ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本のロック史(10) マーケティングポップの時代 1991年~?

1、マーケティングポップとは?

 ・バンドバブルが崩壊した後にやってきたのはマーケティングポップの時代である。需要サイド(ポップの「消費者」である人々)の欲求を汲みながらつくられる、ある意味で緻密に計算されたポップの時代である。この種のポップでは、供給(制作)側の主役はミュージシャンでもソングライターでもない。レコード会社、プロダクション、テレビ局、広告代理店、それにミュージシャン・作詞家・作曲家・編曲家などによる共同作業によってはじめて生産される。アメリカのショービジネスに端を発するこの手法そのものは、70年代後半から徐々に日本にも浸透していったもので、必ずしも新しいスタイルとはいえない。しかし、90年代に入って、ビーイングなどの有力プロダクションが、これを徹底させるようになってから俄然注目を集めるようになった。少なくともメジャーシーンでのビッグヒットは、なんらかのかたちでこの手法を使っている。

 ・ユーミンが独自の情報収集力を発揮して時代の特性をさぐり、自らの作品に反映させていることは有名な話である。ビッグヒットを継続的に放つ他のミュージシャンも、ユーミン同様の作業をどこかで行っているはずである。が、テレビドラマやCMなどとのタイアップを通じて、ヒットづくりに関わる一連の作業がシステムとして自覚的・組織的に行われるようになったのはやはり90年代の特徴といえる。しかも、もはやCDの売り上げだけが目標ではない。ビデオソフトとしての作品化も同時進行的に行われるから、ビジュアル面での配慮も以前にまして重要になっている。おまけに、カラオケ時代の本格化で、カラオケでいかに歌われるかまで見通した曲作りも求められる。こうして生みだされたマーケティングポップにはミュージシャンの顔は必要ない。言い方を換えれば、無名のミュージシャンを多数ストックしておいて、マーケティング装置のはじき出した理想的なミュージシャン像にいちばん近い人物を選びだせばよい。

2、マーケティングポップの功罪

 (1)、いい面

  ・ポップのこうした生産方法は、必ずしも責められることではない。消費者の嗜好に合った商品をつくるのが市場経済の道理である。逆に言えば、消費者の嗜好に合わないものは淘汰されてしかるべきである。

 (2)、問題点

  ・現在のマーケティングポップが、万能であるという保証はない。ポップはいつもその内部から革命家を生み、旧体制ポップが新体制ポップにとってかわられることで命脈を保ってきた。誤解をおそれずにいえば、ロックとは、古いポップ体系を革新する新しいポップ体系を指すタームなのである。マーケティングポップがビジネスとして正しいとしても、新しいポップの体系が、この手法を通じて生まれるとはかぎらない。おそらくは予想もしないところから新しいロックの胎動・新しいポップの発生が見られるに違いない。マーケティングポップのように需要が供給をつくるのではない、供給が新規の需要をつくるのだ。それこそがロック的な経済原理である。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(9) バンド・バブルの生成と崩壊  1988~90年

1、バンド・ブームの到来

 (1)、アマチュアバンドが増えた理由

  ①、ティーンエイジャーは、誰もが尾崎豊のように吐き出したいメッセージをもっていた。誰もが布袋寅泰のようにタテノリ8ビートに載せてカッコよくギターを弾いてみたかった。

  ②、アナログ盤からCDへの移行もほぼ完了、CD単価も下がったし、貸レコード屋も乱立気味となったから、今までよりもずっと安価に音楽を聴けるようになった。

  ③、デジタル化・大量生産化を通じて楽器価格は相対的に安くなり、貸スタジオも急増した。

 (2)、ライブハウスが足りない

  ・87年頃までの大都市圏におけるライブハウスの数は急増した。ところが、アマチュア・バンドの数がそれを上回るペースで増えていったのである。そこで、ライブハウスを閉め出されたアマチュアバンドは、もともと竹の子族などのストリートパフォーマンスの場だった東京原宿の歩行者天国・ホコ天に進出、80年代末にはストリート・ライブのメッカに変えてしまった。毎日曜日、物見遊山の客に混じって、アマチュアバンド予備軍が押し寄せ、翌週にはその予備軍がギター片手にホコ天に立つといったように、ホコ天バンドの数は急速に増え、いよいよバンドブームは本格化する。

