ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

デイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck)について

  • 2014年12月09日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十回「バードの死 」からデイヴ・ブルーベックについてまとめます。

1、意義
 
 ・戦後、人口が急増していったウエストコースとでデイヴ・ブルーベック率いるカルテットは新世代のジャズを切り開いていった。

2、来歴

 (1)、ユニークな拍子

  ・ブルーベックは戦地から戻った後、フランス人の作曲家ダリウス・ミヨーのもとで音楽を学んだ。ミヨーはブルーベックに「世界中のいろいろな文化の音楽に耳を傾けなさい。そこで感じた新鮮なものをすべてジャズの表現に持ち込みなさい。」と説いた。例えば、ブルーベックはトルコのある町で、二拍子と三拍子を合わせた八分の九拍子という今まで聞いたことのないようなリズムの即興演奏に出会い、それを楽曲に取り入れていった。

 (2)、デスモンドとブルーベック

  ・ブルーベックは1951年に水泳中の事故で首を痛めてピアニストとしての危機に瀕した。しかしあきらめずにメロディーを奏でるのではなく和音を連打するブロックコードの手法を使い始める。それがカルテットのアルト・サックス奏者のポール・デスモンドの演奏と合わさって完璧なものとなった。彼らは新しい演奏を獲得したのである。

 (3)、名曲「Take Five」

  ・アルバム「Time out」を製作中に、ブルーベックは今までになかったジャズのリズムに挑戦するつもりであった。その時、デスモンドに五拍子で何かやらないかと持ちかける。デスモンドはいくつかのフレーズを考えてブルーベックに示す。そうして完成したのが「Take Five」である。また、この曲が入ってるアルバム「Time out」はジャズ史上ではじめて100万枚以上を売り上げる大成功をおさめた。

セロニアス・モンク(Thelonious Monk)について

  • 2014年12月08日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十回「バードの死 」からセロニアス・モンクについてまとめます。

1、意義

 ・モンクはジャズの流行には左右されずに独自の音楽を展開したミステリアスなピアニストであった。モンクはいつも不思議な帽子をかぶり、ひじで鍵盤を叩いたり演奏中にダンスをはじめることもあった。しかし、モンクの音楽の背景にある音楽や理論は数学者が組み立てたみたいに緻密であり、モンクの奏でるソロは一点の隙もない論理の傑作であった。

 

 ・モンクはめったに他人の曲を演奏せずに自分がやりたい音楽は自分で作ることに決めていると語っていた。モンクのナンバー、52nd Street Theme、Straight No Chaser、Round Midnightなどは長い年月をかけていまではジャズのスタンダードになっている。

 



2、来歴

 ・1917年、ノースカロライナ州で生まれてニューヨークのウエストサイドで育った。十代の頃から宣教師とともに各地をまわり、ゴスペルにどっぷりとつかった。1941年頃、ビ・バップ草創期のミントンズ・プレイハウスでモンクは中心的なピアニストになっていた。しかし、モンクのサウンドはかつてハーレムで流行したストライド奏法や、さらにはデューク・エリントンから引き継いだ味わい深い響きがいきづいていたが、当時の評論家達はモンクの風変わりなパフォーマンスに目を眩まされてその斬新な音をどう評価してよいのかわからなかった。ジャズ誌ではその演奏が酷評されていた。

 ・1951年、モンクと友人が乗る車からドラックが発見されて、無実であったにもかかわらず彼はニューヨークのクラブから締め出される。この後6年間、モンクは狭いアパートに閉じこもって作曲活動に専念した。そして1957年にアルバム「Brilliant Corners」が発表されたとき、世間はようやくモンクの才能に気づいた。

モダン・ジャズ・カルテット (Modern Jazz Quartet)

  • 2014年12月07日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十回「バードの死 」からモダン・ジャズ・カルテットについてまとめます。

 ・ピアニストのジョン・ルイスはチャーリー・パーカーを尊敬していたが、ジャズミュージシャンのドラック漬けの生活や自堕落さにはうんざりしていた。1952年、ルイスは思いを同じくするビ・バップの仲間達と集い、モダン・ジャズ・カルテットを結成する。彼らは、騒々しいナイトクラブよりも上品なコンサートホールを好み、入念なリハーサルの上で、タキシードを着用し、ステージでは観客との戯言は一切なしのショーを展開した。ビブラホーン奏者のミルト・ジャクソンは「ジャズミュージシャンはドラック常習者ばかりではない」と語った。ジョン・ルイスはデューク・エリントンを尊敬し、プレイヤーは常に品位ある演奏を心がけるべきだと主張した。

