八十は当時の流行や風俗を歌い込むということで、当時ヒットしているのはジャズサウンドでしたから、こういうジャズのアレンジを取り入れて中山晋平が作ったということですね。中山晋平のもう一つの面は、コミックソングのようなものを作っているんです。そういう面もあるということで、結局大木のような人というのは幅が広いんです。佐藤千夜子さんで「愛して頂戴」という曲を聞いてみましょう。



 本当に幅の広さといいますか、作曲の技術ですから作ろうと思えば何でも作れるんでしょうけれどもね。そして、中山晋平をさらに発展させた人に古賀政男がいるわけです。

日本ポップス伝2(15) 唱歌ー国民歌謡ーラジオ歌謡の流れ

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜より

 最終回はまずはこの曲から始めてみたいと思います。



 これは滝廉太郎の「花」ですけれども、唱歌教育から日本の明治の教育が始まったということでいろいろやってきました。滝廉太郎さん、この曲を作ってから2年後の25歳で亡くなっています。この人がずっと生きてると、中山晋平さんとライバルになったんじゃないかとおもいますけれどもね。こういう自作の唱歌がありましたけれども、この唱歌から例えば歌曲という言われ方をするような曲も出てきました。



 これは「からたちの花」ですね。山田耕筰さんの作曲ですけれども、これはだんだんクラシックというジャンルがありますけれども、藤原義江さんとか五十嵐喜芳さんとかたくさんそういう歌い手さんがいらっしゃいますけれども、女性でも三浦環から最近はオペラ歌手の方々がボリュームのある声を出されておりますけれども、この流れがあると思います。それから、「花」「からたちの花」のラインは、さらに童謡や唱歌の流れに行くと思いますけれども、ひとつこの曲を聞いていただきたいのですが、これは「早春賦」という曲でございます。



 作曲は中田章さんという方です。こういような「花」や「からたちの花」というラインに似たものがあると思いますけれどもね。それから、童謡運動の中からいろいろな曲がありますけれども、「浜辺の歌」を選んでみました。



 ななかないい曲で、音楽的には難しいところもありますけれども、少年少女が歌うとまた別な感じがありますし、こういう風に歌うと歌曲的、クラシック的になります。こういうような唱歌から童謡の流れが、ラジオで国民歌謡というのが始まりまして、その国民歌謡に受け継がれたのではなかと思います。これも代表曲を聞いてみたいと思いますが、東海林太郎さんが歌うんですけれども、「椰子の実」でございます。



 先に島崎藤村の詞があって、それに曲をつけるということだったんですよね。東海林太郎さんは国定忠治とか歌ってた人ですけれども、燕尾服を着て直立不動っていうスタイルだったんですが、クラシック歌手になりたかったんですよね。本当は。早稲田で音楽学校は出ていないんですけれども、なんとしても歌手になりたいということで、満鉄で10年近く仕事をしていたんですけれども、わざわざ戻ってきて歌手の道に行った人です。だから、何を歌っている時でも、自分はオペラ歌手になりたかったということで、直立不動で燕尾服を着て歌うということなんです。だから、国定忠治も「椰子の実」もこの人にとっては同じだったんじゃないかという気がしますけれどもね。こういう唱歌から国民歌謡の流れがありましたが、こういうようなのではなくてもう少し少年少女向けといいますか、そういうような曲もありました。



 これは「森の水車」で童謡だと思っている人もいるかもしれませんが国民歌謡だったんですね。歌っているのは高峰秀子さんで、この人も少女女優の走りの人ですよね。本当は吉永小百合のもとはこっちなんですよね。歌を聞いてると広末涼子っぽい感じがしますけれどもね。この戦前の国民歌謡が戦後はラジオ歌謡という風に名前が変わりまして、ラジオ歌謡の中から何曲か選んでみたんですが、「森の水車」を作詞作曲しているのが米山正夫さんという人なんですけれども、その米山さんがまた作詞作曲をした曲があるので、それを聞いてみましょう。「山小屋の灯」です。



 「湯の町エレジー」を歌った人ですけれども、「山小屋の灯」のような歌も歌ったんですね。作家によって曲が違うと歌唱法も変わってくるという感じがありますけれども、なんとなく全体的な流れとして共通したものがあるように感じ取られるのではないかと思います。次が、橋本治さんがおっしゃるところのこれがニューミュージックの祖ではないかというところの曲で、またラジオ歌謡の流れの中にある曲ですけれども、岡本敦郎の「白い花の咲く頃」でございます。