 (3)、イカすバンド天国

  ①、イカすバンド天国がはじまる

   ・89年2月よりTBS系「イカすバンド天国」(通称イカ天)の放映がはじまる。これはかつての「勝ち抜きエレキ合戦」のようにアマチュアロックバンドのコンテスト番組だったが、この番組が刺激になってバンドの数はますます増えていく。いよいよ空前のバンドブームが訪れることとなるのであった。

  ②、主なホコ天・イカ天出身バンド

   ・THE BOOM、KUSU KUSU、JUN SKY WALKER(S)、AURA、たま、JITTERIN'JINN、FLYING KIDS、BLANKEY JET CITYなどである。また、ホコ天・イカ天ブーム以前の80年代半ばからライブハウスで人気を博し、バンドブームに乗ってブレイクしたバンドとしてTHE BLUE HEARTS、THE STREET SLIDERS、UNICORN、筋肉少女隊、レピッシュ、BUCK-TICK 、X JAPAN、ZIGGYなどである。

 (4)、バンドブームの終焉

  ・ポップのライブ化・ビジュアル化にあわせて、イカ天・ホコ天期のミュージシャンの多くが、衣装・メイク・パフォーマンスにおける過剰とも思えるほどの自己演出に走ったが、一部を除いて音楽的にはむしろ保守的で、既存の音の枠組みから良くも悪くも抜け出せなかった。よって、90年頃になるとブームは急速にしぼんでしまう。実質的には、ビジュアル面での派手さとメッセージ指向の挑発的な言葉だけがブームを支えていたのだから、ひとたび飽きられればその衰退もあっけないほどであった。バブル経済の崩壊・平成不況のはじまりがバンドバブルの消滅を加速させていった。

2、アンチ・ドメスティックの動き

 (1)、意義

  ・バンドブームに対して一線を画し、前の時代のプライベート化・セグメント化の流れを受けて、自分たちの表現を磨くことに専念し、結果的にバンドバブルを乗り越えていった一群のミュージシャンたちがいる。

 (2)、代表格

  ・BO GUMBOS、エレファントカシマシ、ニューエスト・モデル、フリッパーズ・ギターなどで、超ドメスティックな環境のなかで自足してしまっているロック/ポップの主潮流に反発するような活動でその支持層を拡大していった。

 (3)、ワールドミュージック

  ・アンチ・ドメスティックの動きはワールド・ミュージックというタームの下に登場したミュージシャンによっても展開された。たとえば、上々颱風や沖縄のりんけんバンドだが、彼らは、ルーツにこだわることを通じて、逆に開かれたロック/ポップが生みだされることを身をもって示した。

 (4)、大阪出身のバンド

  ・ドメスティックなバンドバブル状況は、ホコ天・イカ天に例をとるまでもなく、東京を中心に形成されたが、実際にこの時期以降、国際的に評価されるようになったのは、大阪から生まれた少年ナイフやボアダムズなどである。後にやはり大阪出身者主体のオルケスタ・デ・ラ・ルスが、ビルボードのサルサ・チャートでナンバー1になるという快挙も成し遂げる。

 (5)、ヒップホップ

  ・日本語ラップやヒップホップを指向する近田春夫やいとうせいこうはそもそも土着的な移入文化をあえてもちこむことによって、閉じようとするロック/ポップ状況をダイナミックに動かそうとした。この動きはスチャダラパーや電気グルーヴなどの援軍を得て現在も継続中だ。

 (6)、ポップ

  ・パール兄弟、ピチカート・ファイヴなどが80年代半ばからつづけていた、ロックを越えたポップの体系を見すえながらの意識的な活動は、後にその一部は渋谷系と称されるようになる。

