音楽のおべんきょうφ(.. )メモメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

現代のジャズ概観

  • 2014年12月14日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十二回「ジャズよ永遠なれ 」から現在のジャズを概観します。

Christian McBride



Lewis Nash


David Murray



Steve Coleman



Joe Lovano



Jacky Terrasson



Greg Osby



Geri Allen



Marcus Roberts

 

Joshua Redman


 
Cassandra Wilson - death letter



Gonzalo Rubalcaba - fying collors

MC Solaar & Ron Carter - Un Angel En Danger



Regina Carter - Beau Regard



Nicholas Payton - Wild Man Blues

 

1960年代以降のジャズ

  • 2014年12月13日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十二回「ジャズよ永遠なれ 」から1960年代以降のジャズについてまとめます。

1、ジャズからロックへ

 (1)、ジャズからロックへ

  ①、意義
 
   ・1960年代に入るとロックに人気が集まり、若者はロックが聞ける場所へ行き、老人はテレビを見るようになった。追い詰められたジャズミュージシャンはカクテルラウンジやバックバンドやロックミュージシャンのレコーディングなどどんなところでも仕事をするようになった。そして、この流れに乗れなかったものは音楽をやめていった。また、大勢のミュージシャンがまだジャズの人気が高かったヨーロッパに渡っていった。

  ②、デクスター・ゴードンの場合

   ・デクスター・ゴードンはビ・バップの花形サックスプレイヤーであった。背が高くハンサムであったので、サックスをステージ上で組み立てただけで観客の目をひきつけた。しかし、1960年代にはいるとそのゴードンですら仕事を見つけるのが難しくなってきた。ゴードンは1962年から活動の拠点をヨーロッパに移した。

 

 (2)、ジャズクラブの相次ぐ閉鎖

  ・ルイ・アームストロングが演奏したシカゴのリンカーンガーデン、レスター・ヤングやカウント・ベイシーやチャーリー・パーカー達が出演したカンザスシティーのクラブ、デューク・エリントンのホームグラウンドであったハーレムのコットングラウンド、チック・ウェブやエラ・フィッツジェラルドが大勢の人々を魅了したサボイボーイルーム、オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンが前衛的なジャズを披露したファイブスポットなどは閉鎖をした。また、チャーリー・パーカーのニックネームからつけられたバードランドでは、ジャズのかわりにリズムアンドブルースが演奏されるようになっていた。そして、1968年、マンハッタンに残った最後のジャズクラブがその幕を降ろした。

 (3)、ルイ・アームストロングの「Hello, Dolly」

  ・ビートルズの出現によってポピュラーミュージックの王座は完全にロックのものとなった。以前から商業的に低迷していたジャズはますます片隅に追いやられるようになった。しかし、そんな中でルイ・アームストロングの「Hello, Dolly」がビートルズの「Can't Buy Me Love」にかわって全米ナンバーワンの座に輝くという快挙がおこった。ジャズの最後の輝きであり、後にジャズがこれほどのヒットを飛ばすことは二度となかった。



2、ウィントン・マルサリスの登場

 (1)、ジャズの衰退

  ・1930年代末、スイングを中心としたジャズは音楽産業の売り上げの70%を占めていた。しかし、1970年代半ばになると3%にもみたない数字に落ち込んでいた。1975年、マイルス・デイビスは「ジャズは死んだ。あれは博物館の音楽だ。」といった。活躍していたジャズミュージシャンは、ケニー・カーターやロン・カーターなど極少数の人のみであった。以前だったらジャズミュージシャンを目指すような才能ある若者は、別の世界に流れていった。

 (2)、ウィントン・マルサリスの登場

  ・ドラマーのアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズにウィントン・マルサリスは加入し、その演奏が大絶賛を浴びる。その後、1981年に最初のリーダーアルバム「Wynton Marsalis」はアコースティックジャズのアルバムとしては久しぶりの大ヒットとなり、ジャズ人気復活の大きなきっかけをつくった。さらに、ウィントンの兄であるブランフォード・マルサリスをはじめとして、ウィントンの周辺から有能な新人が大勢出てきて、1980年代に入ったとたん瀕死の状態であったジャズに新しい才能が次々と出てくるようになった。

 

