音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

アメリカン・ミュージックの系譜(11) ジャズとハーレム・ルネサンス

アメリカン・ミュージックの系譜第六回 講師は大和田俊之氏です。

 ニューヨークのシーンについて少しお話しすると、1920年代に入ってハーレム・ルネサンス(Harlem Renaissance)という運動が起こります。これはアフリカ系アメリカ人の文化に注目が集まって、黒人の作家であるとか、思想家であるとか、そういった人たちの作品がカルチャーの領域で非常に脚光を浴びます。このような黒人文化が脚光を浴びるというのは、ハーレム・ルネッサンスについては両義的な評価があって、デューク・エリントン(Duke Ellington)というアフリカ系アメリカ人のアメリカで最も偉大な音楽家だという人もいますが、ジャングルスタイルみたいな音楽を作っていくわけです。ジャズ的なフォーマットにのっとって、ジャングルミュージック、黒人であるデューク・エリントンがジャングルスタイルと言う音楽をわざと作っていくというのは、言ってみれば白人が持っている黒人のステレオタイプを自ら演じているわけですね。白人にとって黒人はある種野蛮で、野蛮であるがゆえにある種エキゾティックで、白人の理性的で洗練されたものではない魅力があるというステレオタイプを、アフリカ系アメリカ人の作曲家であるデューク・エリントンが自らそれにのって、あなたたちは私達をジャングルっぽいと思っているんでしょ、だったらジャングルミュージックをやりますよという風に演じている側面があるんですね。白人が持っている黒人に対するステレオタイプと、黒人自身がマジョリティーに対してそのステレオタイプを修正したり、ある時はそれを受け入れたりしながら、その間に黒人音楽という、半分真実で半分虚構のようなものが生まれるという、まさにそのプロセスとしてジャングルミュージック、デューク・エリントンのこの時期の音楽をとらえることができるのではないかと思います。デューク・エリントンのジャングルミュージックと言われるスタイルのその最初の曲の一つと言われていますけれども、East St. Louis Toodle-Ooという曲を聞いていただきます。



 管楽器の使い方にジャングルっぽさが現れているのが分かると思います。1920年代に、ニューヨークのハーレム・ルネッサンスの中で黒人文化に関心が集まっていって、だんだん1920年代、30年代と徐々に白人もこういう音楽に参入するようになってきて、1930年代半ばからスイング・ジャズという大人数の編成のビッグバンドのダンスミュージックが生まれてきます。

アメリカン・ミュージックの系譜(10) ジャズの誕生 

アメリカン・ミュージックの系譜第六回 講師は大和田俊之氏です。

1、意義

 ・20世紀のアメリカの生まれた音楽の中でも、ジャズという音楽ジャンルは特別だと思います。音楽ジャンルだけではなくて、他の隣接する文化や芸術にも影響を及ぼし合ったり、非常に20世紀半ばの文化の一つの重要なものとしてジャズをとらえることができると思います。アメリカ本国でもジャズ研究は進んでおります。

2、ジャズの誕生

 (1)、通説的な説明

  ・ジャズは19世紀末から20世紀初頭くらいにアメリカ南部のニューオリンズという町で生まれて、それが広がっていったという事が定説になっています。ニューオリンズという町は、スペイン領、フランス領とアングロサクソンではなくてラテン系の植民地であった時代が長くて、アメリカ南部の町ではちょと特異な制度を用いていました。基本的にアメリカ南部の他の町というのは、白人の主人がいて黒人の奴隷がいたという二層構造になっていたんですけれども、ニューオリンズではその間にクレオールと呼ばれる人たちがいて、三層構造になっていました。1861年から1865年の南北戦争があって北軍が勝ち、しばらく南部を支配します。この支配したときにニューオリンズだけ特別扱いをしませんでした。この時、ニューオリンズの真ん中のクレオールの人たちは、相対的に黒人扱いをされるようになってしまいます。南北戦争で名目的に黒人奴隷は解放されたにもかからわず、社会の中での位置づけは相対的に低くなってしまいます。これはアメリカ全体にワンドロップ・ルールといって、一滴でも黒人の血が流れていれば黒人扱いされるというのが、アメリカ南部の基本的なルールだったので、クレオールの人たちも混血だったので黒人扱いされるようになります。それまでクレオールの人たちは中産階級を形成していて、ヨーロッパ的な音楽教育であったり、そういったものを受けていた人も結構いたんですけれども、南北戦争後に相対的に階級が低くなってしまうことによって、そういった人たちの音楽活動が場末の飲み屋みたいな所にいくようになって、そこで西洋的な音楽的トレーニングをうけた人たちによるわりと土着的な音楽としてジャズが生まれた、というのが一般的なジャズ誕生のストーリーであり、日本語の本でもまだこのように書かれている本が多いと思います。