 (7)、ネオ芸能的なエンターテインメント型ポップ

  ・爆風スランプや米米CLUBなどといったネオ芸能的なエンターテインメント型ポップも開花する。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(8) ロックの大衆化とプライベート化  1983~87年

1、ロックの大衆化

 (1)、ロックの大衆化

  ・テクノ/ニューウェイブの時代が過ぎ去った83年頃になると、もはや誰も「日本ロック」の存在に疑いを抱かなくなった。ロック/ポップ/歌謡曲のあいだの境界線が事実上消滅してしまったのである。これが、ロックの定着、そして大衆化である。矢沢永吉、山下達郎、RCサクセション、サザンオールスターズ、浜田省吾など70年代に登場したバンドやミュージシャンはすっかりメジャー化し、チャートの常連になっていた。佐野元春、大沢誉志幸などの新人もこうしたベテラン勢に負けない活躍をはじめた。

 (2)、メタルシーンの定着

  ・カルメン・マキ、紫、BOWWOWなどの活躍を経て、LOUDNESSの海外での評価に結実したジャパニーズ・ハード・ロックもいよいよヘヴィメタル時代に入って、44MAGNUM、EARTHSHAKERなどの人気バンドの出現でますます盛り上がっていった。こうしたなか、浜田麻里などのギャルズメタルや聖飢魔IIのような芸能メタルも登場して、ヘヴィメタ系も一大勢力として認知されるようになった。

 (3)、尾崎豊とBOOWY

  ①、尾崎豊

   ・ティーンズの大半は、大衆化の主役だったベテラン組がでは満足できなかった。彼らが求めたのは音的な新機軸やポップとしての精神性の高さなどではなく、“怒れる若者・悩める若者の代弁者”としてのアイドルだった。こうした期待を一身に背負うようにして登場したのが尾崎豊である。音として新しい点はほとんどなかったが、83年のデビューと同時に多くのティーンズの心を捉え、彼らのあいだに「メッセージ・ソング・ロック」という幻想さえつくりだした。大バンドブーム期に、メッセージ型ミュージシャンが多数生まれるが、そのきっかけの一つをつくったのはまちがいなく尾崎豊である。

  ②、BOOWY

   ・尾崎豊と同じく83年に登場したのがBOOWYである。彼らによって日本ロックのオリジナリティは完成された。すなわち、テクノ/ニュー・ウェイヴ期まで、日本のロックは“移入文化”の痕跡をとどめつつ「日本固有の現在を表現しうる新しいポップの体系を構築しようという意思」が見えかくれしていたが、BOOWY以降、ポップシーンの表舞台からそうした意思を見いだすのは困難になった。洋楽としてのロックは、文化ではなく、たんなる技術・技能になったのである。音の向こう側にある文化やライフスタイルはもうどうでもよかったのだ。それは、自動車・家電などの分野で欧米市場を支配し、多額の貿易黒字に浮かれた80年代半ば以降の経済環境、そして同時期の虚勢にも似た日本人の“自信”をもろに反映したものだったのである。

  ③、まとめ

   ・こうして尾崎豊とBOOWYを軸としながら日本ロックにはかつてないほどのドメスティックな環境が生まれることになった。それは、オリジナリティの開花と見ることもできれば、ある種の鎖国状態とも見ることのできる。

2、ロックのプライベート化

 (1)、ロックのプライベート化

  ・こうした大衆化とは相反する動き、つまりプライベート化・セグメント化(細分化)も生まれた。

 (2)、パンクからハードコア・パンクへ

  ・パンクやニューウェイヴに触発された“80年代生まれ”のバンドやミュージシャン達にとって、メジャーのロックはすでにロックではなく、たんなる旧体制ポップにすぎなかった。彼らはメジャー相手に正面から戦いを挑むのではなく、自分たちのシーンをゲリラ的・ミクロ的に確立した。スターリンの影響下に生まれたハードコア・パンクが、こうした流れを象徴している。

