ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

アメリカン・ミュージックの系譜(28) インターネットと音楽業界

アメリカン・ミュージックの系譜第十三回 講師は大和田俊之氏です。

1、意義

 ・1990年代以降の、インターネットが音楽業界全体に影響を及ぼしていて、あらゆる領域でドラスティックな変化を起こしました。そのことによって、アーティストサイド、作曲家サイド、リスナーのそれぞれの陣営が影響を被り、変化しながら音楽業界は発展していっています。

2、ストリーミングサービスと音楽業界

 (1)、意義

  ・1990年代半ばからインターネットが始まり、現在はストリーミングサービスが浸透をしてきています。

 (2)、ダウンロードの時代

  ・インターネットで出て来た時に、最初はダウンロードになるわけです。ダウンロードというのはiTunesとかのサイトがあって、そこで一曲単位あるいはアルバム単位で買うわけです。それはCDやレコードはないんですけれども、自分のPCの中に楽曲が入ってきて対価を払いわけです。

 (3)、ストリーミングの時代

  ①、意義

   ・近年はさらにストリーミングサービスというものがでてきました。SpotifyとかApple Musicとかのストリーミングサービスは、音楽のデータベースがあって、月々1000円とかを払うとこの音楽のデーターベースを聞くことができるわけです。つまり、ストリーミングサービスは音楽を売っているのではなくて、音楽にアクセスする権利を売っているわけです。これはものすごく大きな変化で、我々は従来はアルバムとか作品単位で対価を払っていたわけですけれども、今はそうではなくて、音楽があってその音楽のドアを開けるためにお金を払っているわけです。このシステムが少なくとも欧米では主流になっているわけです。

  ②、問題点

   ・テイラー・スウィフトがSpotifyから引きあげるという事件が起きました。この報道がされた時、多くのミュージシャンはもうストリーミングは成り立たない、数万回再生されたのに入ってくるお金は数十ドルであるとコメントを出しました。これだと、ミュージシャンは全く生活ができないわけです。

  ③、ストリーミング時代の成立

   ・ところが、ストリーミングサービスは有料会員が増えれば増えるほど取り分がどんどん増えていくわけです。だから、今のところはパイはどんどん大きくなっていくわけです。そして、ここ2年間ですけれども、アメリカの音楽業界はかなり利益を出し始めてきました。2年連続の成長というニュースがかけめぐりましたけれども、これは1999年以来なんですね。明らかにストリーミングサービスが、アメリカの音楽業界に確実な利益を出し始めているわけです。1990年代半ばにインターネットが始まるわけですから、見方によっては20年かけてアメリカ音楽業界は再編を成し遂げたといってもいいのかもしれません。かつて、新しいメディアとしてラジオが台頭してきた時、やはり10年20年かけて、アーティスト、作曲家、実演家、リスナーが三つ巴になって、プレイヤーがどんどん失業をしたり、シンガー、コンポーザー、リスナーがそれぞれ変化を強いられるわけです。そして、最終的に再編した後に利益を出していくわけです。もしかすると1995年から20年くらいたって、ストリーミングサービスが定着することによって、インターネット以降の音楽業界が再編したという風になるのかもしれません。

3、ビルボードとインターネット

 (1)、時代に合わせて変化するビルボードチャート

  ①、1991年以前のビルボードチャート

   ・ビルボードのチャートは時代に合わせて変化させていますが、1991年に非常に大きな変化があったと言われています。これまでどういう風にランキングを決めていたのかというと、レコード店の売り上げとラジオ局のエアプレイ数をもとに作成していました。しかし、レコード店の売り上げもラジオ局のエアプレイ数もみな嘘をついていたということがあって、正確なランキングには程遠かったわけです。

  ②、1991年以降のビルボードチャート

   ・1991年にPOSシステムが導入されて、デジタルに本部に報告されるようになりました。これによってチャートは大幅に変化します。簡単に言うと、ヒップホップとカントリーのジャンルとしてのランキングが大幅に上昇して、ロックミュージックが下がりました。これは、白人の男性中心の音楽業界の関心が、都心のアフリカ系アメリカ人、あるいは南部白人の趣味嗜好をきちんと把握できていなかったわけです。つまり、なんとなくみんなロックが好きなんだろうということでランキングを作っていたけれども、きっちりと数字を出すようにしたら、ヒップホップとカントリーがものすごく人気であったということが分かったということが、よくビルボードの歴史の中で語られる逸話です。

 (2)、インターネット時代のビルボード

  ①、意義

   ・1990年代半ばからインターネットが始まり、現在はストリーミングサービスが浸透をしてきています。ビルボードもこのストリーミングサービスができてきて、対応を迫られました。というか、今対応をしている最中なんです。

