音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

アメリカン・ミュージックの系譜(6) ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の作曲家達

アメリカン・ミュージックの系譜第四回 講師は大和田俊之氏です。

1、意義

 ティン・パン・アレーには、ものすごい数の作曲家や作詞家がいました。移民がたくさんアメリカに入ってきていて、また南部などからもたくさん人が来ていて、音楽産業に従事したい人達がたくさんいて、簡単に言うと替えがいくらでもきくといった状況で、そのような中でみながしのぎを削って、一曲あてたいという、ものすごく商業主義的な中で、激しい競争の中で作曲家の人たちは活動してました。その中から4人とりあげます。

2、ティン・パン・アレーの作曲家達

 (1)、ジェローム・カーン(Jerome Kern)

  まずは、ジェローム・カーン(Jerome Kern)です。父がドイツ系のユダヤ人です。彼の代表曲は、1933年の「ロバータ(Roberta)」というミュージカルの挿入歌のSmoke Gets in Your Eyes。おそらく一番有名なのは、戦後にプラターズ(The Platters)というボーカルグループがカバーをしたバージョンだと思います。Smoke Gets in Your Eyes。



 (2)、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)

  次に取り上げたいのは、アーヴィング・バーリン(Irving Berlin)という作曲家です。ジェローム・カーンは父がドイツ系ユダヤ人でしたけれども、アーヴィング・バーリンはロシア系のユダヤ人で、移民として5歳の時にアメリカに移住してきた人です。彼は、White Christmasという誰でも知っている曲の作曲者として有名です。先ほどから強調しているように、ユダヤ人が多いのです。ユダヤ人がWhite Christmasという曲を作曲して、おそらくこの曲は世界で録音された曲の中でもっとも売れている曲ですね。ユダヤ人がクリスマスの曲を書いてヒットさせるということは、アメリカのジャーナリストの間でよく笑い話になっていて、ユダヤ人がクリスマスソングを書くことについて民族的な出自は関係ないんだととらえる人も多いですし、また伝記などをよむとバーリン家はそれほど熱心なユダヤ教徒ではなくて家族でクリスマスを楽しんでいたのではないのかとう解釈もあるんですけれども、いずれにしてもユダヤ人がWhite Christmasという曲を書いて、これが世界でヒットしてしまうというのは当時の商業主義というか、アメリカの商業音楽の熾烈な競争社会をあらわしているような気がします。ビング・クロスビー(Bing Crosby)が歌うバージョンで、White Christmas。



 この曲は、初演はラジオ放送向けで放送されたのが最初ですけれども、1942年の「Holiday Inn」という映画の挿入歌になりました。アーヴィング・バーリンはAlexander's Ragtime Bandなどのヒット曲を持つ、当時のヒットメイカーの一人だといっていいと思います。

 (3)、コール・ポーター(Cole Porter)

  続きまして、コール・ポーター(Cole Porter)。コール・ポーターはユダヤ人ではありません。エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)が歌うBegin The Beguineを聞いていただこうと思いますが、ティン・パン・アレーの楽曲というのは、楽曲の構造がみんな似てくるんですけれども、このBegin The Beguineという曲は結構複雑な構成の曲で、その点でも有名な曲です。Begin The Beguine。



 (4)、リチャード・ロジャース(Richard Rodgers)

  最後に、この時代の作曲家でリチャード・ロジャース(Richard Rodgers)という人の曲をかけてみたいと思います。ロレンツ・ハート (Lorenz Hart)という人と組んで曲をたくさん残している人ですけれども、My Funny Valentineというこれも有名なナンバーですけれども、チェット・ベイカー(Chet Baker)のバージョンで聞いてください。



3、ティン・パン・アレーの音楽をどう評価すべきか

 (1)、ティン・パン・アレーの音楽の特徴

  ティン・パン・アレーの音楽とは、要するに戦前の古き良きハリウッド映画でかかっているようなイメージの曲ですね。ティン・パン・アレーの曲の特徴の話をしたいんですけれども、楽曲構造がほとんど同じになっています。簡単に言うと、32小節AABA形式という形にだいたいかたまってきます。32小節AABA形式ということは、8小節8小節8小節8小節でAABAという形で、同じようなメロディーが8小節8小節と続いて、Bで少し違うメロディーが来て、もう一回Aの8小節に戻ってくるという構造です。だいたい、当時のティン・パン・アレーの7割から8割はこの構造になっているのではないかという風に言われています。Begin The Beguineは例外なんですね。