 (3)、インディーズレーベルの出現と形骸化

  ①、インディーズレーベルの出現

   ・こうした流れを受けて、レコードビジネスの側にも一大変化が訪れた。多数のロック系のインディー(独立)・レーベルが誕生したのである。ナゴム、 ADK、AA、アルケミー、セルフィッシュなどがその代表だが、この動きは東京から地方にも波及、おまけに大手レコード会社までレーベルをあらたに設立して、インディーズは一種のブームにまでなった。音楽的な指向性も背景も異なるバンドがインディーズという言葉で一括され、LAUGHIN' NOSE、THE WILLARD、有頂天の三バンドをインディーズ御三家と呼ぶような風潮も生まれた。

  ②、インディーズレーベルの形骸化

   ・当初は自由度の高い作品づくりがインディーレーベル設立の動機だったが、80年代半ばになると、ビジネス面での優位さが注目を集める。インディーマーケットでは、多額のプロモーション費用・流通費用などをかけなくとも、確実に数千単位の新譜を売りさばけるのだ。大手レコード会社がこの点に目をつけないはずがない。そこでインディーズシーンで活躍するアマチュア人気バンドの青田買いが始まり、インディー系からメジャー系へ鞍替えするバンドが続出した。ミュージシャンの側も、自由な表現を場としてではなく、インスタントに世に出られる場としてインディーズを選ぶようになった。その結果、80年代後半のインディーズシーンは、メジャーシーンへの1ステップにすぎなくなってしまった。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(7) テクノ/ニュウェイブ時代の到来 1979~82年

1、テクノ/ニュー・ウェイヴ時代の到来

 ・70年代前半に始まるニュー・ミュージックは、そもそも形骸化し体制化した歌謡曲やGSに対する反動として生まれたフォークやニュー・ロックを母体としていたが、ニュー・ミュージックという言葉が定着する70年代後半になると、本来のフォークやニュー・ロックのもつパワーを欠いた歌手までが“ニュー・ミュージックの旗手”となった。こうして似非ニュー・ミュージックがポップ・シーンを闊歩する頃になると、そのカウンター・カルチャー(対抗文化)として、テクノ・ポップやパンク/ニューウェイブという新しい潮流が誕生するのであった。

2、テクノ・ポップ

 (1)、テクノ・ポップという言葉について

  ・テクノ・ポップは、70年代後半の細野晴臣のエキゾティック・サウンドとコンピュータが出会ったところに成立したといわれるが、実際にマーケティング用語として定着するのはYMO全盛期の81年のことであった。この用語そのものはYMO自身の自作で、英米では同種のポップをエレクトロ・ポップと呼んでいたが、日本ではシーンが形成されたのに対して、英米ではシーンと呼べるほどのものは生まれなかった。つまり、テクノ・ポップもまた日本独自のポップ/ロックの区分なのである。

 (2)、テクノ・ポップのはじまり

  ・1978年に発表されたYMO・イエロー・マジック・オーケストラのデビュー盤がテクノ・ポップの出発点である。当初は理解されなかったが、A&Mと契約して『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発表、欧米ツアーを敢行してから完全にブレイク、以後YMOは、83年の「散開」まで日本のロック/ポップ・シーンに君臨し続けた。

 (3)、テクノ・ポップの展開

  ・このYMO、そしてYMOが強い影響を受けたクラフトワークやディーヴォなどの足跡をたどるようにして多数のテクノ・ポップ・ミュージシャンたちが出現する。ヒカシュー、英国ラフ・トレードよりデビューしたプラスティックス、「テクノ」と呼ばれるのを潔しとしなかったP・モデルなどがその代表格で、彼らは後にテクノ・ポップ3大バンドと呼ばれるようになった。

