ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本のロック史(5) 日本ロックの誕生 1968-72年

1、ロックに精神性・思想性・芸術性が問われるようになる

 (1)、英米の動向

  ・60年代末のニュー・ロックの時代に入ると、英米ではたんなる8ビートの循環コードを基本とするポップはもはや“ロック”と呼ばなくなっていた。世界的な反体制運動に呼応するように、既成のポップや芸能の秩序を解体する意思を備えていることが、“ロック”の特性となった。ロックは、その精神性や思想性、芸術性を問われるようになったのだ。

 (2)、日本の現状

  ・日本のポップには、英米のこのような新しい潮流を消化するだけの技量も伝統もなければ、PAシステムなど高度化し巨大化するロックのツールを利用するだけの資金的蓄積もなかった。こうした状況を打破したのが、1968年に「帰って来た酔っぱらい」の大ヒットを放ったフォーク・クルセダーズと、『ジャックスの世界』で衝撃的に出現したジャックスである。

2、日本ロックの誕生

 (1)、総論

  ・1970~80年代にかけての“日本のロック”に直接的につながるという意味で、フォークル、そしてジャックスこそが最初の“日本のロック”だった。ロカビリーも、六〇年代アメリカン・ポップスも、エレキ・インストも、GSも、それぞれが日本のロックに遺産を残した。が、現在の日本に“ロック・シーン”あるいは“ロック的シーン”があるとすれば、それはフォークルとジャックスの先駆的な活躍を抜きには生まれなかったものだ。したがって、フォークルとジャックスが活躍した1968年こそ日本の「ロック元年」なのである。

 (2)、アングラ・アンダーグラウンド・シーン

  ①、アングラ・アンダーグラウンド・シーンとは?

   ・フォークルとジャックスはいわゆるアングラ・アンダーグラウンド・シーンから登場した。このシーンは、既存のポップ・カルチャーのシステムを拒んだところに成立していた。その支持層はGSアイドルに熱狂したティーンズではなく、大学生など20歳前後が中心で、反体制運動の前線に立つ世代と一致していた。音楽的には旧体制・GSへの反動もあり、彼らはニュー・ロックよりも知的でサブカルチャー的な印象の強い、ボブ・ディランなどのニュー・フォークを好んだため、このシーンで活躍したミュージシャンの多くが“フォーク”シンガーだった。アングラ・シーンの象徴的存在だった日本最古のインディー・レーベル“URC”を拠点に、高石友也・岡林信康などが「反戦フォーク」「関西フォーク」とも呼ばれたアングラ・フォークの旗手として活躍し、日本のウッドストックに例えられる全日本フォーク・ジャンボリーなどの時代的なイベントを先導した。

  ②、先駆者はっぴいえんど

   ・このアングラ・シーンを足場に、今もなお日本のロックに強い影響力をもちつづけている細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の四人から成る“はっぴいえんど”がデビュー、フォークルとジャックスが先鞭をつけ、「日本のロック」の進むべき道を示した。フォークルとジャックスが日本ロックの無意識の創始者とすれば、『はっぴいえんど』と『風街ろまん』の二枚のアルバムによって「日本語ロック」を確立したはっぴいえんどは、日本ロックの意識的な創始者といえるかもしれない。

  ③、他のアングラ・シーンのミュージシャン

   ・アングラ・シーンからは、このほか遠藤賢司、高田渡、加川良、三上寛、あがた森魚、友部正人、はちみつぱい(後のムーンライダーズ)など、その後の日本ロック/ポップに影響を与えた個性的なミュージシャンも登場、さらにこのシーンの周辺から、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるなども登場している。

 (3)、アングラ・シーン以外から現れたミュージシャン

  ・天才ギタリスト・竹田和夫のブルース・クリエイション、GS系ながらニュー・ロックに精通していたゴールデン・カップスやスピード・グルー&シンキ、70年代始めに日本最高のギタリストといわれた成毛滋、元ジャックスのつのだひろ、日本のロック・バンドとして初の本格的な海外遠征も果たしたフラワー・トラベリン・バンド、パンク以前のパンクともいえる村八分、政治状況をそっくり背負い込んだかのような頭脳警察、元フォークルの加藤和彦が結成した伝説のバンド、サディスティック・ミカ・バンド、矢沢永吉のキャロル、桑名正博のファニー・カンパニーなど、1972年頃までに今も日本ロックを導くビッグ・ネームがほぼ出そろった。

 (4)、ロックと商業的な成功

  ・黎明期にして多様な指向性を示していた日本ロックだったが、フォークルや岡林などアングラ系の一部を除いて、ビジネス的な成功とはほど多かった。“ロック”がビジネスとして成立するためにはつぎの時代を待たなければならなかったのである。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(4) ビートルズの落とし子・GS 1966-68年