 (2)、通説に対する批判
 
  ・しかし、現在、アメリカのジャズ研究の進展を見ていると、ジャズ誕生の物語が少し危うくなってきています。多分これはこれで間違ってはいないんでしょうけれども、では何をもってジャズというのか、当時の人はまだジャズという言葉を使っていなかったわけですね。1910年代くらいまでジャズという言葉は出てこないので、何をもってジャズとするのかという問題があります。ちょっとシンコペーションがあるダンスミュージックととらえると、もちろんニューオリンズでそういうことがあったのは確かだけれども、ニューオリング以外でもそういった音楽は生まれていただろうともいえるわけで、ではニューオリンズのみを特別扱いする意味は何なのかということになります。歴史をどう見るかによって、ジャズ誕生の語り口が割と変化してくるわけです。つまり、アメリカの他の地域でも同じようなことが起きていたのではないのかということです。そして、その同じような事と言うのは簡単にいうと、既成の曲を崩して演奏するということですね。お酒が入るような場所での音楽実践ですので、客を楽しませるためにみんなが知っている曲をちょっと崩して演奏する、それをジャズとするのであれば、それはニューオリンズに限らなかっただろうという研究者も結構増えています。だから、何をもってジャズとするのかということから、なかなかジャズ誕生の物語が変わってきます。物の見方が問われていると言ってもいいかもしれません。

3、最初のジャズ録音

 ・ジャズに関して、最初のレコーディングと言われるものがあります。オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(Original Dixieland Jass Band)と言われる5人組の演奏です。1917年です。ニューオリンズ出身の若者達ですが、これはニューヨーク録音なんですね。ニューヨークのレストランで演奏している所をレコード会社の人間に目をつけられて、録音することになりました。これがジャズの最初の録音と言われています。Livery Stable Blues。



 Livery Stableだから厩ですね。途中で楽器を馬の鳴き声のようにやっている所があったと思うんですけれども、楽器でこんなことをやるので、観客を盛り上げる要素が強いんです。しかも、ダンスミュージックとしても機能するということで、今でいう最先端のダンスミュージックがクラブで流行っていてそういったものとしてこういった音楽はとらえられていました。クラシック音楽のようにきちんと楽器を演奏するというイメージを持つ人が多い中で、動物の鳴きまねをする、しかもよく聞くとテクニックはあるっぽいという若者達のダンスミュージックが、ニューヨークの小じゃれたレストランで演奏されているということで、これをレコード会社の人が目をつけて録音され、新しいものとしてニューヨークのリスナーを魅了したんだろうと思います。

4、ジャズの普及

 ・このジャズ最初の録音は1917年にレコーディングされているんですけれども、1917年というのは、第一次世界大戦にアメリカが参戦する年なんですね。参戦するとニューオリンズは軍港になります。軍港になると整備されて、ミュージシャン達はカンサスシティーやニューヨークにどんどん散らばっていくという風に語られます。ただし、最初の前提が崩れると、もともと地方にそういったミュージシャンはいたのではないのかという風に語り口が変わるかもしれませんが、とにかく1917年にニューオリンズの港が閉鎖されて、ミュージシャンが大都市に行きました。そして、それぞれの町でこういった音楽が広がっていくわけですね。だんだん編成も大きくなって、ビックバンドと呼ばれるような編成になっていって、デューク・エリントン(Duke Ellington)とか、カウント・ベイシー(Count Basie)とかそういった人たちのバンドが、ニューヨーク、カンサスシティー、シカゴといった町で流行していくわけですね。