  ②、Youtubeの再生回数

   ・ビルボードのチャートは、最も売れている曲のチャートではなくて、最もヒットした曲のチャートなんです。ビルボードは売れていることよりもヒットしていることにずっとこだわってきていて、だからこそ2013年バウアー(Baauer)という人のHarlem Shakeといって、主にYoutube上でちょっとした短いリズムに合わせてみんなが踊り、その踊った映像をYoutube上にアップロードするということが大流行したわけですね。曲というよりは、感染性のある流行ですね。この時にビルボードは、Youtubeの再生回数をカウントするかどうかを話し合いました。結果的にカウントするということにしたんですね。しかも、バウアーのオリジナルのビデオだけではなくてその曲が使われているすべてのミーム(meme)をすべてカウントするということで、2013年の年間チャートにはこの曲が入ってきました。ビルボードの言い分としては、元の曲がCDとして売れたりダウンロードされたりすることはなかったかもしれないけれども、しかし2013年にこの曲はありとあらゆる所で流れ続けていたわけですね。つまり、ヒットしたという曲をビルボードは常に注目しているわけです。

  ③、ストリーミングサービス

   ・ストリーミングサービスが出て来た時も、何回再生されたらCDが1枚売れた事と同じことにするのかということを計算しているわけです。常に音楽業界の変化に対応してきているチャートだなと思います。

4、音源からライブで稼ぐ時代へ

 (1)、チャンス・ザ・ラッパー(Chance The Rapper)の試み

  ①、意義

   ・ヒップホップの中にチャンス・ザ・ラッパー(Chance The Rapper)というアーティストがいます。CDというフィジカルを売らないことはすでにいろいろな人がやっているのですが、彼は音楽を売らないんですね。タダでネット上で配っているというか、ストリーミングで欲しい人が聞いてくれということで、アルバムを作成しました。このアルバムももう完全に普通に売っていてもいいくらいのクオリティーで、ビヨンセ(Beyonce)とかメジャー級の人がどんどん出ていて、アルバムをタダでネット上に置いているわけです。

  ②、チャンス・ザ・ラッパーの考え

   ・チャンス・ザ・ラッパーがどういう風に言っているのかというと、もう音楽はライブで収入を得る時代であると。アルバムはネットに置いて、これを聞いた人が自分のライブに来てもらって、ライブで収入を得て、ライブ会場でTシャツなどの関連グッツを売ってこれからのミュージシャンは生活をするんだということを宣言しています。

 (2)、グラミー賞

  ・この作品は大ヒットしたのですが、アルバムとして売られているわけではないので、グラミー賞でノミネートするかで大きな話題になりましたが、ノミネートされました。結局、チャンス・ザ・ラッパーは結局グラミー賞7部門にノミネートされて最優秀新人賞、最優秀ラップ・アルバム賞、優秀ラップ・パフォーマンス賞を受賞しました。最後にこのアルバムから一曲聞いていただきたいと思います。No Problem。



  チャンス・ザ・ラッパーのようなアーティストも出てきていて、それがグラミー賞という伝統的な賞の中でも評価されてゆくということですね。

アメリカン・ミュージックの系譜(27) アジア系ミュージシャンとアメリカ

アメリカン・ミュージックの系譜第十三回 講師は大和田俊之氏です。

1、アジア系アメリカ人

 ・アメリカにおけるアジア系のミュージシャンのお話をします。2000年のアメリカの国勢調査で、アジア系の人たちは3.6%だったのが、2010年には4.8%になりました。割合としてはまだ少ないんですが、伸び率は一番高いわけです。

2、アジア系の可視化

 (1)、意義

  ・アメリカのドラマや映画が好きでずっと見ている人ははっきりと分かると思うんですけれども、1990年代以降、アメリカのテレビドラマの群像劇だと必ずアジア系の枠が一人いるんですね。二人組の刑事が活躍する映画は結構あったと思いますが、いままでは白人の警官と黒人の警官の二人がいろいろドタバタとやるというのが多かったんですけれども、だんだんヒスパニックの役であるとかアジア系の役が必ずドラマの中に用意されています。gleeという高校の合唱部を舞台とした大人気ドラマがありますが、途中からゲイの男の子が主人公になっていって、それがちょうどオバマ大統領が同性婚を支持した2012年くらいですが、このドラマにもアジア系の男の子と女の子が一人ずついました。それ以前は、例えばブルース・リー(Bruce Lee)みたいなカンフーのステレオタイプで、アジア系がいたりしました。それがだんだんアジア系の可視化という言い方をしますけれども、アメリカのテレビや映画にアジア系の俳優がなんとなく普通の役として登場するようになってきました。1980年代くらいまでは、アメリカのアジア系の若者が学校が終わった後に誰かの家に集まってテレビを見ている時に、アジア系を探せゲームみたいなものが流行っていたということが割と大きな新聞の記事に書いてあったんですけれども、テレビの中にアジア系が出て来たら、誰がそれに気づくのかというそのくらいに、アジア系はテレビの中に存在しませんでした。それが1990年代以降にアジア系の可視化、多文化主義の浸透などさまざまな中で、アジア系もどんどんテレビや映画の中に見えるようになってきました。