1、ビートルズの来日

 (1)、ビートルズの来日

  ・1966年6月28日~7月3日にビートルズが来日する。これをきっかけとしてビートルズに熱狂する少女が急増し、これをとりあげるマスコミ報道も過熱した。彼らの音楽や長髪の是非をめぐる議論、ビートルズを通じた少女たちの不良化という議論まで起こった。

 (2)、グループ・サウンズの時代へ

  ・すでにエレキ・インスト期に電気楽器はアマチュア・レベルまで広く普及し、こうした楽器を使った小編成のバンドも珍しくなくなっていた。このような状況下、プロ・アマを問わず日本のエレキ小僧たちが、ビートルズの来日を期にベンチャーズからビートルズなどリヴァプール系サウンドの模倣に走った。グループ・サウンズ(GS)時代の始まりである。

2、グループ・サウンズについて

 (1)、GSのはじまり~スパイダースとブルー・コメッツ~

  ①、スパイダースとブルー・コメッツ

   ・GSブームの先陣を切ったのはスパイダースとブルー・コメッツである。両者とも本来ロカビリー/C&W系のバンドだったが、スパイダースは1966年に全曲オリジナルの『ザ・スパイダース・ファースト・アルバム』で完全にリヴァプール化、ビートルズ来日に先だってGSの原型を確立した。一方、ブルー・コメッツーは、リヴァプールの影響を受けた大ヒット「青い瞳」を1966年に発表て以降、独自のGSサウンドを定着させた。

  ②、日本のGSの傾向

   ・スパイダースに象徴されるように、GSがリヴァプールに触発されて生まれたことはたしかだが、そのヒット曲の系譜は、ブルコメに由来する“歌う哀愁のエレキ・バンド”という道を歩み、リヴァプール・サウンドとは似て非なる世界が描かれたのであった。

 (2)、GSの最盛期~タイガースとテンプターズ~

  ①、タイガース

   ・GSという呼称が一般化したのも1967年~1968年だが、その代名詞のような扱いを受けたのがジュリー(沢田研二)を擁するタイガーである。1967年発売の「シーサイド・バウンド」で一気にスターダムにのし上がると、以後「モナリザの微笑」「君だけに愛を」「シー・シー・シー」など立て続けに大ヒットを放ち、その人気は他のGSを圧倒した。

  ②、テンプターズ

   ・タイガースをビートルズにたとえれば、ローリング・ストーンズはショーケン(萩原健一)を擁するテンプターズだった。埼玉県大宮出身の彼らは、アマチュア時代からストーンズやビートルズのカバーが得意だったが、1968年の「神様お願い」でブレイク、同年の「エメラルドの伝説」でその人気を確立した。

 (3)、その他のGS

  ・モッズ系のカーナビーツ、失神パフォーマンスのオックス、フォーク・ロック系のワイルド・ワンズのほか、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、ゴールデン・カップス、モップス、パープル・シャドウズ、リンド&リンダーズ、ダイナマイツ、フィンガーズ、フラワーズなどを主要なGSとして挙げることができる。

 (4)、GSブームの終焉

  ・GSブームも1968年暮れから1969年にかけて急速にしぼんでいく。ブームの仕掛人・ブルコメが、1968年発売の「さよならのあとで」のヒットによってGSサウンドに訣別、以後ほとんどのGSは歌謡曲化した。こうして、ロカビリーに始まる日本の“ロック先史時代”は、GSの歌謡曲化とともに終わりを告げるのであった。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)


日本のロック史(3) エレキ・インスト・ロックの波 1964-65年

1、意義

 ・アメリカのポップ・シーンをなぞっていた日本の“ロック先史時代”だったが、東京オリンピック開催の1964年を境に独自の方向性を示す。この年、アメリカがビートルズ中心の展開となっていくのに対して、日本はベンチャーズに代表されるエレキ・インスト・ロック中心の展開となっていくのであった。

2、歴史 
 (1)、はじまり

  ・アメリカの無名インスト・バンド、アストロノウツが“サーフィン・ブーム”に火をつけた。彼らの「太陽の彼方に」が評判となり、この曲に日本語詞を載せた藤本好一(ブルー・ジーンズ)のカバーが大ヒット、さらに橋幸夫の和製サーフィン「恋をするなら」の爆発的なヒットによって、日本のサーフィン・ブームは頂点に達した。

 (2)、エレキ・ブーム

  ・ストロノウツの先輩格であるベンチャーズの人気も沸騰し、1964年から1965年にかけて、彼らは「パイプライン」「キャラバン」などのヒットを立て続けに放ち、日本の若者たちのあいだに一大エレキ・ブームを巻き起こした。彼らに触発されて、寺内タケシのブルー・ジーンズや東宝の若手俳優・加山雄三が率いるランチャーズを筆頭に、ベンチャーズ・スタイルのバンドが続々と登場した。

  ・東京オリンピックに合わせて急速に普及したテレビもこの傾向を加速した。フジTV「勝ち抜きエレキ合戦」をきっかけに各局はバンド・コンテスト番組をこぞって放映、日本中のエレキ少年が番組出場をめざして秘かに腕を磨いた。そのなかに、のちに日本のロックを背負うことになる人材が多数含まれていた。
<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(2) 翻訳ティーン・ポップの興隆 1960-63年

1、翻訳ポップスとは?