 (2)、ティン・パン・アレーの音楽をどう評価すべきか

  ティン・パン・アレーの音楽をどういう風にとらえるべきなのかということなんですけれども、僕自身はこれは楽曲の標準化、規格化だと思います。1910年代に音楽に限らずにアメリカ社会の様々な側面において、商品の標準化が進んでいきます。非常に有名な例でいうと、自動車の大量生産、大量消費の象徴といわれるフォード社のT型フォードですけれども、これも1910年代にフォードがベルトコンベア方式を開発して可能となったのですが、それと同じ時期に、音楽の楽曲も標準化も進んでいきます。ちなみに、ハンバーガーの最初のチェーンができるのも1910年代なんですね。それで、当時の新聞とか雑誌を調べていくと非常に面白くて、「Factory Made」という言葉が非常に肯定的に使われています。つまり、「Home Made」よりも「Factory Made」の方が価値が高いものとして、当時のメディアをみると出てきます。家庭がそれほど豊かではなくて、それよりも工場の未来的なイメージの中で、最先端のテクノロジーを使って、ベルトコンベアで造られるものが、家で造られるものよりもカッコよくて、すばらしいという価値観ですね。この価値観を理解しないと、なぜ規格化、標準化がこれほど広まったのかということを理解することはできないと思います。大量生産大量消費が始まった1910年代に、音楽においても標準化が進んでいったということですね。このことは、ラジオとか映画とか新しいメディアの発達とともに、ティン・パン・アレーの重要な特質として強調しておかなければなりません。そして、これは決して悪い事ではないと思います。私自身は、あまりに規格化された楽曲の中で、これほど歴史を通して聞き継がれていく楽曲がたくさん生まれたという所に、ヨーロッパ文化とは違うアメリカ文化の良さがここに一番現れているのではないかと思います。

4、著作権管理団体の設立

 こういった形で、ブロードウェイのミュージカルとハリウッドの映画産業の発達とともに、非常に商業主義的な、大量生産大量消費を前提とした音楽制作が、ニューヨークでどんどん発展していきます。1914年にASCAP(American Society of Composers, Authors and Publishers)という著作権管理団体が設立されます。逆にいうと、この時期までアメリカには音楽産業の中で著作権管理団体が存在しなかったわけですね。簡単に言うと、19世紀まではアメリカの音楽出版社はヨーロッパの曲の海賊盤を売っていた方が儲かったわけです。だから、著作権を厳密に管理すると、かえって自分達の利益にはならなかったわけです。しかし、ニューヨークの音楽産業がどんどん発展していって、実は19世紀のヨーロッパの芸術音楽をやっているような人からはこうした音楽はユダヤ人差別とも重なる形で「音楽ではなくて商品だ」と常に批判されていましたが、自国の作曲家がどんどん曲を作り出すことによって、やはり権利を守らなければならないだろうということで、1914年にアメリカ最初の著作権管理団体が生まれたわけです。

アメリカン・ミュージックの系譜(5) ニューヨークを中心とする都市の商業音楽の発展

アメリカン・ミュージックの系譜第四回 講師は大和田俊之氏です。

1、旧移民と新移民

 旧移民と新移民という言い方があります。旧移民というのは、だいたい17世紀以降に北米に入植した、アングロサクソン系、あるいはゲルマン系、あるいはスカンジナビア系などのヨーロッパ系の移民のことを指します。新移民というのは、19世紀後半以降に、ロシアや東ヨーロッパ、あるいは南ヨーロッパから北米に移民した人たちを指します。とりわけユダヤ系が非常に多かったわけです。1881年以降、ロシア皇帝のアレクサンドル3世が異人種を弾圧したことで、ユダヤ人がアメリカ大陸に流れてきました。また、南ヨーロッパのイタリアやスペインなどからも移民が来ました。よって、旧移民の特性としては、基本的にはプロテスタントなんですが、新移民というのはカトリックが多かったわけです。また、旧移民というのはヨーロッパから東海岸に到着して、西へ西へとアパラチア山脈を越えて移動していくわけですけれども、この東海岸に到着したヨーロッパ人が西へ移動していくことによって「アメリカ人」になっていくわけです。つまり、先住民との戦いや、政府とは関係なく家族を守っていくという、アメリカ人特有の気質というか、ヨーロッパ的な青白いエリートというよりも、素朴ながら家族をきちんと守るというのがアメリカの理想的な男性像であるといった考え方がはぐくまれていきました。他方、新移民は、中には西へ行った人もいますが、多くの新移民は東海岸の都市にとどまったというか、都市の下層階級を形成しました。それは都市がどんどん発達していったので、都市の中で工場労働者として生活を営んでいくという人たちが、どんどん増えていきました。

