ラジオFMのメモ

NHK-FMWorld Rock Nowでの渋谷陽一氏の解説で面白かったものをメモしてゆきます。

日本ポップス伝2(10) 服部ブルースの後継者たち

1999年 大瀧詠一の日本ポップス伝2第二夜より

 昭和8年に、ジェームズ・キャグニー(James Cagney)が主演で「Footlight Parade」という映画がありました。ミュージカルみたいなものですが、後半の方ですけれども上海が舞台になっていまして、そこでリルという女の子を探すシーンがあるんです。そこで歌われていたのが「Shanghai Lil」という歌なんです。これが日本でも流行りまして、日本の人も「上海リル」という歌でカバーしているですよ。江戸川蘭子さんのバージョンで聞いてみます。



 この曲は吉田日出子さんなんかも得意なレパートリーにしています。戦後になってこの「上海リル」で、探していたリルはどこに行ったのだろうかということで、リルを探そうじゃないかということを思いついた人がいるんですよ。東条寿三郎さんという作詞家の方ですけれども、当時NHKで「尋ね人の時間」という番組があったんですね。それを聞いて思いついたらしいんですね。それで、東条さんが思った所のリルを探そうじゃないかということで、作曲家の人に頼んで、作曲家が渡久地政信さんという方なんですけれども、渡久地さんと一緒に作ったんです。出だしのメロディーはあえて「上海リル」であることが分かるように作っています。それが「上海帰りのリル」という歌です。



 タンゴになっているんですね。こういう服部さんのブルースにタンゴを入れるというのも、一つの新機軸ですね。こういう流れの中で、いろいろ試行錯誤されていったものなんですよね。歌っていたのが津村謙さんという方で、「天鵞絨(びろーど)の歌声」と言われておりまして、大きく言うと藤山一郎さんの流れの歌手がたくさんでますけれども、その中の一人です。大笑いな事に、この後に続編が山のように作られます。それからカバーバージョンみたいなものも。「霧の港のリル」、「私がリルよ」、「私は銀座リル」とか、実は私がリルなんだって名乗り出る人も随分でてきたらしいんです。それで、翌年映画化されました。それで続編もできましたけれども。この曲の中で「ハマのキャバレーにいた」ってう歌詞がありましたが、そのハマのキャバレーにいた子はどこにいったんだろうかと考えた人が、阿木燿子さんなんですね。それで、旦那の宇崎竜童さんが、「ちょっと前なら覚えちゃいるが」「あんたあの娘のなんなのさ」って聞いていたでしょ。名前が「リル」から「ヨーコ」になってましたけれどもね。そういうことがありまして、だんだん変わっていったりするんです。これは戦後の昭和26年ですけれどもね。渡久地政信さんもこういうタイプの、服部ブルースの後継者だったと私は思いますけれどもね。続きまして、また服部さんの流れの中で、それを踏襲してさらに大発展させたという作曲家が出てきます。その人の名は、吉田正さんという方です。「哀愁の街に霧が降る」。



 今度は霧が降ってますね。霧が降っていましたけれども、哀愁も入っていましたね。今度は霧に哀愁も入れたんですね。哀愁を入れたのは佐伯孝夫さんといいまして、西條八十門下なんですね。この佐伯孝夫、吉田正というコンビは、ほとんどのヒット曲を作りますよね。だから、吉田さんだけでも一本番組を作らなきゃだめだって思いますけれどもね。佐伯孝夫、吉田正といえば、なんといってもこの曲しかないと思います。「有楽町で逢いましょう」。



 例えば西條八十、中山晋平の「東京行進曲」で流行歌の歴史が明けたという風に言いましたけれども、東京からさらに個的に有楽町という風に地域がだんだん限定されていくんですね。ディック・ミネさんはあの頃は国が大陸に向かっていましたから、東京から上海なわけですよ。戦後になりましたので、大陸から引き揚げてきましたから、東京から有楽町に行くということなんじゃないですかね。だから、これはある意味戦後の「東京行進曲」に匹敵するものなんじゃないかと私は思いましたね。ここまで聞いてくると、あの曲と言われてもどれがどれだかさっぱり分からないという風になると思うんですけれども、かなりジャンルとして出来上がってきました。出来上がってきましたので、これは出来上がったものだとしっかりわかって、揶揄しているグループが1967、68年くらいに登場するんですよ。ザ・フォーク・クルセダーズといいまして、フォークルさんは、有楽町から始めて、これを揶揄するメロディーを作っています。

 さすがに加藤和彦さんですよね。歴史をわかっているからこういう揶揄ができるんだろうと思うんですけれども、ツギハギしてもちゃんと一曲になると、そのくらいジャンルとして完璧にできあがったということではないのでしょうか。このようにジャンルとして確立されてくると、あとは小物で少し色をつけようとそういう風になってくるものですよ。今の「有楽町で逢いましょう」にハワイアンとコーラスを入れたものを聞いてみましょう。

 ハワイアンが入ってむせび泣いている感じが入ってきましたよね。ここにハワイアンとコーラスといものも入れてみたら入るんですね。入れてみたらはいるって、これが吉田正さんの素晴らしい着眼点だったと思うんですよ。さらにこれに磨きをかけて、マヒナサウンドというものが出来てくるわけでございます。「泣かないで」。