 (2)、PSYとピコ太郎

  ①、PSY

   ア)、意義

    ・そういった流れの中で、2012年に韓国人のPSYのGangnam Styleと言う曲が大ヒットしました。ちょっと聞いていただきましょう。



    この曲の流れにピコ太郎のヒットは位置付けるべきだと私は思っています。PSYのこの曲は、最終的にビルボードの1位にはなりませんでしたが、2位に長い間いて、総合チャートの2位は大変なことですけれども、坂本九の上を向いて歩こうの1963年以来、半世紀ぶりのアジア系というかPSYは韓国人ですけれども、アジアの人がビルボードの総合チャートの上位に入ってきたというわけです。

   イ)、PSYはなぜヒットしたのか

    ・この曲がヒットした理由として考えれることは、まず当時のダンスミュージックのフォーマットであるEDMに非常に合っていることがあります。もう一つは、アメリカのテレビとかをチェックしていると、完全にPSYが乗馬ダンスといって馬にのるような踊りを踊っていたんですね。この乗馬ダンスがダンスの振り付けとともにアメリカでものすごく流行していました。ダンスのステップとともに、ちょっとノベルティっぽい曲がヒットするというのは結構アメリカに歴史があって、その系譜のなかに位置付けられると思います。あとは、これが坂本九と決定的に違うことだと思いますが、PSYが完全にキャラクターになってPSYの見てくれとアニメみたいなキャラクターでネット上に広がっていったわけですね。このキャラクターになるということは、ある意味マイノリティーのステレオタイプ化といってもいいと思うんですけれども、ステレオタイプ化されるということは逆に言うと、無視されるよりも存在が認められているということです。アジア系のステレオタイプはもともと20世紀初頭からアメリカ合衆国にはあって、フー・マンチュー博士(Dr.Fu Manchu)とか悪いアジア人のキャラクターとか、いいアジア人のキャラクターみたいなものは、映画などにあるのはあったんですけれども、完全にアジア系のキャラクターとしてPSYがカルチャーのシーンで流通していたことは、非常に大きな変化だと思います。

  ②、ピコ太郎

   ・ピコ太郎もビルボードの総合チャートで77位まであがったんですが、やはり同じような文脈でヒットしたと言っていいと思います。振り付け、キャラ化、使ってる機材も向こうと同じで音の共通性といった中からヒットしたということですね。PPAP。



    この曲はジャスティン・ビーバーがネット上で拡散したこともあって向こうで広まったというのもあります。このようにPSYに続いてどんどんアジア系の人たちがビルボードのチャートの上位に入ってくるようになりました。まずは、キャラ化、ステレオタイプ化されていくなかでどんどん面白がられていくわけですけれども、こういうキャラクターが上位にくることもなかったわけで、これは明らかに1990年代以降のアジア系の可視化の流れの中で出て来たことだといっていいと思います。

 (3)、ブルーノ・マーズ(Bruno Mars)

  ・PSYとかピコ太郎はどちらかというとノベルティ色が強い曲なんですけれども、アメリカの最大のスターといってもいいブルーノ・マーズも、お父さんはプエルトリコ系のユダヤ人、お母さんはフィリピン人で、アジア系なんですね。だから、フィリピン系のアメリカ人といっていいと思います。一般的にはブルーノ・マーズがアジア系であることは意識されていないかもしれませんが、アジア系最大のスターということで、彼のデビュー曲を聞いていただきます。Just the Way You Are。


アメリカン・ミュージックの系譜(26) アメリカの音楽史をラテン音楽の視点で見る

アメリカン・ミュージックの系譜第十二回 講師は大和田俊之氏です。 

1、意義

 ・アフリカ系アメリカ人以外のマイノリティーの音楽として、ラテン音楽についてお話します。ラテン音楽とは中南米の音楽で、それがアメリカ合衆国に入ってきて流行するということです。

2、ラテン音楽が席捲した2016年

 (1)、ビルボード総合チャート

  ・2016年のビルボードの総合チャートの2位3位4位がだいたいジャマイカを発祥とするダンスホールレゲエのリズムになっています。そういう意味で、2016年はジャマイカの音楽がアメリカの総合チャートを独占した年でした。

 (2)、ラテンチャート

  ・総合チャート以外にビルボードにはラテンチャートというものがあります。アメリカ合衆国の中でのラテン音楽のランキングです。そのランキングで1位をとったのがニッキー・ジャム(Nicky Jam)で、一般的にはレゲトンと言われるジャンルのアーティストです。Hasta el Amanecerという曲を聞いていただこうと思います。



  この曲のYoutubeの再生回数が10億回を越えているんです。ビルボードの総合チャートの1位だったジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)の曲とほとんど同じくらいなんですね。これはアメリカ合衆国で流行したチャートの1位の曲なんですけれども、だいたいラテンチャートで1位になるということは、スペイン語圏でヒットした曲ということになっていて、そうなると中南米と北米の中のヒスパニック、ラティーノのコミュニティーで流行したということです。つまり、地球の3分の1か4分の1の地域でこの曲が大ヒットしていたということです。