  ・ウィントンの快進撃はその後も続き、1980年代にはジャズとクラシックの両部門でいくつものグラミー賞を受賞、そして1995年には黒人奴隷の歴史をテーマとした「Blood on The Fields」によってジャズミュージシャンとしてはじめてピューリッツァー賞を受賞した。ウィントンの活躍によって、いくつかのレコード会社は再びジャズのプロモーションに力を入れるようになった。

 


オーネット・コールマン(Ornette Coleman)について

  • 2014年12月12日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十一回「4人の巨人たち 」からオーネット・コールマンについてまとめます。

1、意義

 ・今までのジャズはリズム、コード、ハーモニーといった一定の規則に基づいて演奏を行い、その中で独自の表現を確立していった。そのすべてを拒否してジャズはもっと自由でなければならないと宣言したのが、オーネット・コールマンである。さらに、コールマンの音楽はジャズに新鮮なインスピレーションを与えるとともに、ジャズとは何かという根本的な問いを発した音楽でもある。

 

2、フリージャズの誕生

 (1)、フリージャズの試み

  ・コールマンはロスアンジェルスの小さなガレージで、ドン・チェリー、ビリー・ヒギンズ、チャーリー・ヘイデンなど彼と同じ考えを持つミュージシャンとセッションを続けた。このジャズの既成概念を破る演奏は次第に大きな注目を浴びるようになる。

 (2)、ニューヨークへ

  ・1959年11月、コールマンのカルテットはジャズの中心地ニューヨークへ乗り込み、先進的なミュージシャンが出演するファイブスポットで演奏をした。ウィルバー・ウェア、チャールズ・ミンガス、ポール・チェンバース、パーシー・ヒースなどニューヨーク最高のジャズミュージシャンやレナード・バーンスタインのようなクラシック系の人たちまでが見に来ていた。彼らは週六日で四ヶ月ほど演奏したが、毎晩店は満員であった。

 

 (3)、「Free Jazz」リリース

  ・1961年、コールマンは「Free Jazz」というタイトルのアルバムを発表した。このアルバムはFree Jazzという曲一曲だけがレコードの両面をしめるアルバムである。このアルバムはジャズという音楽の定義について、果てしない論争を巻き起こした。

 

3、フリージャズの評価

 (1)、肯定的な評価

  ・クラシックの巨匠レナード・バーンスタインはコールマンを天才だと絶賛し、ジョン・コルトレーンもコールマンを高く評価して時々セッションを行った。ベーシストのチャーリー・ヘイデンは「本当に優れたミュージシャンとは、枠にとらわれないミュージシャンのことであると信じている。例えば、コールマン・ホーキンスやセロニアス・モンクやバド・パウエルの即興演奏をきくと、彼らはある一線を越えたところに立っていたのがわかる。とても自由で、とても深く、そして自分の命をかけたレベルで演奏していた。フリージャズもそれをやった。」とする。

 (2)、否定的な評価

  ①、ミュージシャンの意見

   ・トランペッッターのロイ・エルドリッチは「酔っ払って聞こうがシラフで聞こうがヤツの音楽は理解できない。」と評し、またマイルス・デイビスも「グチャグチャ混乱しているだけだ。」と否定的であった。

  ②、評論家の意見

   ・作家のアルバート・マリーは「すべての芸術は必ず一定の形式を備えるもので、それがなくなればただの混乱と無秩序に陥る。ジャズも同じで、ジャズの自由とは形式がないということではなく、ただ好き勝手にやればいいというものでもない。」とする。

ジョン・コルトレーン(John Coltrane)について

  • 2014年12月11日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十一回「4人の巨人たち 」第十二回「ジャズよ永遠なれ 」からジョン・コルトレーンについてまとめます。

1、意義

 ・コルトレーンは他の偉大なミュージシャンと同様に音楽をそれまでとは違う次元に引き上げようとした。そして試行錯誤の上、今までにないほど精神的な要素をジャズに持ち込むことに成功した。

2、出生

 ・コルトレーンは1926年、ノースカロライナの小さな町で生まれ、十代になるとフィラデルフィアに移った。フィラデルフィアでは二つの音楽学校に通ってサックスを学び、リズムアンドブルースを演奏し、レスター・ヤングを聞き、やがてディジー・ガレスビーのビックバンドに参加した。