 ハワイアンの人は別にこういうムーディーなものという意味合いでやっていたのではないのでしょうけれども、確かにハワイの浜辺でハワイアンを聞いたらムーディーはムーディーかもしれませんけれども。石原裕次郎さんもウクレレを使ったサウンドでデビューしているんですよね。だから最初からこういうハワイアンをやっていたわけで、バッキー白片とアロハハワイアンズが同じレコード会社でバックだったんですよ。それをバックにしまして、そのバッキーさんが作曲した曲を石原裕次郎さんが歌っております。「俺はお前に弱いんだ」。



 これはセリフですよ。みんないろいろアイディアを考えるわけですね。徐々に進化というか変化というかいろいろなことがあるわけでして。それで、タンゴが入ってきたり、ハワイアンが入ってきたりしました。昭和30年代には、日本ではマンボーがブームになりまして、ラテン的なものもだんだん入ってくるようになるんですよ。「東京ナイトクラブ」。



 銀座から赤坂にいった感じがしますね。ナイトクラブですからもう大人のものですね。高峰三枝子さんがもう松尾和子さんになっちゃいましたから。出だしはラテンで「キエン・セラ、キエン・セラ」というのが入っているんですね。それを使って、実はラテンも入ると。もう何でも入るんですよ。それから、デュエットですね。大人もデュエットといえば、定番が出来ちゃうんですよね。「銀座の恋の物語」。



 「東京ナイトクラブ」じゃなくて、こっちが定番として選ばれたのは何かわけがあるんでしょうかね。こういう男女デュエットというのはフランクさん松尾さん、松尾さんマヒナという風に、吉田正さんの定番だったんですけれども、それを踏襲して石原裕次郎さんもデュエットをして、裕次郎さんの方が定番になったことは結果的に面白いですよね。ただ、裕次郎さんが真似したというよりもディック・ミネのラインの継承なわけですよね。それでディック・ミネさんの「夜霧のブルース」も裕次郎さんは歌っています。



 夜霧というのはこういうタイプの曲にはついて回りますけれども、夜霧というと裕次郎さんの夜霧もまたあるんですよね。「夜霧よ今夜もありがとう」。



 むせび泣きのサックスフォーンが流行ったんですよ。日本でサックスフォーンといえばこの人と言う人がいまして、その人の名をサム・テイラー(Sam Taylor)っていうんです。Harlem Nocturne。



 この曲で笑うのは日本人だけでしょう。使われる場所が使われる場所だったんですよね。これとかTabuとか加藤茶がやっていたでしょ。この曲はそういうもののBGMに企画されたものではないんだけれども、そういうように使われてしまったので、我々もそれが背景にあるので何故か笑ってしまうんですね。これが、さらにサービスしようということで、サービスもだんだん濃くなっていきます。「恍惚のブルース」。



 サービスしてるでしょ。これは浜口庫之助さんなんですよね。次は恍惚ですよ。「雨のブルース」や「別れのブルース」を歌ったブルースの女王、淡谷のり子さんの後輩がこうなったんですよ。青江三奈さんはこの後に「伊勢佐木町ブルース」というのが出てきまして、ですから、上海から銀座に来て、赤坂に来て、伊勢佐木町に行くんですよ。伊勢佐木町に行くと、ジャンジャン地方に行くんですよね。「港町ブルース」。



 最初はバックがむせび泣いていたけれども、本人もむせび泣いている。気仙沼まで行きました。こうなったら全国行くしかないでしょ。その後、柳瀬とかとにかくいろいろ行きます。シリーズ化していくということは、地方を変えるということが一つのパターンではあるんですよね。気仙沼に行ってましたけれども、南の方にも行こうということで、「長崎は今日も雨だった」。



 これは森進一の「花と蝶」を作った彩木雅夫さんの作曲の曲です。この前川清の歌唱法に一時期どっぷりとはまっていたというのが、ニューミュージックというかロックのあの有名な桑田佳祐です。


 「長崎は今日も雨だった」のイントロ、マヒナのコーラスが入っていましたけれども、いろいろなコーラスを持ってくるんですね。フィフティーズのこういうグループがあったんですけれども、そういうのを入れて、例えばザ・キング・トーンズなんていうコーラスグループを持ってきて。彼らはR&Bの日本語化と思ったんですけれども、日本の人はこのラインでとらえたんですよね。実は、これが日本の大きな流行歌というものの幹なのです。服部さんから始まって、延々いろいろなものを入れながら、だんだんサービスも濃く濃くなっていって、成り立っていったということですね。それで、いろいろな形に変貌してというか、個的なものを取り入れていったことが、先ほどの桑田佳祐のようにあると思うんですよ。西田佐知子さんの時の話も中島みゆきさんとか竹内まりやさんとかありましたけれども、ついでだから、フランク永井さんは僕はあるんです。だからそういうようなものでだんだん形が変わって、中にそういうような香りが入っている、それで徐々に受け継がれつつ変貌していくというのが私のポップス論です。最後に全国縦断をして、「全国縦断追っかけのブルース」というのがありますので、それを聞いていただきます。


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