アメリカン・ミュージックの系譜(9) アメリカ文化の到達点としてのティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、マイクロフォンの登場とのその影響

 (1)、マイクロフォンの登場

  1924年頃に、マイクロフォンが使われるようになります。これは決定的に重要なテクノロジーの進歩と言えると思います。歌唱法と言う意味では、マイクが入る以前は、ベルカント唱法を学んだ、基本的な声楽の訓練を受けた人たちのみがステージに立って歌いました。どちらかと言うと母音が強調されて子音があまり聞こえないというか、とにかく遠くまで声を届けなければならないので、そういった訓練を受けた人しかステージには上がれませんでした。しかし、マイクが出てくることによって、しゃべるように歌うことが可能となりました。クルーナー唱法と言いますが、簡単に言うと子音がよく聞こえるというか、普通に話すように歌うことが可能となりました。

 (2)、マイクロフォンの影響

  クルーナー唱法がアメリカの音楽業界の中で主流になってくるのは、ミュージカルの音楽的な構造にも影響を及ぼします。簡単に言うと、きちんとした訓練を受けていない歌手がどんどんステージに立てるようになるわけです。極端な話をすれば、ルックスがいいとか、チャーミングであるとか、歌はオペラ歌手に比べてそれほどうまくはないけれどもなんとなくステージ映えするとか、このようなことで成り立ってしまうわけです。商業主義ですので、お客さんが入って人気が出ればそれはそれでOKということになるわけです。アメリカは基本的にテクノロジーというものに抗わないというか、どんどん新しいテクノロジーをエンターテイメント業界で採用していって、もともとヨーロッパ起源であったりする文化の形がどんどん変わっていくことを良しとします。そうすると、ヨーロッパのオペラとアメリカのミュージカルですけれども、声楽的な訓練を受けていない人たちがステージに立って歌うようになるなると、一般的な傾向ですけれども、オペラが2オクターブや2オクターブ半くらいの声域を駆使して叙事詩的で壮大でダイナミックな曲を歌うというオペラ歌手に対応した音楽の構造があるとするならば、アメリカのミュージカルはそれほど訓練も受けていない、簡単に言うと声域も狭いシンガーが、細かい旋律の中で抒情詩的というか細かい感情の変化を割と得意とする文化として発展していきます。壮大な叙事詩的な物語が展開するというよりは、男女の恋愛の中で細かい感情の機微みたいなものがアメリカのミュージカルの中心的な特質になっていくわけです。

2、スクリューボール・ミュージカル(Screwball Musical)

 ハリウッドの方でもミュージカル映画というものが1930年代に一つのジャンルとしてどんどん発展していきます。この時代のフレッド・アステア(Fred Astaire)やジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers)とか、戦前のミュージカル映画の作品をご存知の方も多いと思いますけれども、ミュージカル映画は役者が演じているんだけれども突然歌い出すわけです。これは不自然ですが、この不自然さを正当化するために、楽曲の中に男女の関係性そのものを歌の中に盛り込んでいくということですね。スクリューボール・コメディ(Screwball comedy)という言い方がありますけれども、これはドタバタ喜劇という風に訳したりしますけれども、ドタバタ喜劇のドタバタの部分はセクシャルな行為の比喩になっているという解釈がありまして、映画なのでそれは見せられないので、男女のドタバタがメタファーになっているわけです。それと同じような解釈で、ミュージカル映画でスクリューボール・ミュージカルという言い方があって、歌の部分は実は男女のセクシャルな関係性のメタファーになっているんだという言い方をする人もいます。ティン・パン・アレーの代表的な作曲家としてアーヴィング・バーリン(Irving Berlin)という人がいますが、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演する「トップ・ハット(Top Hat)」という名作がありますけれども、その中からアーヴィング・バーリンの作曲でCheek to Cheekを聞いてください。