3、アメリカ最大のマイノリティーとなったヒスパニック

 (1)、意義

  ・ラテン音楽がアメリカの音楽界を席巻している理由は、アメリカでヒスパニック、ラティーノの人口がどんどん増えているからです。

 (2)、2000年国勢調査

  ・アメリカ合衆国は10年に一度大々的な国勢調査を行いますが、その時に人種は自己申告なんです。自分はアフリカ系のアイデンティティーであるとか、自分はヒスパニックのアイデンティティーであるとか、自分はアジア系であるのか、記入する欄があるわけです。2000年の国勢調査で、ヒスパニックが12.5%、アフリカ系が12.3%と、アメリカ最大のマイノリティーがアフリカ系ではなくてヒスパニック系になり、これは非常に大きなニュースになりました。注意しなければならないことは、ヒスパニックで白人というアイデンティティーを持っている人もいるし、ヒスパニックで黒人というアイデンティティーを持っている人もいます。だから、この12.5と12.3という数字は本当は比較ができないわけですが、そうであっても、初めてヒスパニックの数字が超えたということは大きな衝撃をもって受け止められました。

 (3)、2010年国勢調査

  ・では、2010年にはどうなったのかというと、さらに差が開いて、ヒスパニックが16.3%、アフリカ系は12.6%ということで、だいぶヒスパニックの人たちが増えました。だから、今回のトランプの当選というのは、急激にマイノリティーが増えてくる事に対する白人のある種の恐怖心が、トランプへの投票を促したという言説もでております。

 (4)、2060年の予想

  ・ある予測によると、2060年のアメリカ合衆国におけるヒスパニック、ラティーノの人口の割合が、28.6%になるというものもあります。こうなるともう4人の1人がヒスパニックということになります。これが現実に実現したら、アメリカ合衆国は私達が知っている国とは全然違う国になる、今でも場所によってはメキシコ系が8割から9割でもうスペイン語しか通用しないような地域もありますが、そういうような形でアメリカの中でのヒスパニックの人たちの存在感がどんどん高まっているということがあります。

4、アメリカの音楽史をラテン音楽の視点で見る

 (1)、意義

  ・ヒスパニック系の人口が増えると、私がこれまでアメリカの歴史で起こってきたことを参照する限り、さまざまな分野で歴史の書替えが進むだろうということが予測できます。公民権運動があって、それにちょっと遅れる形で1960年代1970年代にフェミニズム運動がおきますけれども、公民権運動とフェミニズム運動を経た後にアメリカ合衆国で何が起きたのかというと、歴史の教科書がどんどん書き替えられていきました。これまでは白人中心の、イギリスの清教徒がメイフラワー号でという話から始まる教科書があるとすれば、それがアメリカの先住民の話から始まるようになりました。また、これまで歴史教科書にあまり書かれてこなかった女性の記述も増えました。さらに、アフリカ系の人たちの記述もどんどん増えていきました。これまでは、黒人奴隷と白人の主人は結構いい関係を結んでいたみたいなストーリーが書かれた時代もありましたが、そうではなくて白人が黒人奴隷にどれほど残虐なことをしていたのかという記述がかなりの割合を占めるようになってきました。公民権運動やフェミニズム運動の運動の成果として、歴史そのものが書き替えられていきます。もちろん歴史が買い替えられるときに、実証性に耐えられるのかということは検証されるわけですね。そして、歴史の教科書が多文化主義的に変わっていきました。それを鑑みると、今後はアメリカの音楽文化史が書き替えられていくとすると、さまざまな形でヒスパニック、ラティーノの貢献をより強調する形の歴史に書き替えられていくだろうということが、一つ予測できることです。一般のアメリカの音楽史というものは、白人のルーツミュージックとしてのカントリーと黒人のブルースであったりR&Bであったりゴスペルであったりと、白人と黒人の二項対立的な対立の中で歴史が記述されてきました。そこに、あらゆる段階でヒスパニックの人たちの貢献を強調する形の歴史に書き替えられていくであろうと思われます。この視点でアメリカの音楽史をみていきましょう。

 (2)、アメリカの音楽史をラテン音楽の視点で見る

  ①、19世紀

   ・アメリカ合衆国では前世紀から一貫してラテン音楽が入ってきています。とりわけ重要なのはニューオリンズです。ニューオリンズはフランスとスペイン領を繰り返してきたわけで、ニューオリンズという港町にカリブ海の音楽の影響が入ってきていました。19世紀にはルイス・モロー・ゴットシャルク(Louis Moreau Gottschalk)という人が、カリブ海の音楽を自ら取り入れたということがあります。