2、娯楽産業の成立

 この新移民の中から19世紀の後半から20世紀初頭にかけて、娯楽産業が発達していきます。つまり、都市が発展すると、移民も含めて地方からいろいろな人が都市に入ってきて、工場労働者となっていきます。田舎では日が昇って働き日が沈んで寝るといった生活ですが、工場労働は時間によって労働が管理されます。よって、何時まで働いてその後にレジャーというか娯楽の時間が生まれ、その娯楽を専業とする人々も生まれてきます。

3、ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)の成立

 この中で、とりわけ音楽産業というのは、ニューヨークのマンハッタンを中心に発展していきます。現在のブロードウェイとかタイムズスクエアに音楽出版社ができます。音楽出版社が実際にはどういうものであったのかというと、小さい部屋の中にアップライトピアノがあって、そこに作曲家と作詞家が詰めて、一日中曲を作っていきます。その通りが一日中ピアノの音でうるさいということで、ある新聞記者が「ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)」と新聞で名付けました。最初は肯定的な意味で使っていたわけではなくて、むしろ大した曲でもないのに商業主義的な音楽をたくさん作っているうるさい横町という意味で、ティン・パン・アレーと言う風に名付けたわけです。しかし、このティン・パン・アレーという名前が、ニューヨークの一つの地域の名前にもなるし、広い意味では音楽ジャンルの一つともなって、この言葉が定着していくことになります。映画は最初はニューヨークで始まるわけですけれども、ニューヨークは狭いのでセットがなかなか組めなかったりで撮影するには場所としてよくないということで西海岸に移っていって、今のロサンゼルスの郊外にハリウッドという場所を見つけて、広大なセットを組んで発展していきます。東海岸のミュージカルのブロードウェイと東海岸の映画のハリウッドの両方の娯楽産業の発展とともに、そこに音楽を供給していく一大産業として、ティン・パン・アレーも発展していきます。基本的には、ハリウッドであったりブロードウェイの挿入歌であったり、サウンドトラックをどんどん排出していくわけです。映画やミュージカルが発達していけばいくほど、音楽への需要も高まるので、ティン・パン・アレーの作曲家や作詞家が馬車馬のように働いて、ものすごい数の曲を作っていくという状況ができてくるわけです。そして、この中から後世に名を残す作曲家の方々が出てきます。

アメリカン・ミュージックの系譜(4) カントリーミュージックの来歴

アメリカン・ミュージックの系譜第三回 講師は大和田俊之氏です。

1、カントリーミュージックの成立

 (1)、カントリーミュージックの成立

  ・カントリーミュージックというジャンルは、第二次大戦後になるまではありません。「ヒルビリー」と言っていたり、あるいは「オールド・タイム・ミュージック」と言っていたり、あるいは「マウンテン・ミュージック」と言ったり、ものすごく細分化された音楽ジャンルとして、それぞれに存在していました。それらを統括する「カントリーミュージック」というフレイムワークは実はなかったんですけれども、1940年代の第二次世界大戦を経て、1950年代にロックンロールが台頭して、若者に非常に人気を博する音楽となります。そうした中で、ナッシュビルと言うところに、それまで「ヒルビリー」とか「オールド・タイム・ミュージック」とか「マウンテン・ミュージック」とかそれぞれ個別に存在していた白人系のルーツミュージックというものが、ナッシュビルを中心に「カントリーミュージック」というジャンルにまとめられていきます。

 (2)、カントリーミュージックの保守性

  ・カントリーミュージックは、さまざまな音楽をまとめられていく時に、保守的な価値観を帯びていきます。フォークミュージックといわれるジャンルと、カントリーミュージックといわれるジャンルは、レパートリーは重なります。つまり、アメリカで古くから歌い継がれてきた音楽ですから、フォークと呼んでもいいし、カントリーと呼んでもいいんです。ただし、アメリカ合衆国でフォークミュージックというと、リベラルな音楽です。フォークというのはほとんど左翼と言っていいと思いますけれども、左寄りの、革新、リベラルな人達の音楽です。つまり、同じレパートリーなんですけれども、1940年代から1950年代にかけて政治的に離反していくわけですね。そして、カントリーミュージックは保守の立場の音楽として、価値観を帯びていくということです。ロックンロールのような黒人音楽に影響を受けた若者に人気のある音楽に、おそらく対抗する意識が働いたと思うんですけれども、バラバラのままではダメだということで、白人系のルーツミュージックをやっていた人たちが、ナッシュビルに集結し、音楽出版社をどんどん立ち上げて、カントリーミュージックというジャンルを戦後立ち上げていくということですね。その中で最大のスターと言ってもいいと思いますが、ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams)という人の1951年のCold Cold Heartという曲を聞いてください。