  ・べテランミュージシャンにもテクノは影響を及ぼす。たとえば、ムーンライダーズは『ヌーヴェルバーグ』以降テクノ/ニュー・ウェイヴ路線を明確化、ディーヴォそのものといった衣装で舞台にに登場することもあったし、あがた森魚もヴァージンVSでテクノ化を果たしている。また、日本ロックの樹系図の上では細野と最も遠い位置にいた近田春夫までYMOのサポートで『天然の美』を制作した。ラディカルなガレージ・パンクを彷彿とさせたシーナ&ロケットが細野プロデュースでテクノ・ポップとして再生し、ハワイ~ニュー・オリンズ指向だった久保田麻琴と夕焼け楽団が、サンディ&サンセッツとしてテクノ&エスノの世界を築くようになったのもこの時期のことだ。

 (4)、テクノ歌謡

  ・80年代前半に活躍したほとんどのミュージシャンがテクノ・ポップと何らかの形で関わりをもち、さらには82年にイモ欽トリオに代表される「テクノ歌謡」がポップ・シーンを席巻した。

3、パンク/ニューウェイブ

 (1)、意義

  ・テクノ・ポップがテクノロジーとの密接な関連から「産業革命的」な潮流だったとすれば、パンク/ニューウェイブは「無産・プロレタリア革命的」な潮流だった。テクノの主要ミュージシャンは、50~60年代にまでつながる音楽的財産と人脈を持っていたが、パンク/ニューウェイブは、財産も人脈もろくにないミュージシャンが中心であったからである。

 (2)、パンク/ニューウェイブのはじまり

  ・最初のムーヴメントは東京ロッカーズである。東京ロッカーズとは78年にオープンしたS・KENスタジオを拠点として活動し始めたミュージシャンたちのグループで、S・KENを始め、紅とかげ(後のリザード)、フリクションなどがその核となっていた。彼らはロンドンやニューヨークのパンクを意識しながら、体制化したロックやニュー・ミュージックに刃を突きつけるような音を求めて、小ホールやライヴ・ハウスで積極的に活動、同輩・後輩のミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

 (3)、パンク/ニューウェイブの展開

  ・東京ロッカーズの動きに刺激されて、東京ではゼルダ、スターリンなどがそれぞれ個性的な活動を展開、関西でもINUなどを擁するパンク・シーンが出現した。モッズ、ロッカーズ、ルースターズなどの「めんたいビート」が築いた博多パンク・シーンもおなじ流れのなかで生まれたものだ。また、パンク・ムーヴメントと直接的な関係の薄かったアナーキーもパンクの嵐のなかで支持層を拡大した。こうした動きに呼応して、ゴジラ、ピナコテカ、シティ・ロッカー、テレグラフなどのインディー・レーベルやライヴ・ハウスも続々と生まれ、メジャー会社に頼らずともロックが自己主張できる時代に突入した。

4、“オールド・ウェイヴ”の底力

 ・以上のふたつの大きな潮流がこの時期の日本ロックを特徴づけることは確かだが、従来ニュー・ミュージックという言葉でくくられてきたアーティストも、“オールド・ウェイヴ”の底力とでもいえそうなパワーをみせつけた。たとえば、パンクとシンクロしながらブレイクしたRCサクセション、『ロング・バケーション』でポップ・シーンを揺さぶったナイアガラの大滝詠一、ナイアガラから生まれた山下達郎などがその代表だ。松任谷由実やサザンオールスターズなどが手にしたマーケット支配力も、ひょっとするとこの動乱のテクノ/ニュー・ウェイヴ期を乗り越えることで初めて身についたのかもしれない。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(6) ロックの多様化とニュー・ミュージック 1973-78年

1、ニュー・ミュージックについて

 (1)、定義

  ・ニュー・ミュージックとは、移入文化としてのロックを音楽的なベースとしながら、日本固有の「現在」を表現しうる新しいポップの体系を構築しようとする試み全体であると。言い換えれば、ニュー・ミュージックとは、移入音楽・ロックをいかなる形で受け入れるかという試行錯誤のプロセス全体だったのである。なお、1970年代中盤以降の歌謡曲化したフォークを「ニュー・ミュージック」ということもある。

 (2)、期間

  ・ニュー・ミュージック期ははっぴいえんどの解散した1973年に始まり、YMOが結成され、サザンオールスターズがデビューした1978年に終わる。この六年間は、日本が第一次石油ショックを克服して変動相場制下で成長を継続し、第二次オイル・ショックを主因とした安定成長に移行するまでの時期と一致する。すなわちニュー・ミュージックは、高度成長末期を象徴するポップであり、モノの価値が相対化され「絶対」という基準が遠ざかる時期に開花したポップだった。

 (3)、日本語ロック論争

  ①、日本語ロック論争とは?

