音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

ロックはグループ・サウンズで普及していった

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180923 解説は大貫憲章氏です。
 
 ザ・ダイナマイツ(The Dynamites)で恋はもうたくさん。



 私はグループ・サウンズが大好きなんですけれども、1960年代の後半、1966年の6月にザ・ビートルズ (The Beatles) が来日して以降、グループ・サウンズはものすごい勢いで増えました。これは、ビートルズの来日の一つの余波と言っていいと思います。海外から日本にきてやっていたデ・スーナーズというフィリピンのバンドの方もいましたけれども、これは例外的なもので、やはり日本国内のミュージシャンがグループ・サウンズをやるんですけれども、レコード会社的にまだノーハウ的に海外の曲はよくわからないという状態でした。ザ・スパイダース(The Spiders)のかまやつさんのような一部ミュージシャンは、海外の曲を先進的に取り入れて、こういうリズムがいいんだ、こういう感じがいいんだって、海外のいろいろな音楽を聴いていて、自分で体現していました。しかし、あの頃、グループ・サウンズはレコード会社では邦楽の扱いですから、歌謡曲と同じ感じなんですよね。だから、エンジニアさんもそうですし、何よりも曲を作る方々が、これまでは流行歌、歌謡曲を作っていた方が、音だけエレキでやってみようみたいな感じで作っていたので、いろいろな珍しい現象があって、独自の進化ということでは面白かったと言えなくもありません。そしてこのように作られた曲が、表に出た物、レコード化された物ですよね。でも、ほとんどの物はレコード化されず、レコード化されなかった物はステージでやっていました。レコード化されなかった物はステージを見た人しかわからないので、ライブに行ってはじめて、この人達はこんな曲やっているんだみたいなことがあったので、それで私はグループ・サウンズに入り浸りになりました。海外の流行っている曲をカバーしてくれるわけですから、当時は海外のバンドなんて見れるわけないので、本当に助かったというか、うれしかったです。

メタル系の曲はボーカルより間奏の方が重要である説

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180826

大貫憲章「マウンテン (Mountain)でCrossroader。」



大貫「ボーカルじゃなくてギターが聞きたいんだからと怒られてしまうかもしれません。ハードロックやメタル系のバンドはボーカルがメインではないんですね。中間部が大事で、逆に歌の所はいいんだと。昔本当にこれで怒られました。曲の途中で声を入れちゃったりすると、伊藤(政則)さんは絶対そういうことはしませんって。間奏が聞きたいんだからって。」

Katchin'「それは、重要なことかもしれないね。」

大貫「メタル系の方々は間奏の方がポイントが高いみたいですよね。」

ニューヨークパンクとロンドンパンクの違いとは

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180617

大貫憲章「パティ・スミス・グループ(Patti Smith Group)でBecause the Night。」



大貫「彼女の幅広いアートというか、そういうセンスが彼女を大きな輝きにしているのかなと思います。もともとは歌手ではなくて、詩の方でニューヨークで活動をしていました。今はヒップホップがありますが、パティ・スミスはポエトリーリーディングに音楽をつけようとした人なんです。音楽をバックにポエトリーリーディングをやっている活動の中から、レニー・ケイ(Lenny Kaye)とかそういう人達と出会って、バンドやろうかという形で始めました。だから最初の頃とか、モノローグというか、淡々と、歌ともポエトリーリーディングとも違うようなものがあったりして、でもそういうものがアートな感じで、新しいなというものがあったので、注目されました。そういう環境なので、ロンドンパンクよりもニューヨークの方がアートっぽいというか、ちょっと理屈っぽいというか、そういうのがありました。」

Katchin'「テレヴィジョン (Television) もそんな感じじゃないですか。あまり好きじゃないんですよね。」

大貫「そういう人多いよね。理屈をこねていればいいと思っている所があるとか、暗く陰鬱にやればいいと思っている所があるとか、そういう言われ方もしていました。そこに行くとロンドンパンクは、サクッとしていて、炸裂していて爆発していてカッコいいよねみたいな。」