  スティールギターとフィドル、クラシックで使う時はバイオリンと言って、民族音楽で使う時はフィドルと言うんですけれども、フィドルが鳴っていて、あとは独特のハンク・ウィリアムスの歌い方、トワングといいますが、この鼻にかかった発声ですけれども、これがカントリーミュージック特有のシグネチャとして言えると思います。

 (3)、カントリーミュージックのサブジャンル、ブルーグラス(Bluegrass music)

  ・カントリーミュージックの中にもいろいろなサブジャンルがあって、比較的サブジャンルとして新しく日本でも人気があったものにブルーグラス(Bluegrass music)があります。これは楽器のテクニックも重視される音楽ジャンルで、特に日本の大学でも1960年代にさまざまなブルーグラスクラブができたんですけれども、ビル・モンロー(Bill Monroe)という人が中心人物になります。ジャズ経由だと言われていますけれども、非常に楽器の技術が高く、それぞれがまわしてソロをとったりと、そういうこともやるブルーグラスという音楽ジャンルの曲で、Uncle Penを聞いてもらおうと思います。



2、カントリーミュージックとロック

 ・第二次大戦後にできたカントリーミュージックという新しいフレイムワークの音楽ジャンルは、保守的な性質を自ら帯びていきます。フォークと自らを意識的に差異化していくわけです。その後、ブルースは1960年代にロックによって、自分達のルーツはブルースであるという形で、ロックミュージシャンによって取り込まれるわけです。いうまでもなくロックというのは1960年代のカウンターカルチャーの音楽ですから、政治的に右か左かというと、左なわけです。リベラルな若者がブルースを自分達のルーツとして系譜づけることによって、逆にカントリーミュージックの保守性との対立が鮮明になっていきます。その時代がわりとしばらく続いていきます。

3、現在のカントリーミュージック

 (1)、意義

  ・少し前までは、カントリーミュージックを保守的な音楽と見る人もいたかもしれませんが、現在はあまり政治性はありません。確かに、未だにカントリーミュージックはアメリカで、民主党と共和党のどちらに近い音楽ジャンルかといえば共和党に近い音楽ジャンルですけれども、そういう政治性というものは少しずつなくなってきています。

 (2)、オルタナカントリー、アメリカーナの登場

  ・その一つのきっかけが、1990年代以降のオルタナカントリー、あるいはアメリカーナと言われるサブジャンルが出てきました。それは、いわゆるルーツミュージック、つまりアフリカ系アメリカ人のフォークミュージックであったり、カントリーミュージックであったり、そういったものを人種によって分けるのはやめようということです。これは同時に、研究の領域でも起こっていて、1990年代以降のアメリカの学者がどんどん明らかにしてきたことは、いかに当時から黒人と白人のミュージシャンが南部で共演していたのか、ブルースのコミュニティーと白人のコミュニティーがかけ離れたものではなくて、当時からかなりオーバーラップしているものでした。白人がブルースを演奏することも当時からあったし、黒人がカントリーみたいな音楽を演奏することもたくさんあったということをどんどん明らかにしてきました。そういった研究動向と、音楽ジャンルとしてのアメリカーナというサブジャンルが出てくることが、まったく連動していて、そうするとロック、あるいはカントリーというものに染みついていた政治性がはがれていきました。カントリーミュージックは「カッコ悪い」とか「ダサい」ものとしてとらえられていましたが、今の人はバンジョーの音が入ると「オーガニックな」とか「牧歌的な」とか「自然のにおいがする」とかそういう風に肯定的にとらえるようになりました。楽器の音が時代によって違って聞こえてくるわけです。

 (3)、テイラー・スウィフト(Taylor Swift)の登場

  ・最近の大学生は、カントリーミュージック出身のシンガーであるテイラー・スウィフトの影響で、カントリーミュージックに関心がある人が多いです。2009年のヒット曲でYou Belong With Me。