 

バド・パウエル(Bud Powell)

  • 2014年12月06日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十回「バードの死 」からバド・パウエルについてまとめます。

 ・バド・パウエルはビ・バップの複雑な演奏法をキーボードの世界に取り込んだ。彼の高度なテクニックと独創的な演奏は、チャーリー・パーカーやディージー・ガレスビーを超えたとまで言われた。

 

マイルス・デイビス(Miles Davis)について

  • 2014年12月05日
  • JAZZ
 今回は「JAZZ」の第十回「バードの死 」第十一回「4人の巨人たち 」第十二回「ジャズよ永遠なれ 」からマイルス・デイビスについてまとめます。

1、出生

 ・1926年、イリノイ州のイーストセントルイスで生まれる。父は名のある歯科医であり、マイルスは大方のジャズミュージシャンが経験したことがないような裕福な環境で育った。13歳でトランペットをはじめて、18歳の時にチャーリー・パーカーとディジー・ガレスビーがセントルイスを訪れた際に二人と演奏をする機会を得た。

2、ニューヨークへ

 (1)、チャーリー・パーカーとともに

  ・ニューヨークへ出て音楽学校に入るが中退し、その後はチャーリー・パーカーと定期的に一緒にトランペットを吹くようになる。

 (2)、「クールの誕生」

  ・1949年、マイルスはニューヨークのギル・エバンスのアパートに出入りするようになる。やがて、ギル・エバンスとともに新しい9人のバンドを結成する。このバンドが人前で演奏したのはたった二回であったが、これをきっかけとしてメジャーレーベルの招きをうけ、いくつかの曲をレコーディングした。こうして完成したのがアルバム「クールの誕生」である。

3、フランスへ

 ・1949年、マイルスはパリへ行き、パブロ・ピカソと出会ったり、ジャン・ポール・サルトルとカフェで語り合ったり、歌手のジュリエット・グレコと激しいロマンスに落ちたり、ものの見方を変えることになった旅に出る。ヨーロッパで味わった自由、開放感はマイルスの人間性を一回り大きくした。

4、薬物問題

 (1)、ドラック中毒になる

  ・1949年のヨーロッパ旅行から帰国したあたりから、マイルスは薬物問題で苦しむようになる。最初はヘロインを鼻から吸い、やがて直接静脈に注射するようになった。ドラックを買うために友人達の物を盗んだり、自分のトランペットでさえ質に入れたりするようになった。

 (2)、逮捕

  ・ロスアンジェルス滞在中にドラックを所持していた容疑をかけられる。その場は罪を逃れたが、マイルスにドラックをやめさせたい父親が自ら息子であるマイルスを逮捕させた。

 (3)、ドラック中毒からの帰還

  ・ボクシングミドル級チャンピオンシュガー・レイ・ロビンソンが戦う姿にマイルスは再起の力を得る。1954年、ドラックを絶つ決心をしたマイルスはハリウッドから故郷イリノイ州の父親の農場へ移り、小さな小屋の一室にこもってドラックの禁断症状と闘い、そして打ち勝った。

5、薬物問題からの復帰

 ・マイルスはヘロインの依存から立ち直ると、失われた時間を取り戻そうとした。彼は当時所属していたプレステッジというレーベルのもとで何枚ものレコードを吹き込み、そこで、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルバー、ミルト・ジャクソン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーンなど多くの才能あるミュージシャンと競演した。復帰したマイルスはジャズの最前線に踊りだし、次々と確信的な音楽スタイルを生み出した彼は、1991年に亡くなるまでジャズの帝王として君臨するようになる。

 

6、マイルスの音楽の特徴

 ・マイルスのサウンドの特徴は明確さである。彼は長いメロディーラインを美しい音で演奏し、しかも常にスイングしていた。彼は他のメンバーにもなすべきことをキッチリと伝えたので、どのレコードを聴いてもアラというものが見つからない。それぞれの演奏が持つ意味や役割が非常に明快であった。

 ・マイルスは自分と全く異なるミュージシャンと競演し、その個性を自分の音楽に取り入れるのが得意であった。例えば、セロニアス・モンクと競演したときは、モンクのユニークな間の感覚を取り入れた。モンクは少数の音を効果的に奏でることで最大の効果を得たが、マイルスもこのような効果的な音の使い方をモンクの音楽から学び取っている。