Katchin'「ロンドンパンクは分りやすい。」

大貫「見た目もカッコいいし。ファッションも。あの頃のニューヨークパンクは、暗くてうつむき加減で、みたいなのがありました。ラモーンズ(Ramones)とかは違いましたけれども。」

Katchin'「でも、ラモーンズも案外歌詞の内容は暗いですからね。曲自体はストレートなロックンロールみたいな感じだけれども、歌詞は暗い内容なんです。」

大貫「暗いっていうのは、Bonzo Goes To Bitburgみたいに詩的に暗いの?」

Katchin'「詩的に暗い。」

大貫「ピストルズ何かとはちょっと違う?アンチクライストとかじゃないの?」

Katchin'「違います。個人的な事だけど、暗かったりしているんですよね。」

大貫「なるほどね。前のニューヨーク・ドールズ (New York Dolls)もそうかもしれないけれども、ニューヨークのアンダーグラウンドなクラブサーキットのイメージというとザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) とか。」

Katchin'「そうですよ。暗いよね。」

大貫「どっちかっていうと暗いよね。あまりパーッと派手にいこうぜという感じではないね。その辺はつながっているのかもしれないし、またニューヨークパンクが好きな人は、そういうアート感覚を求めますよね。ニューヨークパンクが先だったから、ニューヨークパンクを先に聞いた人もいます。フリクションとかの東京ロッカーズは、どちらかというとロンドンパンクみたいなアンチクライストではなくて、内向きな内省的な歌が多かったというのも、ニューヨークパンクの影響があるのかもしれませんね。」

U2のギターサウンドはどのようにして生まれたのか

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180603

大貫憲章「U2でI Will Follow。」



大貫「U2は1976年に地元アイルランドのダブリンで、高校生バンドとして活動を始めました。やがて、地元のタレントコンテストLimerick Civic Week Pop '78で優勝しました。この人達はコンテスト上がりなんです。他の当時のパンクバンドは、コンテストに出た人はいないじゃないですか。みんな地道にバンドをやって、ライブハウスからのし上がったぜという感じなんですけれども、U2は律儀なというか真面目な感じなのかもしれません。」

Katchin'「逆に言えばパンクをやろうとは思ってなかったんじゃないの。」

大貫「初期の頃から発言は、ザ・クラッシュ(The Clash)を信仰しているとかそういう発言をしていたから、俺も気にはしていました。グループ名はいろいろ言われていますけれども、それも全部霧の中ということで、本人たちはたまたまゴロが良かったからと言っていますが、俺としてはアメリカの偵察機U2からとったとしか思えないんですけれどもね。それで、アイルランドのCBSと契約して、デビューしました。この時は母国アイルランドのみということで、メジャーになったのは1980年にアイランドと契約して、1980年5月に11 O'Clock Tick-Tockというシングルでデビューしました。それで10月にいよいよ「Boy」というアルバムで、アルバムデビューということになります。最初の頃はジョイ・ディヴィジョン (Joy Division) などで知られるマーティン・ハネット(Martin Hannett)がプロデュースしていました。しかしマーティン・ハネットは、やらないって言ったのか、メンバーが気にくわなかったのかはしりませんが、スティーヴン・リリーホワイト(Stephen Lillywhite)になりました。スティーヴン・リリーホワイトも当時注目の人でした。よって、新人の割にはすごいバックアップもされていました。1stの「Boy」、2ndの「October」からそれぞれ一曲づつ聞いていただきますが、先ほどのI Will Followは「Boy」にも収録されています。「Boy」からA Day Without Me、「October」からGloria。」