  この曲のどこがカントリーなんだと人によっては思うかもしれませんが、カントリーポップというジャンルがありまして、こういうサウンドになっています。どこでカントリーと分かるのかというと、楽器ですね。バンジョーがかろうじて聞こえる所と、途中からスティールギターが入ってくる所ですね。例えば、マンドリンとかフィドルとかバンジョーとかスティールギターなどが、ポップス的なサウンドの中にアレンジとして入ってくると、非常にカントリー色が出てくるということです。テイラー・スウィフトはペンシルバニア出身で、わりと豊かな家族に生まれたらしいんですけれども、10代前半に歌手になりたいと思って、テネシー州のナッシュビルという所へ行きます。テネシー州ナッシュビルは今でもカントリーミュージックの中心になります。テイラー・スウィフトは14歳くらいのときに、キャリアの最初から自分はカントリーミュージックをやるんだということを意識していたということですね。特に1990年代以降、カントリーポップはどんどんメインストリームにスターを排出してきているので、どんどんファンの年齢層が若くなっていて、若い女性がどんどんファンについています。もともとカントリーミュージックは地方の白人に支持される音楽で、政治的には共和党と非常に相性がいい音楽でした。しかし、今回の大統領選では比較的沈黙を保っていた理由は、どんどん若い、しかも若い女性がカントリーミュージックのファンになっていっていて、アメリカでは若い層はほとんどリベラルが強いので、共和党支持、ドナルド・トランプ(Donald Trump)を打ち出してしまうと、カントリーミュージックのオーディエンスを敵に回してしまう可能性があります。そこで、カントリーミュージックもあからさまに共和党支持ではなくなってきているんですね。

アメリカン・ミュージックの系譜(3) カントリーミュージックのルーツ

アメリカン・ミュージックの系譜第三回 講師は大和田俊之氏です。

1、カントリーミュージックとは?

 (1)、意義

  カントリーミュージックは、一般的にはヨーロッパ系アメリカ人の民謡といっていいと思います。

 (2)、ビルボードの定義

  ビルボードのチャートはだいたい重要なチャートは三つあって、総合チャートと、黒人音楽のブラックチャートと、カントリーミュージックのチャートになっています。これをマーケティング的に言いますと、総合チャートはアメリカで一番ヒットしている曲のランキングですね。黒人音楽のチャートは、黒人コミュニティーの中でヒットしている曲のランキングです。カントリーミュージックのチャートは、地方の白人コミュニティーで流行している音楽のチャートなんです。地方の白人に受けている音楽のことを、カントリーミュージックチャートとビルボードは定義しているということです。皆さんもご存知だと思いますが、大統領選があるとニューヨークやボストンなどの大都市以外はだいたい赤くなるというか、共和党支持の州がアメリカの真ん中にあって、両海岸だけ青くなります。それが、人口でいうとどっこいどっこいになるという感じですよね。その赤い州で比較的人気が高い、つまり地方の白人に人気が高い音楽がカントリーミュージックです。

2、フランシス・ジェームズ・チャイルド(Francis James Child)

 (1)、フランシス・ジェームズ・チャイルドとは

  ヨーロッパ系ということで、イギリスであるとかスコットランドが中心になるんですけれども、フランシス・ジェームズ・チャイルド(Francis James Child)という人がこのジャンルでは重要です。この人は、ハーバード大学の英文科の先生です。イギリスの詩が専門ですね。アメリカの専門家ではなくて、イギリスの専門家であるということですね。この人は、バラッド(ballad)と言われるイギリスの民衆の間で歌われていた詩について研究をしていました。

 (2)、ヒルビリー音楽

  ①、ヒルビリー(Hillbilly)とは

   イギリスからアメリカに移民してきた人たちは、西に行くんですけれども、その中の一部の人たちが、アパラチア山脈に住み着いてしまいました。彼らをヒルビリー(Hillbilly)と呼びます。この人たちは、19世紀からずっと偏見というか、差別的にみられていました。あまり他のコミュニティーと交流しない、さらに、少数の家族で山脈の中で暮らしているので、何を考えているのか分からないという、偏見のまなざしにさらされながら、数世代にわたって生活をしていました。