 「花」から始まって「からたちの花」、そして「白い花の咲く頃」という風に、だいたい花がテーマに選ばれるんですね。次もまたラジオ歌謡から出たヒットでございます。「雪の降るまちを」。



 中田喜直さんが作曲ですけれども、中田喜直さんは「早春賦」を作った中田章さんの息子さんなんです。ですから、「早春賦」から「雪の降るまちを」に、ほかに「夏の思い出」や「ちいさい秋みつけた」があって、中田喜直さんは春の歌だけは作ってないんですね。親父の「早春賦」があるからということで、親子で四季を完成させているということがありますね。中田喜直さんは「めだかの学校」とか「かわいいかくれんぼ」とか童謡をたくさん作るわけですけれども、このような「花」から国民歌謡、ラジオ歌謡とひとつの流れがありますよね。こういうような流れの中に沿ったといいますかね、歌謡曲の中にもこういうような清潔感あふれるタイプの曲があるんですよね。それを聞いてみましょう。「水色のワルツ」。



 格調高いですよね。高木東六さんの曲ですけれども、歌謡曲の中に混然としてあったわけですよね。こういうタイプの歌謡曲はほかにもジャンジャンあるわけですけれども、次の曲は曲としても有名ですけれども、この流れにある曲だと思います。大津美子さんの「ここに幸あり」。



 以前は結婚式でも歌われていましたね。これは大津美子さんで、先輩に松島詩子さんという方がいて、その流れの歌唱法ですね。この二葉あき子、大津美子という流れの中で捉えますと、次の人のこの流れだと思います。岸洋子さんで「夜明けのうた」です。



 作曲はいずみたくさんなんですけれども、こういうような歌唱法になりますとシャンソンなんかにもクロスしてきますね。「雪のふるまち」を歌っていた高英男さんもシャンソン歌手でしたからね。唱歌と歌謡曲のこういうタイプのものとシャンソン、越路吹雪さんの感じとも似ていますから、こういうのがだいたい似た感じのラインなんじゃないかと思いますね。いずみたくさんと言いますと、いずみたくさんの歌でビューしました由紀さおりさんがいらっしゃいますから、この岸洋子さんの次は由紀さおりさんという風に流れてるんじゃないかと思います。その後はなかなか探しにくいんですけれども、僕が思うに、「あなた」を歌った小坂明子さんとか、ああいうタイプのものに引き継がれていくんじゃないかと思います。最近女性の二人組なんかがときどきでますけれども、小坂明子の流れの気がしてしょうがないですね。

日本ポップス伝2(14) 「オッペケペー節」から「東京五輪音頭」までの100年史

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第四夜より

 もう一度明治の頭に戻りまして、「オッペケペー節」に影響されまして大正時代に人気がありました石田一松さんていう方がいらっしゃいまして、この方が「のんき節」という歌で大ヒットしました。


 
 面白い歌ですよね。大正時代からアメリカの大統領が変わって景気がよくなるなら毎年選挙をやってくれということで、これが大流行したんです。明治の初期にやりました唱歌教育とかいろいろなことがありましたが、あれは政府が決めたことですけれども、一般国民はこういう歌を好んで聞いていたわけですし、学校教育を受けられる人も限られていましたし、レコードも高いですから、流れてくる歌にいろいろな歌詞をつけるとか、替え歌にして歌い遊ぶとか、そういうようなことが自由に行われていたからこのような発展を見たと思うんですよね。「のんき節」のメロディー自体は添田唖蝉坊が作っていますが、そこに石田一松の詞をのっけたということなんですよね。戦後にこの「のんき節」をカバーした人がいます。もちろん歌詞は変えてますが。映画の中で使われていますけれども、その映画のセリフのところから行ってみたいと思います。「のんき節」。
 
 植木等さんですけれども、植木さんは戦後の昭和の演歌師だったんですね。これは会社をクビになって流しをして稼いでるというシーンなんですけれども、今の時代もこういうのになってきているのではないかという感じがなきにしもあらずですけれどもね。無責任が大事だと言っていましたけれども、この人ほど日本の歴史で無責任が大事だということを強調している人はいないと思います。「無責任一代男」。