  ②、タンゴ

   ・1910年代にティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)にアルゼンチンのタンゴがパリ経由で入ってきました。これは一大ブームになったそうで、ニューヨークに社交ダンスの文脈でタンゴが大流行します。もうニューヨークに限らず、アメリカの小さな田舎の町にもタンゴの社交ダンスを習うような教室が、アメリカの至る所で開かれていました。1930年代のフレッド・アステア(Fred Astaire)の映画で1910年代のタンゴブームを描いた映画がありましたけれども、そういった形で南米の音楽がすでにアメリカで大流行したということなんですね。

  ③、ルンバ

   ・1930年代に入ると、キューバのルンバが入ってきます。これはアメリカ経由で日本でも大流行している音楽なんですね。1930年代のルンバの大流行というのは、ドン・アスピアス楽団によるThe Peanut Vendor、南京豆売りで知られていますけれども、この曲がアメリカで大ヒットしました。この曲を聞いていただきたいと思います。



   ルンバがアメリカに入ってきて、ジャズのミュージシャンがこういったリズムで演奏したりしてラテンジャズというサブジャンルがありますが、これもジャズの中で例外的な位置づけというよりは、大きなラテン音楽の流入の中で混ざり合った形で出来てきていると捉えると、音楽文化史が別に見えてくると思います。

  ④、マンボ

   ・1950年代は世界的にマンボが流行します。ペレス・プラード(Perez Prado)のCerezo Rosaは世界的なヒットとなります。



  ⑤、ボサノバ

   ・1950年代1960年代にはボサノバというブラジルの音楽が入ってきて、ジャズミュージシャンと交流をします。

  ⑥、サルサ

   ・サルサも中南米の音楽というイメージがあるかもしれませんけれども、モダンサルサと言われる音楽は、ニューヨークのスペイン語圏のコミュニティーの中で生まれたといって差支えないと思います。ファニア・レコード(Fania Records)というレコードレーベルがニューヨークにあったんですけれども、ここが中心となってサルサのミュージシャンをたくさん輩出し、スペイン語でアルバムを作って、北米というよりはスペイン語圏に流通していきました。

  ⑦、まとめ

   ・ゴットシャルクの頃からでもいいですし、20世紀初頭にタンゴが入ってきて、ルンバがあって、マンボがあって、ボサノバがあって、サルサがあってと、中南米から北米に一貫して流れてくる音楽をむしろ中心にしていくというか、アメリカ合衆国という国の枠組みではなくて、南北アメリカ大陸の中で音楽がどのように動いて、どのように影響を相互に与えて来たのかと言う風に、フレームワークを広げることによって、全然違う歴史が見えてくると思います。

5、ラテン音楽によるアメリカ音楽への影響

 (1)ブルース

  ・ブルースという音楽ジャンルがありますが、一般的には19世紀末のアメリカ南部の黒人コミュニティーの中で生まれた音楽であると言われています。しかし、実証的なレベルでブルース音楽におけるラテン性という学術論文が結構出始めております。19世紀南部にアメリカ南部のアフリカ系アメリカ人が国境を越えてメキシコに行って、そこにコミュニティーを作ったということはよく知られております。もちろん奴隷制ですから、奴隷制を逃れるために国境を越えてメキシコに行くということは十分考えられるわけです。メキシコというのは弦楽器が非常にたくさんあります。そうすると、そういう所でメキシコのミュージシャンと交流したアフリカ系アメリカ人のミュージシャンが、もう一回国境を戻って、ニューオリンズなどのアメリカ南部の地域でブルースなどの音楽を作っていったと、かなり実証的に追うような研究が出てきています。そうすると、ブルースというと私たちは黒人のというか、アフリカ系アメリカ人の音楽という印象を持っていますけれども、ブルースにおけるラテン性ということは十分に言えると、実証的なレベルで歴史学の蓄積として言えてくるだろうと思います。これはもちろんジャズにおいてもそうですし、主にアメリカ合衆国の黒人音楽と呼ばれているもののラテン性というものは、これからあらゆる角度で検証されてゆくだろうと思います。

 (2)、ロックンロール

  ・一般的にロックンロールという音楽は白人のカントリーミュージックと黒人のR&Bが1950年代になってアメリカの南部で融合した結果誕生したと言われています。そして、一つのシンボリックな曲として語られているのが、1955年のビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ(Bill Haley And His Comets)のRock Around the Clockです。



  しかし、この曲は1955年に二番目にヒットした曲で、1955年の最大のヒット曲はペレス・プラード(Perez Prado)のCerezo Rosaなんです。でも、この曲はほとんどロックンロールの文脈で語られません。ところが、19世紀から20世紀にかけて一貫して南米から北米に音楽が流れていって、そこで多少大げさにいうと、ラテン音楽の一つのバリエーションとしてロックンロールが1955年に誕生したと見ることは歴史的に可能かどうか、歴史の実証性に耐えうるかの思考実験ですね。ロックンロールのリズムとしてボ・ディドリー(Bo Diddley)のボ・ディドリー・ビートがあります。