  ②、ヒルビリー音楽

   フランシス・ジェームズ・チャイルドが、この山岳民が歌っている民謡を調べた時に、イギリスやスコットランドの本国のバージョンよりも古いバージョンが残っているということを発見しました。つまり、それだけ外とのコミュニケーションが遮断されていて、イギリスからもってきたままの民謡が、あまり変化をしないまま保たれていたということです。この人は、イギリスの詩の専門家ですから、イギリスに行って調べるのではなくて、アパラチア山脈に行って調べれば、イギリスよりも古いバージョンがあるということで、アパラチア山脈に歌を採集しに行って、1857年に『English and Scottish Ballads』という本を編纂しました。これは非常に学術的な本で、歌詞の変化が細かい註でついていたりするんですけれども、この人は文学の専門家なので、メロディーはついていません。歌詞だけです。しかし、メロディーはついていないんですけれども、フランシス・ジェームズ・チャイルドが採集した歌は、後にチャイルドキャノンといって、アメリカ人であれば多くの人がよく知っている、非常に昔から歌い継がれている曲のレパートリーということで定着します。ただし、フランシス・ジェームズ・チャイルドはイギリス文化だと思って研究をしているんですよ。彼は英文学者なので、たまたまイギリスよりも古いバージョンがアメリカにあったから研究をしたけれども、彼自身の感覚としてはイギリス文学を研究しているというものだったのです。しかし、これがだんだんアメリカの音楽として読み替えられていきます。この読み替えの過程が、カントリー音楽というか、ヒルビリー音楽というか、白人系の民謡の曲のレパートリーになっていくということですね。

3、セシル・シャープ(Cecil Sharp)

 (1)、セシル・シャープとは

  もう一人、歴史的に重要なのが、イギリス人のセシル・シャープ(Cecil Sharp)です。著書としては、1917年の『English Folk Songs From The Southern Appalachians』があります。セシル・シャープはフランシス・ジェームズ・チャイルドに触発されて、イギリスからわざわざアメリカに行って、アパラチア山脈にこもって歌を収集しました。

 (2)、反近代主義者、セシル・シャープ

  ところが、フランシス・ジェームズ・チャイルドに触発はされているんですけれども、セシル・シャープが歌を収集していく目的は全然違っていました。彼は、反近代主義の人です。反近代主義というのは、19世紀から20世紀になってさまざまなレベルで機械化が進み、1910年代にはT型フォードという自動車が走るようになって、世の中が急速に機械化が進んでいく中で、本来の人間はそういった機械にまみれるのではなくて、自然とともに暮らしていくものだという考えです。近代化に反対をしているセシル・シャープがアパラチア山脈に何をしに行ったのかというと、アパラチア山脈に残っていたイギリス、スコットランドの歌がイギリス本国よりも古いということが大事で、彼はそこに失われたイギリスの風景を見ているわけです。機械化が進んだイギリスにはもうなくなってしまった、これはもうほとんどフィクションだと言ってもいいと思うんですけれども、失われた風景に対するノスタルジーを彼はアパラチア山脈に求めていたわけです。カントリーミュージックはよく日本の演歌にジャンルとして近いと言われるんですけれども、曲のテーマにノスタルジー、つまり昔を懐かしむテーマが非常にたくさんあるんですけれども、その意味でもこのセシル・シャープの、イギリスからアパラチア山脈に行って、失われたイギリスの風景を取り戻したかった。だから、彼はフランシス・ジェームズ・チャイルドとは違って、彼の本は全く学術的ではなくて、むしろ一般の人に開かれています。メロディーもついているし、ピアノの伴奏譜までつけました。多くの人に見てもらって、多くの人に読んでもらって、家でお母さんがピアノを弾いて歌って、近代化が進むこの状況に対して、人間は自然とともに生きていくべきなんだという価値観を広めたいという確固とした信念のもとでアパラチア山脈に行きました。セシル・シャープの反近代という価値観そのものが、カントリーミュージックを非常に特徴づけるんですよね。

4、地方の白人市場の発見

 (1)、カントリーミュージックが最初に録音

  ではカントリーミュージックが最初に録音されたのはいつなのかということですけれども、1923年のフィドリン・ジョン・カーソン(Fiddlin' John Carson)の「The Little Old Log Cabin In The Lane」という曲が、アメリカのカントリーミュージックの最初のレコーディングだと言われています。ただし、この頃は「ヒルビリー」と呼ばれていました。フィドリン・ジョン・カーソンというくらいですから、フィドル奏者の曲ですね。フィドル奏者で南部で非常に人気がある者が、はじめてレコーディングされたという風になっています。

 (2)、天才プロデューサーラルフ・ピア(Ralph Peer)

  非常に興味深いのは、この曲とブルースの最初の録音といわれているメイミー・スミス(Mamie Smith)の「Crazy Blues」のプロデューサーが一緒なんですね。ラルフ・ピア(Ralph Peer)という人で、ラルフ・ピアはメイミー・スミスの「Crazy Blues」で何を成し遂げたのかというと、黒人市場というものを発見したということです。つまり、他のマジョリティーの市場とは異なる、黒人コミュニティーに特化した音楽市場が存在するんだということを発見しました。同じ人がフィドリン・ジョン・カーソンの「The Little Old Log Cabin In The Lane」を録音して、ここからカントリーが始まっていきます。そして、これも地方の白人コミュニティーに流行する音楽の存在をここで発見します。つまり、ラルフ・ピアはこの時代にしてはとんでもない目利きというか、プロデューサーとしてものすごい才能があった人だと思います。黒人コミュニティーと地方の白人コミュニティーに流行する音楽を発見し、今のビルボードの三つのチャートもこれに基づいています。よって、ほぼラルフ・ピア一人で、カントリーミュージックというジャンルそのものを発見したと言ってもいいのではないかなと思います。