 世の中たいてい責任があるというような人の方が無責任なわけでしてね。出だしは「俺はこの世で一番」というのがありますけれども、これは前にネタがあるんですね。「俺はこの世で一番」で始まる歌があります。それを聞いてみたいと思います。「洒落男」。



 これが榎本健一さん、略してエノケンさんですけれども、「俺は村中で一番」って歌ってましたね。それで、植木さんに書いていたのが青島幸男さん。青島幸男さんが村中よりはもっとデカく行こうということで、この世で一番になりました。今の曲もアメリカの曲のカバーなんですよね。アメリカの曲のメロディーを持ってきて日本語をのせるというのは唱歌教育でもありましたしね。エノケンさんは浅草オペラのナンバーワンの人気の人でしたからたくさんそういう曲もあったんですけれども、街の演歌師の人達なんかも、どこのものとも知れずに伝わってくるメロディーがありますよね。それで適当な歌を作って歌詞をのせて歌を歌っていたというのがあります。次もアメリカの歌なんですけれども、「Marching Through Georgia」という曲がありまして、これが「東京節」という風にタイトルが変わりました。



 面白い歌でしょ。歌作りを自由にやっていたし、基本的には歌なんて自由なものですよね。戦後に女性のアイドルシンガーであった、女性のアイドルシンガーもこういうような曲をカバーするような、とにかく1960年代前後は結構ワイルドな時代だったんですよ。「パイノパイノパイ」。



 歌は森山加代子さんでアレンジは中村八大さんですけれども、出だしは「アルプス一万尺」で、ちょっと明るい西田佐知子という感じがしました。テーマに戻すと、本格的な帝劇のオペラが浅草に流れてきたということで、当時のオペラの歌、オペラメドレーを映画の中でやっているんですね。歌っているのは、エノケンさんと岸井明という方でございます。

 これが「孫悟空」という映画でして、山本嘉次郎さん監督で助監督が黒澤明さんなんですよ。戦中のものですけれども、これは面白くて必見ですね。浅草でやっていましたからたくさん寄席もあるわけですね。寄席の人達もオペラを取り上げるんですよ。取り上げられたのが「カルメン」なんですね。「カルメン」と言えば作曲者はジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)ですから、スペインの方ですね。歌っているのはあきれたぼういずで、「珍カルメン」という曲でございます。



 このように「カルメン」がどんどん変化していくわけですね。この人達は浪曲が入っていましたけれども、いろいろなものを浪曲にするというひとつの芸なんですね。リーダーの川田義雄さんが浪曲が得意だったんですね。それでいろいろなものを浪曲にしたんですけれども、次の曲を聞いてみましょうか。ディック・ミネさんの「ダイナ」です。



 洋楽系シンガーは、日本語をゆがめることが必死条件ですよ。あるいはフェロモン系シンガーの第一号といっていいかもしれませんけれども、この曲があきれたぼういずの手にかかるとどうなるかということです。



 服部良一さんもこの頃ジャズ浪曲というのをやっていまして、今でもラップ浪曲を国本武春君がやってますけれども、この頃はこれがすごい人気だったんですよ。浪曲も桃中軒雲右衛門から始まっていろいろな浪曲師がいたのですけれども、広沢虎造という方がおりまして、この人がとにかく大人気だったんですよ。「次郎長伝」。

 清水次郎長が出てくるまで長い長い。この虎造節がヒットしまして、昭和10年ですが、清水次郎長誕生120年記念がありまして、これを記念して映画がつくられました。「東海の顔役」という作品で、市川右太衛門さんが主演だったんです。原作は村松梢風という方です。もちろん静岡の方ですね。これのテーマソングということで、東海林太郎さんが歌ったのがこの歌です。「旅笠道中」。



 スティール弾いてるのはディック・ミネさんです。東海林太郎さんは前年国定忠治を歌った「赤城の子守歌」を歌って、これで清水次郎長を歌って、これで股旅物というジャンルが出来上がるんですね。今の曲を作曲されたのが大村能章さんという方で、この人は海軍軍楽隊出身で、松竹オーケストラに入団したとありますから、万城目さんの先輩ということになるのでしょうかね。この人が、股旅物の和洋合奏の形を完成させた人なんですけれども、その代表曲を聞いてみたいと思います。「野崎小唄」。