3、アメリカ文化の到達点としてのティン・パン・アレー

 ティン・パン・アレーの音楽を聴いて私が常々考えることは、ヨーロッパの歴史の中で育まれた文化なり芸術というものは、重厚さであったり深淵であったりそういった歴史の重みに裏付けられた属性があると思いますが、ティン・パン・アレーの音楽は圧倒的な軽さとそれに伴うエレガンスといっていいと思いますが、大量生産大量消費を前提とした商業主義のシステムの中で作られたのですが、これほどのエレガンスと洗練を作り出したのが、アメリカ文化の一つの到達点だろうなと思います。最後にこの時代のティン・パン・アレーを代表する曲で、2004年にアメリカン・フィルム・インスティチュート(American Film Institute)が、ハリウッド映画の中の主題歌でいい曲を100曲くらいランクングをしましたが、ハリウッド映画史上もっともいい曲だなとということで1位を獲得した、1939年の「オズの魔法使い」のテーマ曲となった、ジュディ・ガーランド(Judy Garland)のOver the Rainbowを聞いていただきたいと思います。


アメリカン・ミュージックの系譜(8) アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ(symphonic jazz)

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)とシンフォニックジャズ

 ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の代表的な作曲家、ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)。彼は、ポップソングだけではなくて、クラシック的なというかジャズ的なというか、もう少し長い曲も作曲しました。有名なのは1924年に初演されたRhapsody in Blueという曲です。ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)の楽団の演奏で、Rhapsody in Blue。



 演奏しているのはポール・ホワイトマン楽団です。今、ジャズファンでポール・ホワイトマンが好きという人をあまり聞かないんですけれども、当時は、最も評価が高いジャズミュージシャンの一人でした。ジャズというものがアフリカ系アメリカ人の土着的な音楽であるというイメージもまだ残っていたりしていたのですが、それをポール・ホワイトマンはシンフォニックジャズ(symphonic jazz)といって、ヨーロッパ風に当時の価値基準で言えば洗練させたわけです。つまり、アフリカ系アメリカ人の土着的な音楽だと、アメリカの中産階級には下品すぎるので、より格調高いジャズにするということで、シンフォニックジャズというものをやりました。簡単にいうと、ポール・ホワイトマンがジョージ・ガーシュウィンに、ジャズの要素を取り入れてオリジナルな音楽を作ってくれと発注したんですね。

2、アメリカ文化の自覚とシンフォニックジャズ

 1914年から1918年の第一次世界大戦があり、第一次世界大戦が終わって1920年代というのは、アメリカ合衆国が国際社会の中で非常に地位が上がってきました。19世紀まではアメリカ合衆国といっても、イギリスにちょっとついているおまけというと言いすぎですけれども、そんなに文化的に豊かな所だとも思われていないし、あまり教養とか歴史とかがないイメージが強いんですけれども、第一次世界大戦でヨーロッパは疲弊してしまいアメリカ合衆国に借金をするようになって、第一次世界大戦後に国際社会の中でもアメリカ合衆国が覇権を握っていきます。そうした中で、自分達の文化はなんであろうと国の中で問い直していきます。ヨーロッパ文化とは違うアメリカ文化とはどういうものなのだろうということで、ジャズとかブルースはヨーロッパにはないということで、しかしそのままではあまりにもヨーロッパが誇るクラシック音楽に太刀打ちできないので、アメリカならではの洗練のさせ方で、ヨーロッパにはないジャズやブルースをどういう風に世界にアピールしていくのかという機運が国の中にありました。例えば、文学においては、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の『白鯨』という小説がありますけれども、この作品はメルヴィルが生きている間はほとんど読まれなかったのですけれども、1920年代にメルヴィルリバイバルというメルヴィルの再評価運動が、文壇だけではなくて社会全体で起きます。その時に、アメリカにシャークルピアに匹敵する作家がいた、それがハーマン・メルヴィルであるとされました。それと同じ文脈で、ポール・ホワイトマンの意識としては、ヨーロッパに匹敵するような芸術音楽を、アメリカの音楽を使って作っていきたいということで、Rhapsody in Blueができたという経緯があります。

アメリカン・ミュージックの系譜(7) ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということ

アメリカン・ミュージックの系譜第五回 講師は大和田俊之氏です。

1、ミンストレル・ショー(minstrel show)