アメリカン・ミュージックの系譜(2) ブルースの誕生

アメリカン・ミュージックの系譜第二回 講師は大和田俊之氏です。

1、一般的なブルースの誕生の解説

 ・西アフリカのアフリカ人が奴隷としてアメリカに連れてこられ、奴隷制下で黒人のワークソング、つまり働きながらコール&レスポンスで歌っていくという音楽があって、南北戦争後に奴隷がいちおう解放されて、解放された奴隷がこれまで奴隷コミュニティーの中で閉じ込められていたものが、個人の内面というものが奴隷の中に生まれて、フィールド・ハラー(Field holler)と言われる黒人の音楽実践となり、それが19世紀末にブルースとなった、とブルースの誕生を一般的な解説では説明しています。

2、通説に対する批判

 ・アフリカの音楽とブルースは、音楽の形式としてはそんなに似ていません。さらに、奴隷制下の黒人のワークソングと呼ばれるものと12小節A・A・B形式のブルースは、音楽形式としてはほとんど似ていません。私たちが、西アフリカの音楽→奴隷制下のワークソング→フィールド・ハラー→ブルースという直線で説明される歴史をなんとなく納得してしまうのは、単純に黒人がやってきた音楽実践をつなげているだけだからです。黒人がやってきた音楽実践だけでブルースは説明できるのか、それ以外の要素は全く入っていないのかという研究が、アメリカではどんどん盛んになってきています。

3、ブルースはどのようなメディアに記録されてきたのか?

 (1)、問題設定

  ・ブルースがどのように始まったのかについて、現在ではまだはっきりとはわかっていません。現在、答えられる問いは、ブルースはどういうメディアに記録されてきたのかということです。

 (2)、楽譜

  ・楽譜にブルースが現れるのが多くの本では1912年となっていますが、最近、ニューオリンズの音楽出版社が発行している1908年の楽譜が発見されました。さらに、これは白人の作曲家でした。つまり、1908年の時点ですでに白人の作曲家がブルースを作曲して、楽譜に落として、商品として流通させていたということです。19世紀末にブルースという新しい音楽が生まれたのだとすると、それから白人が商品化するまでに十数年しかたっていません。よって、ブルースという音楽をイメージするとき、最新の研究成果をもって排除しなければいけないイメージは、黒人コミュニティーの中で長い年月をかけてはぐくまれてきた音楽実践が、やっと白人に発見されて世に出て来たという見方です。ブルースは初期の段階から白人の手が入っていたんです。

 (3)、録音

  ①、最初のブルース録音は何か?

  ・1920年のメイミー・スミス(Mamie Smith)の「Crazy Blues」が最初のブルース録音ということになっています。これは12小節A・A・B形式の曲ではありませんが、曲名に「Blues」と入っているので、一番最初のブルース録音とされているんです。12小節A・A・B形式ではないブルースの曲もあるので一概にこの形式を踏まえていなければブルースとは言えないというわけではありませんが、少なくとも、最も狭い意味でのブルースの要件は満たしていないということになります。

   12小節A・A・B形式ではなく、どちらかというと初期のジャズにサウンドは近いと思います。そもそもブルースをどういう風に定義をするのか、曲名に「Blues」と入っていれば全部ブルースにするのかというと、軍楽隊や白人のシンガーによるブルースの録音がこれ以前にあることが分かっています。ところが、この「Crazy Blues」が公式に最初のブルース録音とされているのは、この曲が最初の黒人女性による「Blues」というタイトルの曲だからなんです。ここにはいろいろな選択が働いています。つまり、ブルースとは黒人音楽という定義があって、では最初の音楽は黒人の音楽であることが望ましいという判断があり、この「Crazy Blues」が最初のブルース録音であるとなっているんですけれども、実はインストであったり、白人のシンガーによる曲名に「Blues」という単語が入っている曲は、これ以前にも存在しているんです。1912年の段階でブルースの楽譜は流通していましたから、白人を中心とする音楽業界にブルースはだいぶ「発見」はされていました。レコーディングもされていたということになりますね。