 この歌は大阪の野崎市の観光宣伝用に依頼された曲なんですね。間奏のところなんですけれども、これは義太夫節の一節なんだそうです。「新版歌祭文」の中の「野崎村の段」のメロディーを入れたんですね。最初意図的に入れて、どれがだんだん根付くという形ですね。この頃、映画界で大人気だったのが林長二郎といいまして、長谷川一夫さんだったんですけれども、その人と人気を二分したとされる高田浩吉さんという方がいまして、この人が主演して主題歌ということで、歌う映画スターの第一号だったんですが、それの代表曲で「大江戸出世小唄」というのがあります。



 作曲が杵屋正一郎さんという方で、杵屋というのは長唄の三味線方の伝統的な苗字で、だから本職の方だと思うんです。この人が、高田浩吉さんが主演するということで作ったんだと思いますね。小唄と言いますと、江戸から明治までずっとあったんですけれども、これは創作小唄ですよね。いろいろな小唄がありますけれども、昭和初期にできた小唄ということで、代表的な小唄を取り上げてみたいと思います。「祇園小唄」。



 昭和4年のものですね。『祇園夜話』という小説の映画化で、それのテーマソングだったんですけれどもね。歌っているのは葭町二三吉さん、藤本二三吉さんなんですけれども、この人は7歳から常磐津を習っていたということで、小唄というのは芸人さんの得意なものにだんだんなっていくんですね。歌謡界で言えば、芸者歌手という言われ方をして、女性の日本調の人達が以前の伝統的なものを守るというような形になったんですけれども、次の曲も創作民謡でした。「ちゃっきり節」。



 これも静岡の電鉄会社のCMだったんですけれどもね。作曲は町田嘉章といって、芸大出て新聞記者になってNHKに入りまして、民俗学者の柳田国男さんに師事をして、録音機を抱えて全国の民謡を録音したんです。『日本民謡大観』というのを編纂しまして、その方の創作民謡なんですね。静岡に行くとこういう背景のものが目に浮かぶと思いますが、新作だったんですね。新作といいますと、戦前の創作音頭の決定版という風に言いますとやはりこの曲だと思います。「東京音頭」。



 これが小唄勝太郎の歌で、いい声なんですよ。男性との掛け合いだったんですね。市丸さんも勝太郎さんも信州の芸者さんだったんです。勝太郎さんも清元江戸小唄の名取ということで、「佐渡おけさ」がデビュー曲だったようですね。このうよう新作民謡がじゃんじゃん作られるというのが戦前のパターンなんですね。それが定着して、戦後も盆踊りとなるとそういう歌が使われるというようなことがあるわけです。この「東京音頭」が創作民謡の中では最大のものだと思います。さて、戦後にこの「東京音頭」の存在と同じような音頭が現れるんですよ。それはこの曲でございます。「東京五輪音頭」。



 これが昭和39年に開かれた東京オリンピックの「東京五輪音頭」だったんですけれども、「軍艦マーチ」の瀬戸口藤吉の孫弟子の古関裕而さんは「オリンピック・マーチ」で、そしてこの曲が古賀政男さんなんですね。戦前は中山晋平、戦後は古賀政男ということで、これから4年たちますと、明治100年目だったんですよ。だから、「オッペケペー節」から「東京五輪音頭」までちょうどこれで100年たったということでございました。

日本ポップス伝2(13) マドロス歌謡の隆盛と衰退

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第四夜より

 本日はこの曲からいってみたいと思います。



 明治の演歌師が歌っていた神長瞭月さんの最後の方の録音なんですけれども、内容はいまでもそういう風刺が当てはまるという風潮がないとも言えませんね。明治から近代が始まったって簡単に言いますけれども、ここから近代になりますと始まるものではないわけですよね。長年にわたって人々の暮らしがあったわけですから、徐々に変化していくものですよね。新しいといっても、七五調ですよね。歌舞伎でも七五調なわけなんですね。新しいといってもなかなか言葉のリズムというものは変わらないですよね。今でも言葉のリズムはあまり変わっていませんよね。七五というと和歌ですし、『古事記』とか『日本書紀』も全部この形式ですよね。『サラダ記念日』という新しいものがでましたけれども、あれも七五で歌われていましたからね。だから、日本語にぴったりと合った形式なんだと思います。それで、今のような「オッペケペー節」のような歌があって、神長瞭月さんとかいろいろな人が出てくるんですけれども、フォークの高田渡さんが師と仰ぐ添田唖蝉坊さんという方に「ラッパ節」という曲があります。