3、セロニアス・モンクとの出会い

 ・1955年、コルトレーンはマイルス・デイビスのバンドに採用されたが、ドラックに溺れていた為に二年後には解雇された。そんなコルトレーンを救ったのがセロニアス・モンクであった。コルトレーンはモンクとともに演奏することによって霊的な覚醒を経験し、それ以後はドラック・酒・たばこを絶ち、東洋の宗教やアジアやアラブ、アフリカなどの音楽を学び始めた。このようなコルトレーンが作り上げた音楽は、深い精神性とより多くの音に満ちたエネルギッシュな音楽であった。 

 

4、 「My Favorite Things」

 ・1961年、コルトレーンは、ピアノはマッコイ・タイナー、ベースはジミー・ギャリソン、ドラムはエルビン・ジョーンズというリーダーのどんな要求にもこたえられる達人ぞろいの最強バンドを結成する。この頃からコルトレーンは新たな表現手段としてソプラノサックスを弾くようになる。 My Favorite Thingsをレパートリーに加え、この曲をより芸術性の高いものにしていった。この頃には、コルトレーンはすでにマイルス・デイビスと並ぶジャズ界の大スターとなっていたが、彼自身は商業的な成功には感心がなかった。

 

5、アバンギャルド

 ・コルトレーンは宗教的な音楽を作ろうとしていた。それがアバンギャルドと呼ばれる前衛的なジャズとなり、アバンギャルドの守護神となった。

 

6、「A Love Supreme」

 ・1964年、コルトレーンは「A Love Supreme」というアルバムを発表する。これは四つのパートからなる組曲構成のアルバムであり、この作品はベストセラーとなりその後のジャズに絶大な影響を与えた。

 

7、コルトレーンの死

 ・「A Love Supreme」もコルトレーンはたくさんのアルバムをふき込んで、精神的・前衛的な音楽を究めていくが、1967年7月16日にコルトレーンは癌のためこの世を去る。享年40歳であった。

 

ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)について

  • 2014年12月10日
  • JAZZ
今回は「JAZZ」の第十一回「4人の巨人たち 」からソニー・ロリンズについてまとめます。

1、チャーリー・パーカーの死

 ・1950年代後半から1960年代のはじめ、ジャズは幅広い展開を見せながらも商業的にはかつての栄光を取り戻せずにいた。ベニー・グッドマンはジャズよりもクラシックを演奏することが多くなり、デューク・エリントンやカウント・ベイシーやディジー・ガレスビーはなんとかツアーを続けていたが昔ほどの人気は得られなくなっていた。このような苦しい状況から、ジャズをさらに発展させてゆこうと意気込む若者が登場した。その代表がソニー・ロリンズである。彼らは、ビ・バップの到達地点よりさらに先に進むべく、リズムやコード、ハーモニーなどに関する古い概念は次々と打ち壊されていった。

 ・ジャズの名の下にさまざまなスタイルが生み出されていったが、極端な多様性はジャズという音楽のアイデンティティーを不明瞭なものにする危険性もはらんでいた。1955年にチャーリー・パーカーが世を去って以降、発展と混乱をくりかえしながらジャズは急激な変化をみせることになる。

2、出生

 ・マンハッタンのウエストサイドで生まれる。セロニアス・モンク、バド・パウエル、コールマン・ホーキンスといった偉大な先輩達の家のすぐ近所であった。よって、ロリンズは彼らの音楽を次々と自分の中に吸収していった。

3、ライブ重視

 ・ソニー・ロリンズはレコードは人々をライブ会場へ連れ出す広告にしか過ぎずレコードの価値を信じなかった。その代わりライブでは、他のプレイヤーのように家で熱心に練習していたフレーズをそのまま弾くのではなく、ロリンズはその場で生まれた即興だけにすべてをかけ、ものすごい演奏を披露した。ロリンズのジャズの豊な伝統を弾きつぎながらも無限の創造力に溢れたソロ演奏は多くの人を魅了した。 

 

4、突然ライブを行わなくなる

 ・自分自身に厳しいロリンズは自分の演奏に満足していなかった。1959年、人気の絶頂にあったロリンズは突然ライブの演奏を行わなくなり、イーストリバーにかかる橋の上で一人黙々とサックスの練習をするようになる。戻ってきたロリンズは今までよりもさらにすごい演奏を披露するようになる。

5、リズム重視

 ・ソニー・ロリンズはジャズにとってメロディーよりもリズムの方がはるかに重要であることを理解していた。ロリンズはたった一つの音程を使って激しくスイングすることさえできた。彼はさまざまなリズムパターンと複雑なハーモニーを一つの音楽の中で見事に融合させた。

 
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