  ②、メイミー・スミスの「Crazy Blues」の歴史的意義

   ・では、メイミー・スミスの「Crazy Blues」は歴史上価値がないのかというとそういうことはありません。歴史的には非常に意味のある曲です。このレコードはとんでもなく売れて、数か月で数万枚売れたという資料がありますけれども、これをレコード会社が追跡調査をしたんですね。その結果分かったことは、この曲が突出して黒人コミュニティーで売れたということです。この曲が売れたことによって、レコード会社は自社内に小さなレーベルをたちあげて、黒人コミュニティーに特化したレコードを作り始めます。「レイス・レコード(Race record)」という今で言うとかなり差別的なレコードですけれども、この時にアメリカの音楽産業ははじめて、人種に基づく音楽ジャンルの分節化を具体的に設定したことになります。それで、一般の白人にはほとんど聞かれないような、黒人コミュニティーに特化したレコードがレコード会社の中で作られるようになって、それが緻密なマーケティングにより流通させられていきました。そういった中で、レイス・レコードというものがどんどん普及していくわけですけれども、ブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson)の「Matchbox Blues」がレイス・レコードの典型といっていいと思いますので聞いてください。



  ③、カントリーブルースとシティーブルース

   ・メイミー・スミスの「Crazy Blues」と比べると、非常に簡素なアレンジですよね。アコースティックギターの弾き語りです。ブルースファンの間では、今聞いていただいたようなアコースティックギターでの弾き語り、とりわけ男性ボーカルが多いのですが、カントリーブルースやフォークブルースと呼んで、先ほどのような女性が華やかな衣装を着てステージでビッグバンドを率いて芸能的なというかエンターテイメント色の強いものをシティーブルースという風に言っております。世界的に、ブルースファン中でもっとも評価が高いというか、これこそが本物のブルースだと言われるのは、どちらかというとこのアコースティックギターの弾き語りによる男性ボーカル、つまりカントリーブルースの方ですね。その中でもっとも有名な、そしてブルースの中で最も評価の高い曲を聞いていただきます。ロバート・ジョンソン(Robert Johnson)で「Cross Road Blues」。



    メイミー・スミスの「Crazy Blues」と比べると、私たちはアコースティックギターの弾き語りの方がより黒人的だというか、より黒人の音楽のよさが出ている音楽であると自動的に思ってしまう傾向があります。それは黒人音楽というと私たちは、簡素な中にある力強さとか、ノリの良さとか、そういったものを自動的に思い浮かべるんですね。黒人音楽と言った時に、難解な音楽理論を駆使する音楽ということは、あまり私たちは思い浮かべません。なぜ思い浮かべないのかというと、黒人というものの民族音楽性のようなものを、私たちが知らないうちに自明のものとしてしまっている、黒人文化というものはテクニカルで難解な音楽理論を駆使した音楽ではなくて、躍動的であるとか素朴な中にある力強さといった言葉で、僕たちは自動的にイメージしてしまいます。そこに何等かの先入観が入っていないでしょうか。ロバート・ジョンソンのこの曲は、1950年代1960年代の時のブルースリバイバルの時に最も評価されて、エリック・クラプトン(Eric Clapton)が在籍していたクリーム(Cream)がカバーして一躍有名になったんですね。このクリームがカバーしたり、ローリング・ストーンズであったり、ビートルズであったり、とりわけ当時のイギリスの若者達がブルースの中でも特にカントリーブルースを評価しました。そこに悪意はないわけですが、やはり黒人音楽というものはこうあってほしいマジョリティー側の先入観を指摘することができます。アメリカの白人を中心とするマジョリティーとマイノリティーの関係ですね。白人が常に黒人のステレオタイプというものを用意している。そして、黒人側はそれを内面化する場合があります。1940年代1950年代にすでにアコースティックギターではなくエレクトリックギターを持っていた南部の黒人のギタリストが、白人のレコード会社の人間が来るといったときに、わざとボロ着に着替えて、わざとアコースティックギターに持ち替えてステージにたちました。この方が売れるからでしょっていう感じで。その方が白人が持っているステレオタイプの黒人のブルース像に合うから。ただし、黒人の方から白人が持っているステレオタイプに抵抗する場合もあるんですね。白人に抵抗してそのイメージを修正していうという。しかし、ブルースで重要なことは、すでに白人が持つ黒人のステレオタイプを黒人自身が内面化していく、あるいはそれに抵抗するといった、言ってみればステレオタイプの応酬が、アメリカ音楽のダイナミズムとしてすでに見ることができるということです。
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