 (1)、意義

  ・日本でもアメリカと同じように「ロックンロールの終焉、ロカビリーのソフト化」という道をたどり、60年代に入ると白人中産階級的なポップがもてはやされるようになった。新しい感覚をもった訳詞家がつぎつぎに登場、彼らが描いた一種の“アメリカン・ドリーム”を、戦後世代の若々しいシンガーたちが歌い、全国のティーンズがこれに夢中になる、という新たなパターンが生まれた。

 (2)、歴史

  ・翻訳ポップス時代は、ロカビリー三人男がニール・セダカ(Neil Sedaka)「恋の片道切符」をそろってカバーした1960年に始まる。また、1959年に始まったのフジTV「ザ・ヒット・パレード」も重要なポイントである。この番組は、翻訳ポップスの普及に大きく貢献したばかりか、ザ・ピーナッツなどのビッグ・スターも育て、後の洋楽紹介番組の原型ともなった。

 (3)、代表的ミュージシャン

  ・この時期に登場または活躍した男性アイドルには、ダニー飯田とパラダイス・キング(ボーカルは坂本九)、ブルー・コメッツ(ボーカルは鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、飯田久彦、竹田公彦、佐々木功、ほりまさゆきなど、女性アイドルには、ピーナッツのほか、森山加代子、田代みどり、弘田三枝子、中尾ミエ、ベニ・シスターズ、青山ミチ、梅木マリ、安村昌子、渡辺トモコなどがいる。

2、ツイスト・ブーム

 (1)、ツイスト・ブーム

  ・翻訳ティーン・ポップ期は、1962年のツイスト・ブームでその頂点を迎える。日本でのブームはチャビー・チェッカー(Chubby Checker)「ザ・ツイスト」のカバーに始まり、藤木孝などのツイスト名人を生みだしつつ小林旭や美空ひばりをも巻き込んで、1962年中には収束してゆく。

 (2)、坂本九の「上を向いて歩こう」

  ・翻訳ティーン・ポップ末期の1963年に坂本九「上を向いて歩こう」が、英題「SUKIYAKI」として全米ナンバー1に輝いている。この成功はあくまで偶然の産物だったが、これ以降、日本のポップ界はアメリカ市場への参入を繰り返し試みるようになった。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

日本のロック史(1) 「進駐軍ポップ」からロカビリーへ 1956-59年

1、進駐軍ポップ

 ・1945から1950年代前半にかけて、米軍がもちこんだポップの影響を受け、ブルース、ブギウギ、マンボなどの要素が流行歌のなかに入り込み、ハワイアン、カントリー&ウエスタン(C&W)、ジャズなどがブームになった。こうしたポップのうち、日本ロックの生い立ちにもっとも深い関係をもったのはC&Wであった。

2、ロカビリー・ブーム

 (1)、アメリカ

  ・1950年代半ばのアメリカでは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒット、1956年にはプレスリーが登場するなど、ロックンロール/ロカビリーの時代を迎えていた。

 (2)、ロカビリー・ブーム

  ①、ロカビリーの時代へ

   ・アメリカの影響をうけて、折からのC&Wブームですでに人気のあった小坂一也がプレスリー「ハートブレイク・ホテル」のカバー・ヒットを放ち、時代は一気にロカビリーへと突入した。

  ②、ロカビリー三人男

   ・小坂を見て、他のC&Wバンドも続々とロカビリー化、1958年になると、平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎の「ロカビリー三人男」がそろってレコード・デビュー、2月には渡辺プロの肝煎りで、ロカビリーの祭典「第一回日劇ウエスタン・カーニバル」が開かれ、ロカビリー・ブームは本格化した。

 (3)、カバーからオリジナルへ

  ・和製ロカビリアンは、当初、本場のロックンロール/ロカビリーのカバーに専心したが、1959年になるとカバー・ヒットは後退し、オリジナル・ヒットが台頭する。オリジナル曲の先駆けは平尾昌章の「星はなんでも知っている」であり、この曲は15万枚もの売上げを記録した。これ以降、大半のロカビリアンが歌謡曲化し、ブームは急速に冷めていく。

<参考文献>

 『J-ROCKベスト123』(篠原章、講談社、1996)

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