 

7、マラソン・セッション

 ・マイルスの薄い氷の上を歩くようなバラードがうけて、マイルスの人気は急上昇していった。彼は自分の音楽がさらに多くの人に聞かれることを望み、当時王手のレコード会社であったコロンビアレコードと新しい契約をかわした。しかし、プレステッジレーベルとの契約がまだ残っていたため、マイルスはたった二日間で四枚分のレコードのレコーディングを行うことにした。このレコーディングは後にマラション・セッションと呼ばれるようになる。ほとんどの演奏が一回でOKとなった。

8、黒人としての差別

 (1)、黒人としての差別

  ・当時はまだ白人中心社会であったアメリカにおいては、いかなる成功や名声を得ても黒人は差別された。マイルスですら自分が黒人であるという理由から、ホテルの予約が取り消されていないかを恐れていた。ある晩、バードランドに出演したマイルスが外で休憩をしていると、白人の警官がやってきてそこから立ち去るように命じられる。これに反抗したマイルスに対して警官がマイルスを警棒で叩くという事件も起こっている。

 (2)、音楽で差別をしないマイルス

  ・マイルスが本当に優れたミュージシャンとみなしたみなしたメンバーは、ジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイ、ポール・チェンバース、ジミー・コブ、そして白人ピアニストのビル・エバンスであった。当時は白人が演奏するウエストコーストジャズが流行しており、若い黒人ミュージシャンの中にはそれを恐れて白人にジャズはできないという雰囲気があった。しかし、マイルスは音楽において肌の色を気にせず、白人のビル・エバンスを起用した。このマイルスとビル・エバンスによって作られたのが名盤「Kind Of Blue」である。

9、「Kind Of Blue」

 ・1959年、マイルスはアルバム「Kind Of Blue」を発表する。このアルバムでマイルスが全面的に採用したのが、コードではなく音階をもとにした演奏法であるモード奏法であった。ビ・バップ以降ジャズミュージシャンはコードにもとづいて演奏を行ってきたが、その手法はやりつくされてマンネリ化する傾向があった。またコード進行も複雑になりすぎて即興の可能性を狭めていた。そこでマイルスは複雑なコードではなくシンプルな音階をもとにして演奏することで、より自由にメロディーをつくり出せるようにした。このモード奏法を駆使することによって即興演奏の自由度が高くなり、ジャズに新しい可能性をもたらした。

 

10、「黄金のクィンテッド」

 ・1964年に、サックスはウェイン・ショーター、ベースはロン・カーター、ドラムはトニー・ウィリアムス、ピアノはハービー・ハンコックという強力なメンバーをそろえた通称「黄金のクィンテッド」と呼ばれるバンドを結成する。また、マイルスは以前はアバンギャルドに否定的であったが、この頃になると取り入れてより複雑で創造力豊な音楽を作り出すようになっていた。この「黄金のクィンテッド」は感情を共有し合い、型にはまったお約束のフレーズといった古い決まりごとにとらわれることなく、一人が自由に音楽を奏でれば他のメンバーがそれについてゆくという理想的なチームワークが生まれていた。

11、エレクトリック時代

 ・「黄金のクィンテッド」によってジャズの頂点を究めたマイルスは、今までのジャズを大きく踏み越えた音楽をめざすようになる。マイルスは伝統的なジャズの楽器編成を捨て去り、ベースやキーボード、ギターなどをアコースティックからエレクトリックに置き換えていった。それにともない、音楽はかつてないほどにリズムを強調したものに変化していった。マイルスの新しい音楽は、フュージョンと呼ばれる音楽スタイルのさきがけとなった。1970年の「Bitches Brew」はマイルスのエレクトリック時代の代表するアルバムで、セールス的にもロックのアルバムに匹敵する大成功をおさめた。

 

 ・しかし、これまでのジャズと大きく違うサウンドについてこれないファンも多くおり、マイルスは大きな賞賛と批判の両方をうけることになった。作家のジェラルド・アーリーは「アコースティック時代のマイルスは、自分の音楽的ビジョンを生かしつつメンバー全員の個性を引き出すのが得意であった。ところがエレクトリック時代に入ると、そのようなことは失われてしまった。あまりにも多くのことが同時進行し、バンドのメンバーがお互いの演奏をよく聞かなくなってしまったからである。互いの音を聞きながら演奏するジャズ特有の緊張感はどこかに消えてしまった。」と評する。
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