大貫「この頃の彼らの一つの特徴ですけれども、ギターがクリアな感じで非常に清々しいですね。」

Katchin'「私分りましたよ。私がU2の好きではない所は、このギターなんですよ。このディレイがかかってるようなギターがあまり好きではないんですよね。」

大貫「これが売りだったんですけどね。特にスティーヴン・リリーホワイトはこういう録音をやらせると右に出るものはいなかったというくらい、彼のレコーディングの技術も含めて、エッジというギタリストの評価が高くなったのも、その二人の組み合わせがよかったからだといわれているんですけれども、これがダメですか。」

Katchin'「そこがダメなんですね。」

大貫「ウァンウァンウァンというのが?」

Katchin'「チュクチュクチュクチュクするのが、あまり好きではないですね。」

大貫「でも、エッジは世界のギタリストの中ではトップランクですよ。」

Katchin'「だから、ある意味で言ったらエッジは正しいんですよ。自分のスタイルを発明したんだから。逆にこのスタイルが私も知るくらいに有名になったので、あれは嫌だなぁみたいな。」

大貫「むしろそこが売りでしたからね。私もそこに惹かれましたし。ということで、「Boy」は1980年夏に、地元アイルランドのダブリンのスタジオ、Windmill Lane Studiosというところで、スティーヴン・リリーホワイトを迎えて、さらに二枚目の「October」はその翌年の1981年春から秋にかけてと、この頃はだいたい夏場にレコーディングをしていたんですけれども、同じくダブリンのスタジオで、もう一つこの頃はNassauにあったCompass Point Studiosもよく使われるようになっていて、そこでも録音したりしていました。ただ、すでにこの頃メンバー間に亀裂が、ということではないんですけれども、いろいろな本を読んでいたら、この当時ベースのアダム・クレイトン(Adam Clayton)以外の3人のメンバーがシャロームという宗教団体に入っていて、ロック人生と正しいキリスト教徒としての人生の間で、心が揺れていたということで、やめるという選択肢もあったそうです。」

Katchin'「宗教に入っていた3人がやめようかって言ったのですか。」

大貫「みんなキリスト教だけれども、その中でも特殊な戒律の厳しい所だったようですね。でも結局はバンドをやろうぜということで事なきを得たようです。続いて3rdの「War」からSunday Bloody Sunday、The Refugee。」



Katchin'「ボノはジョーイ・ラモーン(Joey Ramone)が亡くなるときに病室で看取った人なんですよ。さらにU2は自分たちのライブで、Swallow My Prideというラモーンズのセカンドアルバムに入っている曲を追悼で演奏しました。だからU2はいい人なんですよ。」

大貫「いい人だっていう噂は多いですね。ただ、そこが鼻にかけていて嫌だなっていう人もいますけれども。」

Katchin'「有名な人はワーストとベスト裏表ですから。しょうがないですよ。」

大貫「曲を聞いただけでも実際にいい曲作るしね。男らしいし正々堂々としている所は感じるし、サウンドも立体的で奥行きがあってカッコいいなぁってね。あの時代独特のものもあるし。今でも遜色ないし。1983年2月に三枚目のアルバムとして「War」が録音されているんですけれども、結局スティーブ・リリーホワイトとの最後の組み合わせとなりました。スティーブ・リリーホワイトは同じアーティストとは二枚仕事をしないという主義だったらしくて、でもここまで三枚やってるじゃないかということなんですけれども、それを曲げてバンドサイドが「よろしくお願いします」って言ったのでここまで付き合ったようですけれども、もうだめだよということになって、レコーディングがなかなかうまく進みませんでした。そこで、アメリカに行ったときに、ザ・クラッシュ(The Clash)のセカンドアルバムをプロデュースしたことでも知られるサンディ・パールマン(Sandy Pearlman)とセッションをしてみたそうですが、うまくいかなかったということで、同郷でLimerick Civic Week Pop出身のビル・ウィーラン (Bill Whelan)という人を起用して、The Refugeeという曲をプロデュースしてもらいました。ビル・ウィーランは1990年代にリバーダンス(Riverdance)という有名なアイリッシュの舞台作品があるんですけれども、これですごく有名になった作曲家兼プロデューサーなんですけれども、この人が無名の頃に協力してくれたという、いろいろないわくがある「War」なんですけれども、それでは最後にみなさんよくご存じだと思います。1983年1月にシングルが発売されて、私もよく使いましたU2でNew Year's Day。」



ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)、奇跡の3年間

Kenrocks Nite - Ver. 2 20180429 解説は大貫憲章氏です。

 1960年代に生まれたロックの一大レボルーションがサイケデリックロックです。まずはサイケといえばこの人でしょうという感じもあるかもしれませんが、ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)は、アフリカ系のお父さんとアメリカの先住民系のお母さんを持つ、いわゆるブラック・インディアンと昔はいわれていましたけれども、そのジミ・ヘンドリックスが最初に作ったグループがザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス(The Jimi Hendrix Experience)ですが、彼らのデビュー作品がまさに「Are You Experienced」なんですけれども、ではそのアルバムのタイトルトラックAre You Experienced。



 サイケは1960年代半ばくらいに誕生しました。何をもってサイケというかの定義はいろいろだと思いますが、これまでの音楽がポップスという形で、シングル盤を中心に3分間の娯楽としてやっていたものが、徐々にミュージシャンの意識だとか、社会の状況、録音機材の改良とか進化とかいろいろあって、音楽を3分間の楽しみというか聞いて楽しいなという楽しみだけじゃなくて、ミュージシャンの意識そのものを伝える、1960年代の世の中の事象とも合わさって、これまで音で表現できなかったことを表現してみようじゃないかとそういう風になってきます。「Revolver」だとかその前の「Rubber Soul」だとか、ビートルズ(The Beatles)あたりがその始まりだといわれていますが、コンセプトに基づいたアルバムを作ろう、シングルじゃなくてアルバムを作るという意味で、まさにエクスペリエンス、実験的なことをやろうという気運がありました。それは、中心地はアメリカとイギリスとヨーロッパの一部でしたけれども、世界的な気運として起こりました。ジミ・ヘンドリックスはその時代の寵児。人気者でもてはやされたんですけれども、そのジミ・ヘンドリックスは1942年、シアトル生まれですね。1970年に亡くなっているわけですけれども、15歳くらいでギターを覚えて、兵役に行ったのが1964年で、帰ってきて1965年から本格的なミュージシャン活動をしていろいろなバンドを転々として、自分のバンドは持ってないんですけれども、いろいろなところで演奏をしたという風に言われています。活動しているところを1965年の秋にアニマルズ(The Animals)のベースにチャス・チャンドラー(Chas Chandler)という人がいるんですけれども、その人に見いだされて、お前イギリスに来いよ、イギリスで一旗揚げようぜみたいなことを言われたのかどうかはわかりませんが、渡英して、オーディションでメンバーを見つけて、3人組のザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが活動を開始しました。そして、1967年にデビューアルバムの今ご紹介しました「Are You Experienced」を発売して、みんながブッたまげたということですね。エリック・クラプトン(Eric Clapton)曰く「誰もジミのようには弾けない」って言って、ジェフ・ベック(Jeff Beck)なんかは「俺は廃業しようと思った」なんて言ったとか、そのくらいショックな彼の登場でした。確かに手法が、技術的なものも含めて、独特なサウンドが聞けましたよね。ジミ・ヘンドリックスは自分の音楽のことを「エレクトリック・チャーチ・ミュージック」、要するにエレキの教会音楽と自ら言っていたんですけれども、まさにそういうような印象ですよね。実質1967年にデビューして1970年に亡くなっちゃうわけですから、3年間なわけですね。その3年間で普通のミュージシャンが一生かかってもできないような所に到達しちゃったと思うんですよね。スーパースターはこういう風に生まれて、こういう風に去っていくっていう一つの形を作っちゃいましたけれどもね。
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