  これは基本的には中南米のクラーベ(clave)と呼ばれるビートとほとんど同じなんです。非常にシンプルな譜割りの音楽なので、これをもってラテン音楽だとそういうことを言いたいのではなくて、このラテン音楽が北米に流れていく系譜の中でロックンロールをとらえる、ロックンロールという音楽が誕生するのに、白人のカントリーと黒人のR&Bだけではなくてラテン音楽もロックンロールの成立に影響を及ぼしているというくらいには、アメリカでは歴史は書き替えられております。そういう風になると、白人と黒人の相互作用の中からアメリカのポピュラー音楽をとらえるのではなく、白と黒ともう一つ茶色、ヒスパニック、ラティーノの人たちの功績を、どれだけ歴史の実証性に耐えられる形で歴史記述の中に織り込んでいくのかということが、これからのアメリカの音楽の文化史の中で非常に重要な作業になってくると思います。最後に、ビル・ヘイリーのRock Around the Clockの一枚前のシングルは、実はMambo Rockなんですね。だから、もう少しするとロックンロールの誕生はRock Around the Clockではなくて、Mambo Rockこそが1955年のアメリカのロックンロールの誕生を象徴する曲としてもしかすると教科書に載ってるかもしれません。



アメリカン・ミュージックの系譜(25) ポストモダンとしてのヒップホップ

アメリカン・ミュージックの系譜第十一回 講師は大和田俊之氏です。 

1、サンプリングの発生

 ・ヒップホップ誕生当初のビートの作り方は、ある楽曲のリズムブレイクの部分を取り出して反復させて、両側のAメロとかサビみたいな所を切ってしまうといって方法で行いました。しかし、サンプラーという機材の出現によって、だんだんリズムブレイクの部分だけではなくて、1960年代でも1970年代でもいいんですけれども、昔の楽曲のどこかを抜いて、それを反復させてビートを作っていくという風になっていきます。そして、こういったことをDJの人たちがみんな競ってやるようになります。そうすると、DJにとってのもともと存在する楽曲はどういうものとしてとらえられるのかというと、たとえとしては鉱脈ですよね。この楽曲のどこかを抜いて反復させるとかっこよく新しいビートができる、もっと言うとこの一小節とこの一小節を抜いてつなげて、あるいは逆につなげてビートを作ったりとか、元の楽曲を素材として別の楽曲を作っていくということがだんだん行われていくようになります。

2、ポストモダンとしてのヒップホップ

 (1)、意義

  ・ポストモダンという思想は、日本だと1980年代とか1990年代に建築とか思想の分野でよく言われました。ポストモダン建築はいろいろな時代の要素をごちゃごちゃに組み合わせて作ったものですが、とは言ってもそれは新しく一から作らなければいけないわけですが、ヒップホップは元ある曲をそのままサンプリングしてきて作るわけなので、今思うとヒップホップ以上にポストモダンを体現していたものはないと言えると思います。

 (2)、具体例

  ・今からギャング・スター(Gang Starr)という二人組のMass Appealという曲を聞いていただきます。この曲のトラックの部分がどうやってできているのかというと、Vic Jurisというジャズミュージシャンのあまり知られていないアルバムなんですが、ジャズですから曲があってテーマを弾いた後にギターがずっとソロを弾いて、その後にエレクトリックピアノのソロが始まります。ヒップホップのトラックを作る人のことをプロデューサーと言いますが、このプロデューサーがDJ Premierという人なのですが、どこを抜いたのかというと、ギターソロが終わってエレクトリックピアノが始まったその数音の所を抜いて、ループさせて反復させて、それにビートを加えて曲を作ったんですね。この曲のピアノがずっと繰り返されるフレーズは、Vic Jurisと言う人のアルバムのエレクトリックピアノのソロの最初の数音だということをイメージしながら聞いてみたください。Mass Appeal。



  ドラムの部分は後でプロデューサーが自分で付け加えているわけですけれども、ピアノのフレーズは実際に1979年にリリースされたVic Jurisというジャズミュージシャンのアルバムの一曲目のごく一部なんです。

 (3)、ポストモダンとしてのヒップホップ

  ①、意義

   ・ここで一つの大きな問題が生じます。もし、ギャング・スターのMass Appealがたくさん売れたとして、誰に印税を支払うべきでしょうか。この曲はVic Jurisと言うジャズミュージシャンのアルバムに収録されていますが、しかしエレクトリックピアノを弾いているのはVic Jurisではない人です。この曲が売れた時に、誰に、どのような配分で印税を支払うべきでしょうか。つまり何が問題となっているのかというと、近代的な著作権の概念そのものがヒップホップという音楽実践を想定していないわけです。最近はサンプリングはあまり主流ではなくなってきているんですけれども、この問題はいまでも解決されているわけではなくて、その都度その都度払っているわけですね。