 兵隊さんの歌ですね。起床ラッパとか、ラッパで起きたり寝たりしてたそうですからね。それでこのラッパ節というのが歌われて、添田唖蝉坊さんが作ったんですよ。面白いことに、メロディーはだんだん歌われて行って、替え歌がありますよね。それでいろいろな詞をのっけていくというのがありまして、このメロディーが次にどのように使われたのかといいますと、「奈良丸くずし」という歌があります。当時浪曲師で人気があった吉田奈良丸さんという人の節をちょっと崩したという意味だと思いますが、これをちょっと聞いてみましょう。



 内容は忠臣蔵の話ですね。次にこのメロディーがどのように変化をしていくのかというものがありまして、「青島節」というのがありますので、これを聞いてみたいと思います。



 最後の「なっちょらん」で「ナッチョラン節」という人もいるそうですけれども、こういう風にだんだん基本のメロディーが変化していくわけですね。そういうものが巷で歌われていて、そういうものが流行歌の中に入っていくということがあるんですね。昭和13年の上原敏さんの歌でございますが、「上海だより」。



 「ラッパ節」から「上海だより」になったという説なんですけれども、これは私の説ではないんです。堀内敬三さんに『ヂンタ以来』という本があるんですけれども、その中に書いてあります。この「上海だより」は便りシリーズといいまして、兵隊さんが出て行っていろいろなところから便りを書いてくるというシリーズ化されて、5、6作あったようですね。作曲家は三界稔さんといいまして、奄美大島出身の方なんですよ。この人は東洋音楽学校を出ていまして、上原敏さんにこういう曲を書いて、この後流行歌をたくさん作っていきますが、どこかに奄美的なものを感じられるのではないかと思います。上原敏さんは非常に人気がありまして、次にこの人の代表曲なんですけれども「波止場気質」というのがあるんですよ。



 バンジョーが入っていましたけれども、エレキがありませんから初期のジャズには必ずバンジョーが入っていたんですよ。バンジョーをフィーチャーするのはラグタイムとかいろいろありますけれども、ギターを横に置いて弾いたからスティールギターみたいで、こういうのがもう既にあって、これが歌謡曲の中に入ってきて、何故か波止場の、どうして海になるとスティールギターが入るのでしょうか。何か海の感じがするんですかね。ここで「波止場気質」という歌がでまして、ここからマドロス歌謡というものになっていきます。マドロスは船員さんですけれども、それをハイカラに言ったのだと思いますが、マドロス歌謡はすごく人気があったんですよ。基本的に海に出ていくというか外に出ていくという時代の気分も明治から始まってありましたからね。同じようなマドロス歌謡を歌った人に、田端義夫さんという方がいまして、通称ばたやんですけれども、「島の船唄」を聞いてみましょう。



 詞の内容を聞いていますと、船員さんでマドロスですけれども、船の船頭で暮らすのさって「船頭小唄」にあったテーマですよね。「船頭小唄」の場合は川で木造船ですよね。マドロスさんは海で鉄製といいますか、大きな船に変化していくわけですけれども、それがこういうマドロスものがヒットした原因の一つじゃないかと思います。それで、同じコンビが戦後に船に関係した代表曲を作っていますので、それを聞いてみましょう。



 これは「かえり船」と言いまして、特に復員する方が多かったのでそういう人達にはたまらなかったということで、「かえり船」から「戻り船」など船シリーズがじゃんじゃん作られました。田端義夫は出てくると「おーっす」って言うんですよ。最近このスタイルを踏襲したフォークから出た歌手がいますよね。堀内孝雄君がばたやんのスタイルを踏襲してるのではないかと思いますね。ギターを高めに抱えて堀内孝雄君もやりますよね。田端さんの二代目で。マドロスといいますと、上原敏さん、田端義夫さんのほかにマドロスを得意としていた人がいるんですけれども、マドロスと言えばこの人ということで、この人の名を岡晴夫さんでございます。「港シャンソン」。