   ・1971年~1972年にかけて、はっぴいえんどの評価をきっかけとして、「日本語ロックか英語ロックか」をテーマに行われた論争。しかし、この論争の背後には、移入文化・ロックを絶対的な基準として受け入れるか(絶対ロック派)、ロックを日本という文脈で相対的に評価しながら受け入れるか(相対ロック派)というロックの評価とその受入れ方をめぐる論争でもあった。

  ②、絶対ロック派

   ・絶対ロック派の代表格は内田裕也である。彼のプロデュースによる「ワン・ステップ・フェスティバル」は、“ロックという普遍性”を布教するための一大イベントだったが、ここにおいて展開された日本ロックの多彩さは、80年代のロック/ポップの状況を先取りするものであった。カルメン・マキ&OZや紫といったハード・ロック系バンドが大きな支持を集めたのもこの時期の特徴だ。彼らの存在が80年代以降のヘヴィメタ・ブームのベースとなっている。また日本のロックバンドクリエイションもフェリックス・パパラルディ(FELIX PAPPALARDI)とのコラボレーションを実現し、世界レベルで通用する日本のハード・ロックが確立された。

  ③、相対ロック派

   ・相対ロック派を先導したのははっぴいえんどだ。彼らは1973年の解散後も、幅広いポップのエッセンスを吸収しながら、それを日本という風土の中でいかに具体化するかを追求し、新しいニュアンスのポップの体系を問い続けていった。はっぴいえんどからはキャラメル・ママ/ティン・パン・アレー(細野晴臣)とナイアガラ(大瀧詠一)という二つの大きな潮流が生まれたが、この二つの潮流からは多数の個性的なアーティストが巣立っている。たとえば荒井由実、山下達郎(シュガー・ベイブ)、吉田美奈子、あがた森魚、矢野顕子、ムーンライダーズ等々である。彼らはいずれもロックの相対化を通じて独自の世界を構築していった。

  ④、結果

   ・70年代の日本ロックは、こうして相対ロック派と絶対ロック派との相克を一つの軸として展開するが、結局は相対ロック派に収束することになるのである。しかしこの時期の絶対ロック派の活動が相対ロック派に及ぼした影響も無視できない。

 (4)、ニュー・ミュージック期

  ・ニュー・ミュージック期の主役は、相対ロック派・はっぴいえんど→ナイアガラ/ティン・パン・アレー系人脈であり、彼らと交流しながら独自性を獲得したサディスティック・ミカ・バンド系人脈であった。彼らの試行錯誤がシーンに与えた影響は絶大で、その後のポップは彼らの描いた軌跡を軸に展開したといってよい。80年代に入ってからのYMOおよび大滝詠一の大成功もその証しだが、松田聖子プロジェクトを経てユーミン帝国・サザン帝国へと至る潮流も彼ら抜きでは語れない。はっぴいえんど解散に始まるニュー・ミュージックは、ユーミンのブレイクおよびサザンオールスターズのデビューに帰結し、さらにYMOの結成によって乗り越えられることになるのである。

2、ロックの多様化

 ・ロックの大衆化に大きな役割を果たしたキャロルの登場も手伝って、ロックもしだいにビジネス的な裏づけを与えられるようになり、ロック専門レーベルも設立された。ロック系レコードの発売タイトルも増加し、コンサートの動員力も増し、ライヴ・ハウスも定着、以前は注目されなかった地方のロック・バンドやブルース系のミュージシャンも活動の場を広げていく。70年代の終盤には、ゴダイゴ、甲斐バンド、ロック御三家(原田真二・桑名正博・チャー)もブレイクした。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)


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