  ②、近代的著作権が想定している創作

   ・近代的な著作権が想定している単一の作者が内面から沸き起こってくる創作みたいなものが作品に投影されて、それが商品となって流通して、売れた場合にその人に報酬が入るというシステムです。しかし、ヒップホップの誕生によって、それとはちょっと違う創作システムがここで誕生したわけです。

  ③、ポストモダンとしてのヒップホップ

   ・近代的著作権が想定している創作ではなく新しい創作とは、もともとある創作物をサンプリングして、別の創作物にしていくわけです。昔の作品を模倣するというのはどの文化にも昔からあったことですが、これだけ大々的に行われているケースは珍しいわけです。ロックなんかはあるアーティストが内面から湧き上がってくる気持ちみたいなものを楽器にぶつけて、その結果できた曲があって、その曲をみんなに聞いてもらうという、その内面に創作のリソースがあるとする創作のモデルがあるとするならば、ヒップホップというのは広大なレコードの中からどこを使おうというように、データベースに検索をかけていくというイメージなんですよね。内面ではなく外部に創作のリソースがあって、これは使える、これは使えないという形でどんどん作っていくというモデルなわけです。そういう意味では、ロックまでは近代的なモデルであったものが、ポストモダンという言い方をしましたけれども、新しい創作のモデルが1970年代のアメリカ、黒人音楽のジャンルで誕生してきたわけです。

アメリカン・ミュージックの系譜(24) ヒップホップの成立

アメリカン・ミュージックの系譜第十一回 講師は大和田俊之氏です。 

1、意義

 ・年配の音楽ファンの中には、非常に熱心な黒人音楽のファンなのに、ヒップホップについてはよくわからないという方が割と多いのではないかと経験的に思っています。ヒップホップの一般的なイメージは、ギャングで、怖そうという先入観があるかと思うんですけれども、今回はヒップホップという音楽ジャンルが持っている非常にクリエイティブな側面についてお話したいと思います。

2、ヒップホップ成立の前提条件、シンセサイザーの普及

 (1)、意義

  ・ヒップホップという音楽ジャンルが成立するためにはいくつか条件が揃う必要があるんですけれども、その一つはシンセサイザーが音楽業界に導入されたということです。ジェームス・ブラウン(James Brown)は生楽器で演奏をしているわけですけれども、ヒップホップは電子的は楽器の反復的なビートというものがまず必要であります。

 (2)、影響を及ぼしたバンド

  ・ドイツのクラフトワーク(Kraftwerk)というバンドであったり、イタリア人のジョルジオ・モロダー(Giorgio Moroder)というプロデューサーであったり、そういった人たちがいろいろな実験をしていました。ここに日本のグループYMOも入ってきます。世界のポピュラー音楽史がもし書かれるとしたら、日本のミュージシャンで入ってくるのはもしかしたらYMOだけかもしれないというくらい、このグループは世界的な影響力を持ったグループです。YMOもシンセサイザーをいろいろ駆使したテクノポップのバンドで、アメリカでも非常にヒットをしました。そのアメリカでもヒットした曲を聞いていただきます。Computer Game Theme From The Circus。



  この曲がビルボードチャートで60位くらいまで上がりました。他にもYMOは有名な曲があるんですけれども、アルファレコード(Alfa Records)を通してアメリカでもヒットしました。後に、ヒップホップの黎明期のプロデューサーは、私はクラフトワークやYMOを聞いてヒップホップを始めたんだというインタビューがあって、非常に世界的に影響を及ぼしたバンドです。つまり、シンセサイザーがポピュラー音楽の世界にどんどん入ってくるということが、ヒップホップ成立の前提条件としてあります。

3、ヒップホップの成立

 (1)、意義

  ・具体的にヒップホップという音楽ジャンルはどういう風にして始まったのかというと、これは割かしはっきりとわかっています。ヒップホップは、1970年代のニューヨークのブロンクスで発祥しました。

 (2)、ヒップホップのトラック

  ①、DJクール・ハーク

   ・1970年代のニューヨークというのは、工場がどんどん街から出ていってしまって、失業者があふれて、ほとんどスラム化した状態でした。多くの放火が日常的に起きていて、かなり大変な状況でした。そうした中でもアフリカ系の若者達は日常を営んでいるんですね。そうした中で、ブロックパーティ(Block Party)と言って、公園の中や公民館を借り切って、ダンスパーティーが開かれていました。このダンスパーティーでは、ジェームス・ブラウンの曲がよくかかっていましたが、その中でクール・ハーク(Kool Herc)という有名なDJがいました、

  ②、レコードの二枚使いの発明
   
   ・クール・ハークは、曲の途中でドラムだけになる部分がありますが、この曲の間にあるリズムブレイクと呼ばれる所で、実は非常に盛り上がるということに気が付きました。このリズムブレイクがどういうものなのか、当時よくかかっていたと言われているジェームス・ブラウンのFunky Drummerという曲を、5分20秒くらいの所からリズムブレイクが始まるので、聞いてください。