 当時のブロマイドがありまして、まだテレビがありませんからブロマイドが飛ぶように売れたんですけれども、みんなマドロスさんの格好をしていますね。岡晴夫さんの人気はすごいものですよ。それで、作曲が上原げんとさんという方で、実家が蓄音機屋さんで、独学でギターやその他作曲を勉強して、岡晴夫さんと二人で流しをやっていました。明治の頃からの流しの伝統を受け継いでいるようなところで厄介になっていたそうですね。そこから出てきたということで、明治の演歌師と流しをやって歌謡曲を歌うとう意味合いでの演歌というものの結びつきはあるんですよね。歌う内容からサウンドスタイルは変わっていますけれども、そういようなことはあるようですね。さて、上原げんとさんが美空ひばりさんの曲を作ります。美空ひばりさんが取り上げるとそのジャンルは確立されたということがあるんですよね。上原げんとさん作曲で、作詞は石本美由起さん。このコンビはずいぶんいろいろな曲を書くんですけれども、石本さんはそののちに「悲しい酒」を書きますけれども、このコンビで「ひばりのマドロスさん」という曲を作りました。そのままですけれどもね。



 「縞のジャケツのマドロスさんはパイプ喫かしてタラップのぼる」とこれが非常にかっこよかった時代だったんですね。「赤いランタン」というメロディーとほとんど区別がつきませんけれども、同じジャンルですからね。イントロでかもめが鳴いていたでしょ。かもめもそろそろ入れていかないと。小物が徐々に増えていきますよね。次に、また同じコンビで美空ひばりさんのマドロスものの代表曲と言われている「港町十三番地」を作ります。



 イントロが妙な音がしていました。あれはバイオリンにピックアップをつけたんですね。エレキバイオリンですね。「なーがい旅路を」と随分長かったでしょ。二拍半ありますね。この後「函館の女」という歌が出てきて、「はーるばる」と四拍半もあるという。言語学者の金田一春彦さんによると、日本語は最初は二文字を言わないとだめだということで、一文字から始まるのは歌ではないということです。一文字だと何が始まるかわからなくて不安ではないかということがあるそうですよ。続いて、マドロスものを得意とした人に藤島桓夫さんという方がいまして、この方の「かえりの港」という曲を聞いてみたいと思います。



 ゆったりとした歌ですよね。アメリカでもリッキー・ネルソン (Ricky Nelson)という人が「Travelin' Man」という歌がありました。これは船乗りで各地に女の子がいるというテーマの歌ですけれども、この曲もそういうような曲のようですね。さきほど出てきましたばたやんのこのタイプの代表曲がありまして、それを聞いてみたいと思います。



 「島育ち」という曲でしたが、これが「上海だより」を作った三界稔さんが作っていますね。奄美の方で島育ちということだったようですね。ここ四五年前に「島唄」というのもありましたし、今は沖縄の方の音楽活動も活発ですけれども、三界さんはそれの先達だったと思いますね。さて、この辺の同じような世代に女性歌手がこのような歌を歌いました。



  三沢あけみさんで「島のブルース」。作曲は渡久地政信さんで、「上海帰りのリル」を作った人ですね。この方も沖縄の方なんですよ。ですから、三界さん、渡久地さんというように、常に沖縄の方で活躍されていた方がいるんですね。渡久地さんは代表曲は春日八郎さんの「お富さん」。この曲も、沖縄音階を感じさせるんですよね。その辺が面白いなとおもいましたけれども、これはマドロスというわけではなくて、海をテーマとするとどうしても島が出てきます。また、船が出てくるということで、いろいろなジャンルに広がりができますけれども、次の方のデビューヒットはこういう曲でございました。北島三郎さんでデビューヒットとなりましたところの「なみだ船」です。



 デビュー曲は「ブンガチャ節」という曲だったんですね。明治の演歌調の歌でコミックソング調なんですけれども、放送禁止になるんですね。ですから、こちらの「なみだ船」の方が事実上のデビューヒットということになったんですけれども、星野哲郎さんと船村徹さんというゴールデンコンビですね。北島さんは船村徹歌謡教室に通っていて、夜は流しをしていて、それでデビューしたということですね。船なりマドロスものなり海を歌ったテーマがありますけれども、これはお弟子さんの鳥羽一郎さんにつながっていると思いますね。こんなにみんながマドロスものを歌って、マドロスの格好をしていたんですけれども、途中からこのジャンルは一気に衰退します。たぶん、漁業の衰退と関係していると思いますね。また、歌を作るときの初期の頃に、中山晋平、すべてが中山晋平なわけですけれども、この人が船が出ていくということで「出船の港」というものがあります。藤原義江さんで聞いていただきます。