 (1)、意義

  ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)では、大量生産、大量消費の音楽が作られて、この音楽は、ブロードウェイのミュージカルやハリウッドの映画に供給されていました。ここで、アメリカの舞台文化として、19世紀のミンストレル・ショー(minstrel show)についてお話をします。19世紀のステージの娯楽の一つとして、アメリカ最初の興行的なエンターテイメントと言われているのですが、ミンストレル・ショーと呼ばれるものがあります。この中で非常にヒットした出し物が、ブラック・フェイスという白人の芸人が顔を黒塗りにして、黒人の真似を面白おかしく笑いをとるもショーでした。現在の基準でいうと大変に差別的な芸能といってよいと思いますが、これが19世紀のアメリカでものすごくヒットをしました。このブラック・フェイスの芸はアメリカでは1940年代から1950年代まで続いていたもので、公民権運動で指導者達がこのような差別的な芸能は許されないと批判を繰り広げて、ブラック・フェイスはエンターテイメント業界からなくなりました。この白人が黒人の真似をするという構造が、19世紀末に音楽産業が発展する中で、音楽産業にも応用されていきます。

 (2)、具体例

  具体的にいうと、アメリカの音楽産業を作曲面や作詞面で支えた多くの作曲家作詞家がユダヤ人だったわけですね。彼らの才能によって多くの名曲が作られていくのですけれども、彼らはジャズとかラグタイムとか一般的には黒人音楽だと思われている曲を作曲したわけですね。よって、一般的な黒人音楽のイメージは、多くの場合ユダヤ人の作曲家が作りヒットさせたものが非常に多いというケースがあります。ティン・パン・アレーの代表的な作曲家で、ティン・パン・アレーの大量生産、大量消費のシステムには収まりきらない、後にはクラシック的な曲も多く作曲したジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin)ですが、彼が1919年に作曲したSwaneeという曲があります。まずは、Al Jolsonが歌うSwaneeを聞いていただこうと思います。



 この曲は、作曲家ジョージ・ガーシュウィンの出世作といっていいと思います。Swaneeというのはスワニー川といって、アメリカ南部のジョージア州とフロリダ州にまたがって流れている川です。そして、この曲の語り手はアフリカ系アメリカ人が想定されています。ジョージア州やフロリダ州といった南部から出てきて、故郷の川の事を懐かしく思い出しているアフリカ系アメリカ人という設定なんです。19世紀のスティーブン・フォスター(Stephen Foster)という作曲家が書いたSwanee River、邦題は故郷の人々という曲があります。スティーブン・フォスターというのは、Oh, SusannaとかCamptown Racesとかの作曲者で、19世紀に活躍したアメリカを代表する、「アメリカ音楽の父」と呼ばれる作曲家です。彼は、ミンストレル・ショーの座付き作曲家として活躍していた人なんですね。よって、スティーブン・フォスターの曲ももともとは語り手は黒人が想定されているわけです。それを踏まえて、ジョージ・ガーシュウィンはフォスターの曲を、本歌取り的なパロディーとして、Swaneeという曲を作りました。また、歌っているAl Jolsonとういう人も、当時を代表する歌手で、ブラック・フェイスを得意とする人でした。1927年の「ジャズ・シンガー(The Jazz Singer)」というアメリカで最初のトーキー映画がありますけれども、その中でも顔を黒塗りにしてステージに立つとう役を演じています。だから、このSwaneeという曲は、白人の芸人が黒人のふりをして語るということが前提とされている曲なんですね。

2、ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということの意味

 この、白人というかユダヤ人が黒人のふりをするという構造については、アメリカで面白い研究がなされておりまして、ある研究によりますと、ここにどういうアメリカの人種の構造が現れているかというと、ユダヤ人の作曲家が「黒人」の音楽をやるということは、ユダヤ人が差別されている構造を隠して、相対的にユダヤ人が白人としての地位を獲得するというようなことを述べております。つまり、当時アメリカ合衆国に移民してきたユダヤ人にとっての、相対的な階級上昇の一つの可能性として、ユダヤ人作曲家が「黒人」音楽をやると解釈できるという研究があります。これは非常に象徴的な事例なので、実証的にそうであったという研究ではないのですけれども、ミンストレル・ショーの中にユダヤ人が参入することによって、どういう人種をめぐるダイナミズムみたいなものがアメリカで変化してきたのかということを解釈するのに、非常に面白い研究だと思います。
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