   この曲の途中でドラムだけになってしまい、そこでダンスフロアが非常に盛り上がるということですね。DJクール・ハークは、このドラムブレイクの部分がもっと長ければいいのにと思ったんですが、レコードをかけているので20秒後にはまた楽器が入ってきてしまうわけです。そこで、DJクール・ハークは同じレコードを二枚用意して、一方のレコードでリズムブレイクの部分を演奏している間に、もう一枚のレコードのリズムブレイクの最初の所に針を用意して、一枚目のレコードがリズムブレイクの最後の所にいった瞬間にもう一つのレコードから音が出るように操作して、二枚目のレコードのリズムブレイクを流し始めるわけです。これをずっと交互にやると、リズムブレイクの長さを自在に操作することができるわけです。これがレコードの二枚使いといって、ヒップホップという音楽ジャンルが成立するために非常に重要なことでした。

  ③、受容者によって改変される作品の在り方

   ・ベートーベンの第九の最初の部分がカッコいいからこの部分を何回も繰り返すとか、村上春樹の小説のこの部分がとっても気持ちがいいので書き加えていいのかと言われれば、ダメですよね。ジェームス・ブラウンはこの5分22秒から40秒までのリズムブレイクはこの長さでいいと思って作っているわけです。ところが、リスナーの要請によってその長さを調整していくところに、文化の表現の在り方が決定的に変わっているわけです。音楽でも文学でも絵画でもなんでもいいんですけれども、作者が作り出したものが作品としてあって、それは一字一句変えてはならなくて、読者やリスナーや鑑賞者がそれをありがたがって享受するというモデルがロマン主義やモダニズムの芸術作品の享受の仕方であるとすると、ここでフロアのニーズによって作品を改変するというアプローチが出てくるわけですね。作者がいて作品があって受容者がいたとすると、受容者も作品にアプローチして作品の形を変えてしまう、なぜならこの方が受容者にとって都合がいいからというモデルですね。日本でいうとマンガとかアニメの周辺に二次創作という文化があります。そのマンガのキャラクターを用いて別の話を作ってしまうという創作活動があります。ヒップホップはこれに割と近い形です。ある作品を別の作品を作るための素材としてしまうということが、ヒップホップでは普通になっていきます。

  ④、反モダニズムとしてのヒップホップ

   ・このようにリズムブレイクをどんどんと伸ばして、他の部分を全部切ってしまうわけです。そして、この上にラップをのっけていくわけです。これが基本的なラップの形です。DJクール・ハークは「曲のカッコいい所に来るまでに余計な所が多すぎる」とインタビューで答えていますが、余計な所というのは普通に歌の部分であったりするわけですね。彼にとっては一番盛り上がるカッコいい所というのはリズムブレイクの所で、この部分が一番カッコいいんだからそこを繰り返せばいいじゃないか、ほかの部分はいらないじゃないかというインタビューです。確かに、AメロBメロがあってサビがくるからサビの部分がカッコよく聞こえるのではないのかという考え方もありますがこれはモダニズムの考え方で、ヒップホップはカッコいい部分をその文脈から引き離して別の文脈にして反復させるという徹底した反モダニズムの音楽実践であると言えます。これは1970年代に生まれた音楽として、非常に新しい音楽だといえると思います。

 (3)、ヒップホップのリリック

  ・繰り返されるビートの上にラップをのっけていくわけですが、ラップは韻を踏んで、これはジャズに非常に近いんですけれども、共通のテーマとして例えば白人社会をぶっ潰せというのが黒人の若者の間で共通のテーマだとすると、じゃあこのテーマでどういう風に気の利いた韻を踏みながら反復するビートの上でラップしていくのかということです。長谷川町蔵さんという音楽ライターの方と『文化系のためのヒップホップ入門』という本を出したんですけれども、この時に町蔵さんは、日本でいうと俳句とか短歌とかの句会みたいなものに近いとおっしゃっていました。要するに、一句このお題で読んでくださいという事で、白人社会をぶっ潰せというテーマはテーマで大切なんですけれども、むしろどういう風に韻を踏んで気が利いたビートののっけ方をするのかということで、おそらく多くの人はそれを聞いています。これはジャズの即興演奏と同じように、今の韻の踏み方カッコいいねとか、今の単語の選び方はすごくカッコいいねとかそういった所を見ているものなのだなと思っていただくとよいと思います。世界中どこにでもあると思いますけれども、言葉遊びの一つだと思ってください。

 (4)、最初に録音されたヒップホップ

  ・ヒップホップが最初に録音されたのは、実はヒップホップを一番熱心にやっていた人たちではないというのが切ない所ではあるんですけれども、一番最初のヒップホップのレコードと言われて、かつ一番ヒットしたものとして、シュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)でRapper's Delight。



   聞いていただくと分かると思いますが、音楽の部分はずっと同じものが繰り返されていて、その上でマイクリレーと言いますけれども、いろいろなラッパーがマイクをもってラップをしていくというもので、構造としてはモダンジャズに近いものです。

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