 中山晋平さんも「ドンとドンとドンと」と何度も言ってましたね。創作ですからね。その地方地方に漁業にかかわっている人の民謡はあったのだと思います。これは新しく作ったところの民謡ですからね。もう一曲あるんですよ。これが「鉾をおさめて」という曲です。


 
 鯨とりに行ってましたが、今は鯨をとると怒られますからね。中山晋平さんは「船頭小唄」みたいな川の歌も書き、こういう海の歌も書きましたけれども、近代日本は外国に出ていくような意味合いにおいて、木造から大型の戦艦を作るわけでして、やはりなんといっても一番最初の一番有名なところの近代の船の曲はこれだったんじゃないかと思います。「軍艦マーチ」。



 これまでは木造船で北前船や松前船で日本海なり太平洋なりに出たわけですね。あるいは川で漁業をしていたわけですけれども、世界に出ていきました。これが戦前編ということで、戦後になりますと平和な船になりますよね。昭和23年の歌で岡晴夫さんが歌っておりまして、作詞が石本美由起さんで、作曲が江口夜詩さんです。江口さんは海軍の軍楽隊の出身なんです。ですからこの曲はよく聞くとマーチなんです。しかも戦後ですから向かうところはハワイです。「憧れのハワイ航路」。



 自由に海外旅行ができませんでしたから、自由にできるようになったのは東京オリンピックの年で、本当に憧れだったんですよね。今でもみなさんハワイにたくさんいらっしゃってるのではないでしょうか。戦後、芸能人が正月をハワイで過ごすようになったのは、石原裕次郎さんが始めたスタイルなんですよね。始めたら、ほかの芸能人の方がみんな真似をするようになって、その後に一般の方も真似をするようになったということなんですね。こういう洋行の船もありますけれども、連絡船とかそういうようなものもできてくるんですね。その中に郵便船というのがありました。郵便も明治から始まりましたからね。それで船で運ぼうということで、「小島通いの郵便船」という曲が作られました。



 さきほど連絡船の話がありましたけれども、連絡船の歌も当然あるわけですよね。「連絡船の唄」を聞いてみましょう。



 これは戦中の曲でして、作曲は韓国の方なんですね。原曲は「連絡船は出ていく」という曲なんですよ。それを戦後に、青函連絡船のシチュエーションに置き換えたんですね。これが大ヒットしまして、これは菅原都々子さんという方の「連絡船の唄」で、この人にものすごく影響された歌手と曲がその後に現れます。



 都はるみさんの「涙の連絡船」ですけれども、当時ものまねの番組があって、都さんの菅原都々子さんのものまねが本当にうまかったんです。五木ひろしさんもうまくて、都さんと五木さんのものまねが楽しみで見てたんですよね。とにかくこの二人はうまいですね。都さんは「ばかっちょ出船」がありますね。「涙の連絡船」の途中で「今夜も汽笛が汽笛が汽笛が」というところがありますね。これはジャズピアニストの山下洋輔さんがこれが歌謡曲の味だと言ってましたね。僕が思うに、漫画的ですね。だんだん吹き出しが大きくなるところとか。脚色の在り方がそういう感じがするんですよね。これはなかなかない形式ですよね。繰り返す歌ってありますよね。三橋美智也さんの「哀愁列車」にも「惚れて惚れて惚れていながら」って惚れてが3回入るっていう風に、3回入るパターンも流行歌にあるんです。青函連絡船の話をしましたけれども、「津軽海峡冬景色」も青函連絡船をテーマにして大ヒットの最後なんでしょうね。昭和63年に青函連絡船は終わってもうないですからね。だから、連絡船はもうテーマにはならないとそういう時代ですよね。

 今日の一曲目は何だったか覚えてますか。「オッペケペー節」がなんで都はるみになるんだというと、「上海だより」なんですね。「オッペケペー節」から「上海だより」で「波止場気質」というマドロスものにメロディーが転化していってだんだん変化していったということだったんですね。メロディーに思想があるわけではありませんから、のっかってる言葉がそういう思想的な背景を作るわけです。あとは楽器なんか小物でアレンジしてそういう雰囲気を出しているんですけれども、大きくは歌詞が違っちゃうと同じメロディーでも違ってしまうということになるわけです。

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